マニー・パッキャオ×キース・サーマン 両者が、真の、世界チャンピオン同士の、技術、戦術、何よりも精神力・プライドを見せた名勝負でした。僕の、ここまでの「年間最高試合」 [スポーツ理論・スポーツ批評]

 パッキャオがどれくらいの伝説のチャンピオンであるか、40歳になっても限界説を吹きとばし続け、今だに常識を超えた強さを維持し続けていることは、みなさんご存知の通り。WBAの正規王者のベルトを保持している。40歳になったパッキャオは、試合全部にわたって全力で動くことが無理なのはわかっていて、休む,ゆるめるところと、本気の動きでラッシュするところのメリハリをつけて、ポイントをぎりぎり自分に有利に運ぶ計算をしながら、12ラウンドを戦うことを前提に、チャンスがあれば倒しにかかろう、という戦略で、おそらく試合に臨んだ。
 一方のサーマンも、肘の怪我でチャンピオンのまま2年ほどブランクがあったものの、29選無敗の文句のつけようのない王者。(WBAスーパー王者)普段のスタイルは、大振りのフック系パンチを、体制崩し気味から思い切って振って、当て勘の良さでKOの山を築いてきたのだが、この試合では、ストレート系のコンパクトなパンチを中心に組み立てて、パッキャオのビッグパンチを食わない様に注意しながら戦う戦術を採用した。

1ラウンド、立ち上がりはサーマンがパッキャオを何度もロープ際に追い込んで、有効打こそないものの、「押し気味」の印象で終えるか、と思ったラウンド終盤、パッキャオが右のロングジャブ(軌道が最後にフック気味にねじりこむ)を何度か当ててリズムを作ると、得意の、走るように追い込むフットワークでサーマンを攻め立てる。パッキャオの「追い込みラッシュ」にまだ対応できず、下がりながら足が揃ったところにきれいに右フックを当てられ、サーマンはダウン。効いたというより、きれいに勢いで倒された。効いていないとは言え、ダウンはダウン。このラウンドは誰がつけてもパッキャオの10-8になる。
この2ポイントを取り返そうとサーマンが無理して前に出ようとするところを、パッキャオがきれいに右からのワンツースリーを当て続ける。サーマンがかなりひどく鼻血を出したこともあり、前半はパッキャオ有利に試合が進む。
5ラウンドあたりから、サーマンがパッキャオの攻めに慣れてきて、パンチをほとんど食わなくなり、鼻血も止まって,反攻開始。ボディを当てつつ、ポイントを取り返そうとパッキャオが出てくるところに、右の強打のカウンターを何度もパッキャオ顔面に当てて、形勢を逆転する。パッキャオは明らかに体力が落ちてきており、ラウンドの最後の30秒にラッシュをかけて、ラウンドを取った印象にまとめようとするが、さすがに審判も目の肥えたファンもそんなことではごまかされない。5~9ラウンドはサーマンが有利。初回のダウンの分をほぼ挽回し、このあたりで、審判により判定が分かれそうな展開に。この流れのまま10~12ラウンドに入れば、僅差だがサーマンの勝利になるのでは、と僕も、WOWOW解説陣も思い始めた。

そして迎えた運命の第10ラウンド。立ち上がりはここまでの勢いでサーマンが押し込むが、中盤、パッキャオの左ボディフック、レバーブローがクリーンヒット。サーマンはからだをくの字に曲げて、動きが止まる。明らかに、効いている。というか、激しく効いている。普通の人間なら、倒れる。というか、どんなすごいボクサーでも、倒れる。そういう効き方をしているのがわかる。サーマンは苦悶の表情を浮かべながら素早くバックステップして逃げる。あまりの苦しさに息ができなくなったらしく、グローブを口にもっていき、マウスピースをグローブに吐き出した。それほどの強烈な効き方をしているのだが、倒れない。逃げ続けながら回復を図る。幸運なことに、パッキャオもここ数ラウンド攻め続けられたことで、体力は限界にきており、チャンスなのでラッシュしようと試みるが、うまくとどめのパンチを入れられない。1分ほど逃げているうちに、なんとか戦える状態になったサーマンは、ラウンド終盤に反撃を試みて、10ラウンドは終了。

そう、この文章、このレバーブローへの、サーマンの対応についてが、書きたかったこと。
井上尚弥の試合の分析でも書いたが、ああいうレバーブローが入ると、人間の体は、普通、絶対、立っていられない。息もできないし、吐きそうになるし、うんこまで出そうになる。痛い苦しい地獄の苦しみで、普通ならリングにはいつくばって、のたうち回る。どんなに鍛えていても根性があっても、人間の体はそうなるようにできている。井上と戦った多くの超一流世界チャンピオンたちも、例外なくレバーブローを食ったら、そうなった。

 サーマンも、パンチを食った後の反応を見れば、同じように、地獄の苦しみ痛みを感じたはずだが、サーマンは、倒れることを拒否した。ここで倒れたら、100%、負けだ。立ち上がって判定になったとしても、ここで10-8とパッキャオに取られたら、もう挽回できない。

 ここまで無敗のWBAスーパー王者には、あそこで膝をつく、マットに這いつくばるという選択肢は無かったのだ。体がそうしろといっても、意志の力で、それを拒絶したのだ。
初回のダウン、序盤の鼻血の苦しさの中の劣勢から盛り返し、今、おそらくポイントはイーブンくらい。このラウンドを10-9で耐えれば、11、12、残り二ラウンドで、なんとか勝負に持ち込める。
 そんな計算をいくらしても、あのダメージで、マウスピースを吐き出さないと息もできないほどの苦しさなのに、耐えて、反攻までするというのは、すごすぎる。見ていて、涙が出てきた。

 そして、11ラウンドは、サーマンのダメージ残存と、パッキャオの疲労が「ほぼ互角」くらい。クリーンヒットの数でサーマンが取り返したように見える。あのダウン寸前ラウンドの次のラウンドを取り返して、無かったことに。

 勝負は12ラウンドに。感覚的には、このラウンドをサーマンが10-9でとっても、微妙にパッキャオが勝ちか。サーマンは、ダウンを取りたい。前に出る。が、なんとここで、パッキャオがラッシュをかける。序盤に好調だった、右ジャブから追い込む連打を何度か見せる。パッキャオも分かっている。ここで取られると、判定がもつれる。ここをはっきりと取れば、おそらく勝てる。ここが世界戦25試合目の経験。両者、序盤のラウンドのような勢いで、パンチを出し続ける。ここまで、あれだけ苦しい試合をしながら、こんな素晴らしい戦いを最終ラウンドでしてくれる。ボクシングファンとしては、もう感動するしかない。

 そして終了のゴング。最後まで、倒そうという気迫と力のこもったパンチを、両者とも出し続けた。すごい。

 そして、もう一言、付け加えるならば、本当に効いたときにやむを得ずする以外は、汚いクリンチもない。ボディを両者ともたくさん打ったが、明らかに汚いロープローもない。パッキャオは突っ込んでいくタイプだが、頭が酷くぶつかるというシーンもほとんどない。何かそういうことが起きた時は、グローブを軽く当ててから、試合を再開する。試合前は、お約束の話題盛り上げ用に、サーマンがずいぶんとトラッシュトークもしたようだが、リング上では、実に正々堂々とした、気持ちのいい戦いだった。

 判定の結果は。

ニュースで見てね。

僕の、ここまでの、年間最高試合でした

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「反緊縮リベラルと反緊縮保守」の遠い未来。AI&BIに向けた立ち位置について。

女子ワールドカップ決勝とコパアメリカ決勝の間に小一時間、スキマ時間があるので、ツイッターで見つけた下に引用したマトリクスをもとに、「近視眼的選挙分析」ではなく、人類史的視野で、MMTをめぐるふたつの立場について考察してみます。

MMT四象限.jpg

ちなみにこのマトリクスは
池戸万作氏 ツイッターアカウント「池戸万作@mansaku_ikedo令和初の政治経済評論家です」という方が作成したものと

それにTSさん、ツイッターアカウント「T. S.@tstateiwa
浪人。高齢者医療・介護、日本経済・経済学などに関心。」
という方が政党名、個人名を追加したものです。

MMT四象限 党名人命入り.jpg

ここから私の考えたこと。
 
⑴『ホモ・デウス』とか『『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』 で語られているように、「AIが自己進化するほど高度化し、それを開発したり利益を受ける側(AIと一体化する側)と、そうでない側の格差が極端に開く未来」が来る、2050年くらいまでに来る、といったん想定します。(超・人類、おそらく死なないし、超人間的能力を獲得する側と、死ぬべき運命の、いままで通りの知的肉体的限界を持つ人類に二極分化する。)

②そこまでAIが進化すると、人間が必要とするものはAI・マシン一体化したものが自動生産するようになりますから、人間の労働は、ほとんど必要なくなります。

③そうしたAIを開発した存在(国家や企業)が、善意をもった存在の場合、人類全体にベーシックインカムや、生存に必要な物資を配給するようになるので、人間のやることは、芸術や相互コミュニケーションなど、古代ギリシャの市民(奴隷にめんどくさいことをやらせていた)のようなものになります。

④しかし、AIを開発して人類以上の存在に進化した少数者が、なんらか悪意をもった存在だった場合には、世界は映画マトリックスのような世界になり、大多数の人類は、少数の「AI一体化進化した人類」の利益のために、なんらか奴隷的存在に落ちることになります。

※こうした超進化AI的存在の支配から独立・距離を取った「鎖国的」「ユートピア的」「反進歩・反成長」的生き方が、個人としても国家としても可能か、という議論はありますが、私は、おそらく不可能であろうと思います。

⑤ 未来が③になるか、④になるかは、AIを開発する競争者(企業や国家)を、人類が倫理的にコントロールできるかどうかにかかっているわけですが、そもそも、その開発競争に参加しているかどうかによって、その影響力が変わってきます。

⑥今、この開発競争は、米国、中国、および国家ではなくGAFAのようなグローバル巨大企業がリードしており、日本は国家としても企業としても、その競争からほぼ脱落しています。

さて、下の、MMTをめぐる政治的ポジションの下二つは、そこに至るまでに、日本人がどのような立場になるべきかを示唆しています。

より説明的に言い換えると、AIと一体化する「開発者」側に立つ可能性を日本人、日本企業も追求すべきと考えるかどうかで選択するポジションが変わってきます。

左下は「他国に開発は任せて、善意によってコントロールされることを期待する。その倫理的コントロールの国際政治にのみ参加する」という生き方を、国家としてとることになります。

一方、右下は、「軍事予算を自国自前でのAI技術開発に投資することで、AI超進化競争に、日本も一枚かみ続け、そのことにより、Aiの倫理的コントロール意思決定に、より積極的に関与しよう」という立場をとることになります。

現代の最先端技術開発は、GAFAや中国巨大企業のような国家予算を超える巨額の研究開発投資をしているごく少数の企業と、
それに対抗しようとした場合には、国家予算・軍事予算をもって開発している米国、イスラエルなどの「軍事予算科学研究国家」でないと、競争できないのが現実です。
 日本がAIの超進化において重要なプレーヤーであり続けようとしたら、新しい「富国と強兵」路線を取らさせるを得ず、それはMMTによる財源制約を緩めた大胆な投資なくしては実現しない、ということで、中野剛志氏の著作のタイトルが『富国と強兵』というのは、そういう文明史的大局的視点から日本の進み方を考えたら、そうするしかない、と考えているのだと思われます。

左下の「反緊縮リベラル」の立場は、AIの進展によりBI(ベーシックインカム)を実現する論、その場合、AIを開発する存在は善意の他国,他者を期待するという意味で、受動的かつ楽観論的人間観を持っていないと成立しないと思われます。

私は経済政策的には、はっきりと「反緊縮」が正しいと考えますが、AIの進化による人類の究極の二極化の未来を考えた時に、左下ポジションを取るべきか、右下ポジションを取るべきかについては、結論を出しかねています。


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