女子カーリング そだねージャパンに対する反感について、考察をしました。 [スポーツ理論・スポーツ批評]

 今、男子のカーリング決勝、アメリカ×スウェーデンやっている。男子の試合も面白い。さて、女子カーリングの日本チーム、人気が出て注目が集まると、ツイッター上などにアンチな人、意見もたくさん湧いて出てきて面白い。興味深いです。おしゃべりしたり座っておやつ食べるな、だらしない、とか、試合開始前の選手紹介で「にっこにこにこにー」してふざけているとか、試合中から泣くなとか、試合中ニコニコしすぎとか、試合終わった後のインタビューで泣きすぎとか、方言、子供がマネするからやめろとか、自分のことかわいいと思ってるみたいでわざとらしくて嫌という女性からの意見とか、スレンダー美人が好みの男性からは、太っているだけで別にかわいくないとか、まあ、いろんな意見があって面白い。
 オリンピックなのに、女子の日常まるごと丸出しな感じに、(人気の理由の一端はそこにあると思うわけですが、)反発を感じる人もいるようです。それはそれとして、スポーツ競技としてのカーリング、ということ自体への反感、というものもあって、それについて考察すると、スポーツの起源とか、日本のスポーツ文化、みたいなことがいろいろ見えてくるので、ちょっと思いつくことを書いていきます。
 古代オリンピックは、兵士でもあるギリシャの市民が、その兵士としての技を競うという意味があったわけで、たしかトロイ戦争を描いた『イリアス』(ホメロス著)読んだときにも、従軍途中の暇つぶしに、やり投げだのレスリングだのの腕を競い合うというエピソードがあったような記憶が。(昔読んだのでおぼろげな記憶ですが。。「狩りの腕を競う」能力と「戦争のための技量を競う」のは、まあ近い能力なので、そこらあたりから、オリンピックで競う競技というのは発生したわけです。
 槍を投げたり石を投げたり、高く跳んだり速く走ったりというのは、どれも狩りをするのに必要な能力ですし、隣の部族と戦争になったときにも頼りになる人ですから、それができる人は、部族全体の生存に貢献する偉い人なわけです。
 冬のオリンピックでその色彩を最も色濃く残しているのは「バイアスロン」ですね。日本ではほとんど注目されませんが、ちゃんと今回もBSで放送していました。鉄砲かついで長距離スキーで走っては、10発ずつ的を撃ってはまた走る。一発外すごとに150mだっけ、余計に走らないといけない、という競技です。私の息子、陸上自衛官として札幌真駒内駐屯地に勤務しているわけですが、初めて札幌に行った冬は、ひたすらスキーの練習させられた、と言っております。鉄砲と装備を20キロとか30キロとか担いでスキーですべる、というのは雪国軍隊の軍事教練なわけです。
 ところが一方、スポーツには「暇つぶし」という意味もあるわけです。英語の辞書を引いてみればわかりますが「遊び」「暇つぶし」から「悪ふざけ」なんて意味まで出てきます。
 暇つぶしの遊びが、だんだんルールがはっきりしてきて、いろいろな競技に発展していくわけです。
 カーリングというのは、この「暇つぶし遊び感」がいちばん色濃く出ているために、「狩りや戦争」感をスポーツに求める人からは、不真面目とか言われてしまうのだろうな、と思うわけです。スノボなんかも、明らかに「遊び」起源ですから、元をたどると軍事狩猟を持つ「アルペン」「ノルディック」からは、なんとなく不真面目、遊んでるといって批判されちゃうわけです。(ちょっと前の腰パン問題とか、そういうことだと思います。)(ノルディックでもジャンプは、軍事教練よりもっとひどくて、囚人への刑罰起源です。)
 少し前にnhkのあさイチで、e-Sports(ビデオゲーム自体がスポーツとして認知され、ビッグビジネスになっていること)を特集したところ、テレビゲームのような暇つぶしの遊びと真剣神聖なスポーツを一緒にするな、という視聴者からの意見が出てきたのも同様かと思います。スポーツ起源の「生存に直結する狩猟・戦争起源のもの」と「暇つぶし遊び起源」のものに価値の上下をつけたくなる気持ちが、人類にはどこかに残っているのでしょう。
 とはいえ、現在においては、どのスポーツも、生存とは関係ないものとして「純粋競技化」しているわけで、そこで勝つための努力を、オリンピックに出るような選手は、どの競技者であっても、人生を賭けてしていることに変わりありません。日本の女子カーリングチームの、批判を食っている様々な振る舞いも、私は「勝つために戦略的に取っている態度」だと思ってみています。
 カーリングは、どんな上手な人たちでも、必ず失敗をする競技です。そして、自分の失敗が、チームに、後から投げる仲間に迷惑をかけとしまう、ということが、ものすごくわかりやすいスポーツです。集団スポーツには多かれ少なかれそういう側面はありますが、普通の集団球技などは時間が止まらず状況が連続的に変化し続けますから、自然に「次のこと」に意識が集中していきます。しかしカーリングは、一投ごとの結果「過去」が形としてはっきり残り、それが後の仲間に迷惑をかけ続ける、という「過去を引きずりやすい」競技です。
 野球もそういう側面はありますが、打率は一流選手でも3割。つまり7割は失敗です。サッカーのシュートの成功率(打った数に対する得点率)は、得点王クラスでも1割7分くらいです。8割以上は得点になりません。これに対し、カーリングの投擲成功率は8割程度が標準ですから、「成功して当たり前なのだが、2割くらいは失敗する」という、ちょうど失敗が責められやすい率の競技特性でもあります。
 日本人というのは、何よりも「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが大切という価値観の中で育ち大人になっていく民族です。つまり、ミスをした人は、非常に「自分が仲間に迷惑をかけた」ということを気にして、プレーが委縮しやすいメンタリティを持っています。日本人にとって、カーリングは、性格的に、実は向いていない、過酷な競技なのだと思うのです。
 これに対する、LS北見の取った作戦が、「とにかくニコニコする」「仲間が失敗したときこそ、みんなでニコニコする」「大きな声で、素の方言でしゃべりあう」「栄養補給は立ったままではなく、OLさんおやつタイムのように円陣を組んで座って食べる」「試合が終わった後は泣いたり笑ったり、感情は全部吐き出して、翌日には残さない」というようなことなのではないかと思います。
 真剣じゃないから笑っているんではない。緊張感がないからおやつを座って食べているんではない。失敗が仲間に迷惑をかけて積み重なってしまうという、日本人女子にとって過酷な競技特性だからこそ、勝つために、ああいう振る舞いをしているのだと、僕は思ってみています。。
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