米朝会談「中止⇒再開」の流れの中で、安倍さんは本当に「蚊帳の外」だったのか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ツイッターから。「澤田愛子 @aiko33151709 NHKの報道番組で安倍べったり政治部岩田明子がとんでもない「解説」をしたと。急速に進む朝鮮半島の平和と対話路線。米朝首脳会談も実現の見通し。これを岩田氏は扇の要に安倍氏を置いて安倍首相の功績だと宣伝した模様。安倍氏が蚊帳の外である事は今晩BBCも報道。こんな嘘は視聴者への詐欺になる。」
 この岩田解説員という人は、おそらくNHKの解説員史上、最低の政権べったり丸出し解説員なわけですが。解説内容もむごいですが、(記者→解説員なのでアナウンサーのようにしゃべれないのは仕方ないとして)、日本語としての話し方が、美しくない、聞き苦しい。前の文章の末尾語尾の母音を伸ばして次の文頭につなげてしまう。頭よさそうに聞こえるとでも思っているなら、直してほしい。聞き苦しいだけ。

 それはさておき、米朝会談の「中止→再開」の流れの中で、安倍さんの果たした役割というのは、ニュースの流れをきちんと見ていれば、この岩田さんが言うような「全部、安倍さんの手柄、影で安倍さんが動いたおかげ」であるはずもないわけですが、一方、野党や批判メディアが言うような「完全な蚊帳の外」でもないことは想像ができる。以下、長くなるが僕の考えを書いておきます。長いです。

 まず、安倍さんの政治的立場の特徴としての、「戦後政治家史上、最も露骨に戦争経済を推進する人」(軍事産業の輸出産業化をしたい人)である、という点から確認。そのうえで、(本当は国産化、国内軍事関連企業を助けたいなら、アメリカの軍事産業からの輸入には抵抗したらよさそうなものなのだが)、アメリカに対して媚を売る手段として、アメリカからの武器購入をどんどん推進する人である、という点も押さえておく。というわけで、安倍政権がしっぽを振っている「アメリカ」というのは、アメリカの中でも「戦争経済を推進するネオコン勢力」とのつながりが強い。ここまで確認。

 ここで問題なのは、トランプ大統領は、大統領選→政権発足当初は戦争経済・ネオコン勢力とは仲が悪かった、ということ。「アメリカ・ファースト」という内向き政策は、世界の警察やーめた、路線であったわけで、戦争経済屋にとっては、都合が悪い。実は民主党政権というのは、歴史を見てみても、わりとよく戦争をするので、ヒラリーが勝ってくれた方がありがたい。ということで、ヒラリーが勝つことを前提に、日米とも戦争経済屋は動いていた。のに、トランプが勝っちゃった、というのがいろいろな混乱のもとになっている。

 日本の外務省も安倍政権も、ヒラリーにしっぽふる気まんまんでいたのに、(そういう発言を選挙前にしてしまっていたのに)、トランプが勝っちゃってパニックになり、一転、世界にさきがけでトランプにしっぽふりに行ったというのが、トランプタワー訪問だった。

 政権発足後、紆余曲折あった中で、現国務長官マイク・ポンペオと、大統領補佐官ジョン・ボルトンと、右派戦争経済屋勢力が要職について、トランプと戦争経済屋の融和問題も、なんとか落ち着いたように見えたが、今、この二人、ポンペオとボルトンの立場が異なることが鮮明になったのが、この「米朝会談中止→一転再開」の事件だと思われる。

 端的に言うと、ポンペオは右派の中でも「現実主義者」で、ボルトンは「原理主義者」的傾向が強い。この二人の、対北朝鮮をめぐる主張の対立は、ポンペオは「段階的非核化でいい。とりあえず会談をして、前に進めたい」なのに対し、ボルトンは」CVID=検証可能で不可逆的な非核化をすぐやらないんであれば、戦争するぞ、」だ。

 ここで思い出してほしいのは、トランプは初め、「とにかく米朝会談をやろう」と言っていたのに、安倍さん訪米時の共同記者会見で「CVID」に言及した、ということ。トランプ大統領に「北朝鮮と非核化を話し合うならCVIDを呑ませないとダメだ」と吹き込んだのは安倍さん、日本だということは間違いない。そして、それを吹き込む協力相手は、おそらく、ボルトンさんだったのだろうということ。一時、その日本の工作が奏功したのは事実なのだと思う。

 トランプさんのこの態度変更で、北朝鮮も中国も、米朝階段に後ろ向きになる。梯子を外されたポンペオは立場がなくなる。調子にのってボルトン氏は米朝会談に逆向きな発言を繰り返す。北朝鮮としても、せっかく作った核をそう簡単に手放すことはできないわけで、どれだけたくさんの条件をアメリカから引き出せるか、じっくり時間をかけて交渉をしたいので、ボルトンの立場は容認できなかった。ので北朝鮮も過激な発言を繰り返すようになる。

 というわけで、(日本が頼る)ボルトン主導なら、北朝鮮は会談しないぞ、となり、トランプも書簡で、一度は「やめとこうか」となった。
 しかしポンペオの巻き返しで、トランプも「このままでは外交的成果ゼロになってしまいまずい」と判断。最終的にポンペオの敷いた路線でやっぱり会談はしよう、となった。

 ここ数日の、日本だけが浮いちゃっている状態と言うのは、(小野寺防衛相の「北朝鮮は信じるな」発言が、総スカン食っていることや、トランプが「最大限の圧力、もういいたくない」発言)、ポンペオ、ボルトンの、この件における主導権争いで、ポンペオが勝ったということ。そして、ボルトンに頼って「CVID、強硬路線」を主張した日本が、梯子を外されて、本当に孤立したということ。

 日本がこのプロセス全体の中で「ずっと蚊帳の外」だったという野党、批判メディアの主張もまちがっているけれど、「安倍さんの手柄」という与党、御用メディアの主張も全く的外れ。というのはこういうこと。

 私は国際政治や外交の専門家では当然ないのだが、ニュースをきちんと見聞きしていれば、この程度のことは普通、わかると思う。メディアは日大アメフトにさく時間があったら、こういうことをちゃんと伝えた方が良いと思います。
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ガルシア・マルケス『百年の孤独』 我が家のウルスラのリフォーム計画とともに発見される。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ガルシア・マルケス『百年の孤独』、今、売っている本より、装丁がかっこいいでしょう。33995359_1802130029852314_646007671668867072_n.jpg妻が、近々、家をリフォームをする計画をしていて、「本棚を、整理せよ」指令が出て、一生懸命片づけをしていたら、2004年に買ったこの本を発見して、読みました。
 この前のオーウェルの『1984』もそうだったけれど、ものすごく有名な小説で、買ったはいいものの、読みにくくて、ちょっとだけ読んでそのまんま未読、(なのになんとなく読んだふり)という本がものすごくたくさんあって、そういう本を、ちゃんと読もうモードに今、入っています。この本、「死ぬまでに読むべき小説ベスト100」とか、「世界のベスト小説ランキング」で、だれが選んでもたいてい、間違いなくトップ10にはいっている、トップ3入りもけっこうある、ものすごく有名な小説なのですが、買った当時は、なんだか読みづらかった。しかし、今、読んで、よかった。今、人生のこの時期、この年齢になってから読んだから、本当に面白かった。もう死ぬかと思うくらい面白かった。
 物書き修行をしている長男が、何年か前に借りていって、読み終わって返してくれる時に、「父ちゃん、絶対、読むべき。ウルスラウルスラ」と謎の呪文を唱えていたのも納得いった。コロンビアの奥地、19世紀前半から20世紀前半にまたがる100年以上にわたって、ある架空の村を築いた一族の、7代にわたる歴史が、現実と不思議、政治と愛と性と、錬金術と文学と、もうあらゆる要素が混然一体となって、いつまでもその中に浸って読み続けたくなる、見事な文体でつづられていきます。
 普通、文学論的には、この作品はマジックリアリズム(現実にあるものと、現実ではないものが融合して描かれる芸術形態)の、文学における代表作、と言われるのだけれど。今、読んで、本当によかったと思うのは・・・。ウルスラっていうのは、その一族の、いちばんはじめのお母さん、一族の始祖、太母グレートマザーのような人なんだけれど、読んでいると、どうしても妻に似ている、妻を思い浮かべざるを得ない。長男が「ウルスラウルスラ」と呪文を唱えていたのも、「母ちゃんだあ母ちゃんだあ」と思って読んだからだと思うのだよな。で、マジックリアリズムっていうのは現実に存在しない、死者が家の中をうろうろ普通にしていたり、その女の人が歩き回ると、やたらと子供が生まれたり家畜が増えたり木々が茂ったりという、そんな巫女とか地母神にしか起こせないようなことがどんどん普通に起きてしまうのだけれど、実は、うちの妻というのは、存在自体がマジックリアリズムなのだよね、おそろしい話だけれど。具体的に書くと私や妻の頭がおかしいと思われそうなので、細かくは書かないけれど。「現実と非現実の共存」が、我が家ではある種の常態なので、この作品の世界観というのは、私や長男にとっては、ものすごく「あ、これ、知ってる」という感覚があったのですよ。
 そして、この一族の男性の、繰り返し何代にもわたり同じ名前で現れる男の子供たち、行動的で破天荒なアルカディオ、内向的で、政治的や文学やさまざま活動しても内向的で繊細なアウレリャノ、そうした登場人物に、私自身や、私の男子たちを重ねてしまう。家族の物語というのは、サリンジャーのグラース家サーガ連作でもそうだけれど、どうしても他人事とは思えないのだよなあ。たとえ、南米の、想像もつかないほど異なる文化伝統の中を生きている一族家族の物語だとしても。
 ウルスラ以外の、多くの女性たちも、それぞれ際立って個性的で、「こんな極端な人など普通はいない」と思うと同時に「女性の本質のある部分が極端化した存在だからこそ、誰かにすごく似ている」と思わせる、魅力的な人物だらけ。
 この一族が暮らす屋敷は、100年の歴史の中で、何度も、リフォームを施されながら、家族の歴史の舞台になっていく。我が家のウルスラが企てたリフォームを機会に、この本が発見されたのも、何かの因縁かもしれないなあ、と思いながら、ここ一週間ほど、この傑作を楽しんだのでした。

 リフォーム計画を立てていると、妻がリフォーム屋さんに「我が家の大黒柱だけは、そのまま残してくださいね。これは夫が、ときどきこの柱に抱き着いて、家と一体化しては心を癒す柱なので。」大黒柱.jpgとお願いしていました。これもね、この本を読むと、ウルスラの夫、初代ホセ・アルカディオが、晩年、自らの意志で、庭の木と一体化する人になっていくというのと、ものすごく似ているのですよ。本当にね、家族と、家と、そういうものの歴史ということの蓄積というものをある程度実感できるこの年齢になってから読んだのが、本当によかったなあ。大江健三郎の後期作品群も、あきらかにこの小説に触発されたものだったんだ、と改めて納得した次第。それくらい、影響力というか伝染力というか、力の強い作品でした。
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