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読書記録『ある男』 平野 啓一郎 (著) を読んで。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『ある男』 平野 啓一郎 (著)

 謎を追っていく小説であり、社会的問題を深く織り込んだ作品なのですが、しかし、その一番深くにあるものは、「人はなぜ、文学を、小説を読むのか」ということだと、私には思われた。最終章に、そのことが、この上もなく感動的に結実する。
 そこに至るまでは、謎解き興味で読みつないできたはずなのに、最終章、思いもかけず、ボロボロと泣いてしまいました。この小説の筋立て展開としてもそこは大変に感動的なのですが、私が泣いてしまったのは、小説、文学、読書ということについて私が考えてきたことと共感共鳴する考え方が、大変に美しいエピソードの中に語られていたためだろうと思います。

 ここ最近読んだ、日本の純文学小説としては、出色の出来と思いました。最近の日本文学の潮流通りに、震災後の、政治の右傾化に対する鋭い批判が大きな比重を占めて語られますが、そのことに、小説が押しつぶされていません。そうした社会的視点を多く盛り込みつつ、より深いテーマが見事に表現されています。
 「読んでいる間、他人の人生を生きる」という小説の本質をメタ構造として小説内に取り込みつつ、ある種の人間(読書家)にとっては、「文学が救いになる」ということ。人生の困難に立ち向かうために、文学がどうしても必要なものなのだということを美しく力強く描いています。

 間違いなく、純文学の力作ですので、その方向がお好きな方にはお薦め。エンターテイメントとしての小説が好き、という方には、「真面目すぎ」と感じられるかも。
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玉置浩二「GOLD」とカズオ・イシグロ『忘れらた巨人』。老夫婦の愛について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

昨夜、玉置浩二のシンフォニックコンサート 上野 東京文化会館に、妻と聞きに行って。

 カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』という小説は、英国、円卓の騎士の時代を舞台に、主人公老夫婦が、行方不明になった息子を探しに、おそらくは人生最後になるであろう覚悟をして、二人で旅に出る話です。
玉置浩二さんの「GOLD」という歌もまた、老夫婦(おそらくは玉置浩二青田典子夫人)が、人生の最後の旅に旅立つ情景を描いた、この上もなく美しい曲です。

 というわけで、私は『忘れられた巨人』を読むと、「GOLD」が頭に流れ、「GOLD」を聴くと、『忘れられた巨人』のラストシーンの情景が頭の中に浮かび上がるのです。このふたつは、私の頭の中で深く結びついています。

 ある明け方、私は、ベッドの中でひそかにスマホのYouTubeで、玉置浩二さんのライブでの「GOLD」を聴きながら、感極まって一人でボロボロと泣いていると、妻が気がついて起きてしまい、「どうしたの?」というので、
 『忘れられた巨人』のあらすじを話して聞かせたうえで、「GOLD」を再生して、妻に聴かせました。すると、まあ、素直な妻は
「玉置さん、きっと、その小説を読んで、それでこの曲、書いたんだよねえ」と、そんなわけないやん、という感想を宣いました。しかし、妻がそう思うくらい、この小説とこの曲は、人生最後の旅に出る老夫婦の愛について、同じ情景、同じ情緒が、深く深く描かれた美しい作品なのです。

 その日、仕事から帰ってきた妻に、『忘れられた巨人』を、私の説明のあらすじではなく、最後の章だけでも、小説そのものを読んだ方がいいよ、と本を、ではなく、kindleの入ったパソコン画面を差し出すと、

 これまた素直な妻は、静かに読み始めるか、と思いきや
子供に本を読み聞かせるように、音読をし始めました。
「いや、眠いから、黙読していると寝ちゃいそうだから」
ということで、妻は、『忘れられた巨人』最終章を、まるまる、音読して、私に読み聞かせてくれました。私は、何度も何度もその部分は読んでいるのですが、妻に読み聞かせてもらうと、これはまた違う気持ちがするもので、胸がつぶれるような感動を覚えたのでした。

 昨日、上野の東京文化会館で、玉置浩二さんと東京フィルハーモニー交響楽団(指揮円光寺雅彦)のシンフォニックコンサートがあり、妻と二人で出かけました。
 この形式のコンサートはもう妻と一緒に4回目なので、目玉となる曲はだいたい予想がついていて、後半に代表曲を畳みかける展開になるのはわかっていたのですが、前半、どのような立ち上がり方をするかの予備知識はなく、コンサートは始まりました。
 コンサート、冒頭から三曲目(一曲目はオーケストラのみでしたので、玉置さん歌った二曲目)に、(私にとっては)不意打ちのように「GOLD」が始まりました。ここ最近、カズオ・イシグロについてずっと考えていた中で、妻と二人で出かけたコンサートで、生で聞く「GOLD」は、予想以上に深く私の心を揺さぶりました。玉置さんの歌声は、私の中の深い部分を直撃して、目を開けたまま涙がとめどなく流れ出し、からだが、ガタガタと、(誇張でなくガタガタと)震えだして、「どうしよう、まだ二曲目なのに、」と、自分のあまりの感動・反応の激しさに動揺していました。

 ところが。
「GOLD」が終わり、次の曲が始まると、妻が、急に「エヘン虫」に襲われたらしく、小さな声で咳をし始め、止まらなくなりました。
 玉置浩二さんのコンサートは、観客年齢が高く、だいたい私たち夫婦くらいの年齢が多く、さらにそうした年齢の娘が、80代とおぼしき母親を連れてくる、というパターンのお客さんもけっこういて、コンサート前には「補聴器のハウリング注意」アナウンスが何度も流れるし、曲前には「エヘン虫」にやられて咳こむ老人がたくさんいて、「高齢者が多いとしょうがないよねえ」と思っていたのが、なんと、わが妻が「エヘン虫」にやられて周囲にご迷惑!!と、私もすっかり動転してしまいました。が、妻はバッグからのど飴かガムかを、なんとかひっぱりだし口に入れて、静かになりました。

 この妻のエヘン虫騒動で、さきほどの「GOLD」での「身体に変調をきたすほどの異常な感動」は、どこかにすっ飛んで行き、そこからは、いつものように、「玉置さんの調子はどうかな、PAのバランスはどうかな、指揮者と玉置さんの関係はどうかな、」というようなことも観察しながら、コンサートを楽しむことになりました。もちろん、素晴らしいコンサートでした。

聴きどころ、盛り上がった曲が多数あるコンサートでしたが、「GOLD」にあそこまで感動したのは、数千人いた観客の中でも、私だけだったのではないかなあ、と思います。

 コンサート後は、ファンクラブ抽選に外れたときの予備のために一般予約でとっておいた三階席の券を、大学院生の娘とその友人に譲って、聴きに来てもらっていたので、彼女たちと一緒に上野で食事をする約束をしていました。上野公園から駅反対側に渡る歩道の上から、出待ちのファンの中を玉置さん夫婦の乗ったバンが出ていくのが見えました。空には、舞台の書割のような巨大な満月がかかっていて、GOLDの感動がまた蘇ってきました。

玉置さんの「GOLD」とカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』、どちらか一方だけしか知らない方、もう片方を、ちらとでも覗いてみてください。
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『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版 メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳)を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳)

 しむちょーん、読んだよー。
読書人生の師匠先達、しむちょんが教えてくれた、メルヴィルの中編小説二つを収めた本です。実は僕、『白鯨』を読んでいないのだ。初メルヴィルです。

 『書記バートルビー』は、法律事務所を営む語り手が雇った、謎の書記との交流を描いた小説。『漂流船』は、アザラシの毛皮貿易をするアメリカ船の船長が、チリ沿岸の小島沖で、遭難しかけたスペインの奴隷貿易船を救助しようとした顛末を描いたもの。状況は、著しく異なるが、基本的に同じテーマをめぐって書かれている。

 いやー、面白かった。①他者は、まずは理解不能である。これら小説においては、特に理解不能な人物や状況が設定される。②理解不能な人物と状況に対し、人間は警戒をする。警戒は敵意にまで育ちそうになる。③語り手主人公は、理解不能な相手の行動言動を、なんとか理解し、受容し、善意で解釈しようとする。ここが面白いところで、主人公の人格は、善意において他者を理解受容しようとするものと設定される。④ 主人公語り手は、警戒と善意理解の間で葛藤する。 ⑤葛藤しつつも、ある時間の長さを過ごすうちに、その理解不能な他者に影響を受けて、自分自身の気持ちや言動行動に変化が起きてくる。 ⑥いずれにせよ、他者との関係は単なる「理解する・理解できない」という意識認識の問題にのみはとどまりえず、具体的行為行動・態度を示さざるを得ない。それを「警戒・敵意」モードで行うか「善意・信頼」モードで行うか。そこに行動上の葛藤が生まれる。小説としてのダイナミズムが生まれる。

 二編の小説は、いずれも、この構図の上に成立している。

 これら小説は、ともに、善意の人である主人公の前に、極端に理解不能で、極端に「警戒せざるを得ない」人物や状況が現れる。その人物と交流を続けざるを得ない、逃れようのない状況が設定される。これは、作者の考える、人生の在り方を、凝縮したものであると思われる。

 考えてみれば、家庭生活においても、妻も子供も、常に「理解不能な他者」として、日々、立ち現われ続けるのである。そして、基本的には、逃れようもないのである。それに対し「警戒モード」これはそのまま容易に敵意まで育ってしまう。この警戒→敵意に、対人関係を進ませず、なんとか、理解、信頼、愛に基づく関係に転化していかなければならない。そこの葛藤。

 スケール大きく、文化人類学的に見てみても同じだ。隣の部族集落。突如現れる知らない集団に対しては、人間は当然まずは「警戒」モードであたる。しかし「警戒→敵意」にいきなり進んで、戦争モードにすぐに突入しないための、コミュニケーションの知恵を、人類は育んできた。とはいえ、他者は理解不能であり、食事の饗応をしようが、モノの交換・交易をしようが、他者との間に「信頼」や、ましてや「愛」はそう簡単に築けるものではない。

 もしかして、『白鯨』っていうのは、この他者が、人間ではなくて。巨大なクジラという究極の「他者」として現れるっていうことなのかな。敵意モード丸出しのはずなんだけど、戦っているうちに、信頼とはいかずとも、ある種の尊敬というか、意志のやりとりが生まれてくるのかな。しかしやっぱりクジラだから、理解不能なんだろうなあ。なあんていうことを考えましたが、今、読みたい本が山のようにたまっているから、すぐに『白鯨』にはいけないなあ。だって、あまりに大長編だし。

 他者との関係のとらえ方と、主人公の基本的態度の倫理観に、当時のアメリカなのか、この作者なのか、どちらにより大きく関係しているのかはわかりませんが、非常に明確な特徴が感じられた。そして、筆力。読者の興味を惹きつけながら、状況と人物がいきいきと伝わる小説として書き上げる筆力は、間違いなく、超一級でした。


追記。しむちょんに。バートルビーという人物を理解・解釈するのは無理だと思うんです。『漂流』の方は、最後に答え合わせが用意されていますが。バートルビーは善意が届かないし、悪意があるわけでもない絶対的他者を人物として造形したということだと思うんですよね。それを、小説の登場人物として、なんというか、いるかもしれない人物として描いた、ということが、凄いところだと思うのです。

しむちょんに・その②。バートルビーがカフカ的不条理を、状況ではなく、人物として、しかも「しないほうがいいと思います」という鮮烈に印象的な言葉とともに定着した、というのは、これはたしかに文学的大事件で、種明かしが無い分、その影響が永続的なのだと思います。前に読んだシャーウッド・アンダソンの中にも、ニューヨークだっけ、大都会の狭い一室に引きこもり続ける話があったような記憶があるのだけれど、農村ー地方都市ーに対してニューヨークという本当の大都市がそういう存在を作り出す。カフカの場合は、どちらかというと都市というだけでなく「官僚組織」が、非人間性が不条理を生み出す。状況自体の非人間性みたいなものが際立つのだけれど、バートルビーの場合、アメリカ社会の「人は自由」で、「しかも基本的に、建前的には善意」が「大都会」に集積している、そのはざまに現れる「人間存在側が不条理」になっちゃう、ということを小説・人物にしているから、より現代的、というか、現代の僕ら日本人にも、より自分のことのような感じがするんだと思うなあ。「しないほうがいいと思います」っていうのは、人の、自分の自由に関する意志表明なわけだけれど、それが、徹底的な孤独と、最終的にはあらゆる「働く/他者のためになにかすることの拒絶」、その先には「食欲の否定」という、自己保存、生存自体の否定に向かっても、宣言されてしまっているわけで。と書いてきた。なんか、なかなかうまく分析できたような気がするぞ。うん。なんかバートルビーについて語っていると楽しくなってくる。
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『波』 ソナーリ・デラニヤガラ 著 佐藤澄子 訳 を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

 大学の学部学科(国文学科近現代専攻)以来の友人、佐藤澄子さんが、初めて翻訳した本なので、読んだ。出版当日に買って、できるだけ早く読んで、感想を伝えようと思ったのだが、なかなか、そうそう、すいすいと読める本ではなかった。私にとっては。

 読み進まなかった理由は、翻訳が、どうこうということでは全くない。佐藤澄子の翻訳、どんなかな、という意識は初めの2,3ページを読むうちに消えた。
 
 2004年のインドネシア大地震の津波で、二人の幼い子供と夫と両親を一度に失い、自分だけが生き残ったスリランカ人の女性、経済学者の、回想録なのだが。

 私は、本を、「自分に引き寄せて」読むタイプの人間だ。自分の外側にある「エンターテイメント」とか「有用な情報」というような意識で本を読むことができない。自分の中にある何か、問題意識とか価値観とか記憶とか、そういうものと本を響き合わせて読む。そういう読み方しかできない。自分と隔絶した体験や世界について書かれた本も、自分の中の何かと響きあう、それに意識が向いてしまう。

 この本を、「津波で愛する人を失うという、自分にない、普通にない経験をした人の回想録である」というふうに(だけ)、私は読むことができなかった。

 子育ての幸福な記憶と、子供を失うことの間の関係の話、として読んでしまう。それは、私の中の様々な記憶と体験を呼び起こし、1ページごとに立ちどまり、心を彷徨わせてしまう。なかなか本を読み進めないのである。

 あ、誤解されそうだが、私は子供を幸運なことに失ってはいない。六人全員、健在である。

それどころか、もうすぐ56歳になろうとしているのに、愛する身近な血縁の死、というものを未だ体験していない。妻も六人の子供も両親も、姉と妹も健在だ。
 祖父母はもちろん全員亡くなっているが、私は東京で、核家族で育ち、祖父母は二組とも遠い北海道にいた。祖父母とは年に1回、ほんの数日顔を合わせるだけの関係だったから、どの祖父母とも深い感情的つながりをもつほどの交流は無かった。「父母」の悲しみを通して祖父母の死を感じる、という体験・記憶しか残っていない。祖父母を失ったことが、ダイレクトに悲しい、という体験ではなかった。父が寂しそうだな。母が悲しんでいるな。そういう体験だった。

姉の夫が早くにがんで亡くなったが、あくまで姉の配偶者である。姉の悲しみ、甥っ子たちの悲しみは見てきたが、私と義理の兄の間に、「深い人間的交流」があったわけではない。妻の母親も亡くなっているが、その体験というのは、「母を失った妻の悲しみ」を夫として見守ってきた体験、というのが正しく、私と義理の母の間に、深い心の交流があったことはない。義理の母を失ってダイレクトに私が悲しい、という体験ではなかった。
(思い返しても、仕事人生で私を助け導いてくれた恩人の死、というのが、いままで生きてきた中の死の体験では、いちばんショックが大きかった。血縁での死で言えば、母の弟、叔父の死のショックがいちばん大きい。それはしかし「愛する人の死」というよりは「尊敬したり、人生の志の先を歩む人の死」という種類のショックなのだ。やはり人生56年も生きてきて、愛する近親者の死を、私は体験していないのである。それは本当に幸運なことなのだと思うし、また「愛する者、と感じられる深い心のつながり」を、ものすごく近い家族=妻・こども、両親、姉・妹としか築かずに生きてきた、ということなのだ、と改めて、わかる。)

 私には、妻とともに、六人の子供を育ててきたことの記憶が、ものすごい量、蓄積している。六人という子供の数もあるが、私は、仕事よりも子供とともに過ごすことを何より優先して人生を送ってきた。
(善き父だったというつもりはない。むしろ私の子育ては「星一徹が星飛雄馬をしごき鍛える」ように子供たちに接してきた。全く誇張ではなく、私の子育てはまさに星一徹の星飛雄馬育てそのものだった。大リーグボール養成ギブスを子供たちに着せて、卓袱台をひっくり返して、子育てをした。鍛えたのは、野球ではなく、勉強と柔道と音楽と文学、という、自分が愛し、かつ夢をかなえられなかった領域において。そしてその子育ては、今の価値観で言えば、間違いなくひどい虐待であった。無関心や憎しみで虐待するのではなく、過剰な一体化と期待とで子供たちを傷つけたことは、私の人生のいちばん大きな傷なのだ。そういう子育てをしたからこそ、私の記憶のほとんどは、濃く子供たちの記憶で塗りこめられている)

 そんな私でも、子供が本当に幼い時、というのは、そのような星一徹的葛藤とはまだ無縁の、ただひたすらに子供をかわいがる、子供との時をただひたすら愛おしむ、そういう時間があった。子育てには、そういう「夢のように幸福な時期・時間」というものがある。

「波」の著者は、その「夢のように幸福な子育ての時期の真っただ中」で、津波に遭遇し、すべてを奪われる。

ちょうどこの本を読み始める前日、地元のJR横浜線の電車に乗っていたときのこと。隣の席に、二歳から三歳になろうとするくらいの幼い男の子と、まだ30歳になっていないだろう若い父親が座っていた。男の子は電車のアナウンスがだいすきらしく「次はコブチ、コブチ、有楽町線、日比谷線ご利用の方はお乗り換えです。」などと、ふだんは都内で地下鉄にのっているらしく聞き覚えた乗り換えアナウンスを、かわいらしい声で、ずいぶんと流ちょうに繰り返しては、楽しそうに笑っていた。父親は、いつも子供の世話を細やかにやいているのだろう。それは子供が父親と二人で外出していても、リラックスして、安心して、イキイキとしている様子から、わかる。「ねえ、どっちのドアから降りるの」などと言いながら、親子は手をつないで降りていった。

 私は心の中で「今が人生でいちばん幸せな時なんだよ。大事にしろ。本当に大事に心に刻んでおけよー」と、その若いお父さんに声をかけた。小さな息子の小さな手を握って歩くこと。息子が、お父さんのことを100%信頼して、安心して楽しそうにしていること。その声の響き。握った掌の小ささ、温かさ、柔らかさ。そういうものは、ほんの数年もすると、失われていく。本当に限られた時期の,貴いものなのだ。
もうすこし大きくなり、勉強だの習い事だの、勝ち負けのある何かに、子を参加させていく。勝たせようとする。そういう関わりをする中で、だんだん「ただただ、かわいがる」だけではないものに親子の関係も変わっていく。そういう親に、子も反抗する。やがて、思春期が来て、親の期待とは違う方向に、子は自分の道を見つけ、自立していく。愛する人を見つけ、結婚し、別の家庭を構える。
年に数回しか顔を合わせなくなる。そうなっても、もちろん、子供はかわいい。しかし、あの、幼い時の、あの小さな温かい掌の、きんきんした声の、あの小さな子供は、大人になった我が子の中に面影として残っているだけになる。もう、触ることはできない。

 家の中には、子供たちそれぞれの育った過程の記憶のしみついた、いろいろなものが残っている。小さかった子供はいなくなり、家の中に、一人でいる時間が増える。何を見ても、ふと、小さかった時の子供のことが思い返される。

妻との記憶は、そういう子供の記憶と絡まりあって出てくる分量が多い。私たち夫婦は高校の同級生なので、子供ができる前の、付き合い始めから結婚初めの期間というのも、それなりの記憶の分量があるはずなのだが。「妻と一対一で向き合っている」記憶よりも、「ともに子供たちを見つめ、育てている同志」としての記憶の方が、圧倒的に分量として多いし濃いし重たい。

この本の中でも、記述されている分量で言うと、「子供の記憶」>「子供と絡まった夫の記憶」>かなり少なく「両親の記憶」として記述されている。これは、なんというか、本当にそういうものだと思う。(夫とのなれそめは、本の最後の方に、一章をさいて書かれている。他の章が、現在の特定の場所や具体的なモノから自然に思い出されるエピソードなのだが、子供が登場する前の、夫とのなれそめ章は、「本にするのだから、夫とのなれそめも
ちゃんとまとめておいてあげないとね」というような書かれ方をしている。子供、夫、両親、同時に失った大切な家族であっても、それは人の自然な感情として、質の違いがあるのだということを、私は当然の、むしろ好ましいこととして感じる。この本にはそういう正直さがある。)


 我が家の場合、まだ中学生一人、大学生一人が同居しているし、妻もフルタイムで働きはじめ顔を合わせる時間も子育て時期よりは短くなったとはいえ、ちゃんと毎日一緒に仲良く暮らしている。私は全然独りぼっちではない。ようやく「いまどきの標準サイズの家庭」になっただけなので、実はまだそんな思い出ばかりに浸っているわけではないのだが。

 しかしこの『波』を読んでいると、この世にきちんと生きているのだが、我が家、私の生活圏からは旅立ってしまった子供たちの、幼い日のことが、胸を突いて呼び起こされてくる。

 そして、「もし、あの幸せの真っただ中で、突然にすべてを奪い去られたら、自分はどうなっていたのだろう」ということを考える。いや、考えたくないと思う。今までのところ、そうならなくてよかった、これからもそんなことが起きないでほしいと思いながら。

 生きて自立してどこかで幸せに暮らしていることと、突然死んでしまってもう二度と会うことができないことは、全然違う。当然、全然違うので、その違いを、普通なら、この本では読むべきなのだろう。

自分だけが生き残り、生き続けていくという特異な体験のもたらす感情。その変化のプロセス。現実からも、記憶からも眼をそらせ、呼び覚まさないように注意を払い、自分を消してしまおうとする。激しい怒り。自責の念。何か大きな間違いだ。本当の絶望に直面した人の、固有で稀有な体験。もちろん、そのことも、この本からは伝わってくる。自分の人生には今のところ起きていていない、異様な重い体験として伝わってくる。

しかし、私は、その部分、『特異で自分には起きていないこと』の側面を入り口にしては、この本を読まなかった。
 自分にも起きていること。自分の生活の中にあること。そちらを入り口にして、「起きていない異様なこと」に想像を馳せる。そういう読み方をした。

 子供を育てる、幼い子供とともに生きることの幸せな体験と、それが、自分のもとから去っていったときに、それを思い出して、心の中で、再びともに生きることの切なさ美しさというものの側から、私はこの本を読んだ。私のぼんやりした日常の中のぼんやりした心の動きの中にも、共通して存在する、そうした人間の心の動きを、極限まで研ぎ澄ました形で文章にしたもの。
 私が日々、心に留めずに流れ去らせてしまっているひとつひとつのもの、小さなエピソード、そうしたものが、すべてどれほど掛け替えのない、いとおしいものであるか。

 大災害で、一瞬で家族全員を失ったことによる、普通には起きない深い心の傷、損なわれ方と、子供の自然な成長と自立で訪れる孤独と喪失は、全然、違う。たしかに違うのだけれど、その底には、つながるものがあるのだ。
 
この本の、この著者の素晴らしさは、とても些細な細部に呼び起こされる記憶が、どれもこの上なく切実である。それがここまで正確に記述されていることが、奇跡的なのだと思う。この本は発表をするためではなく、心の傷を癒すためのカウンセリングの一環として書かれ始めたものだと本の最後、あとがきで明かされて納得する。思い出し、書くことで、なんとか自分だけが生き続けていくことを受け入れていく。

それは大災害の生き残りの人間だけではなく、子育ても仕事も自分の元から去っていき、それでもまだ肉体的には死なないという、人生の終了に向けてぼんやりと立ち尽くしている私にとっても、無関係なことではないのだよ。

 佐藤さん、そういう風に、私はこの本は読みました。翻訳の良しあしのことを考えずに、著者の心の動きに寄り添って読み通せたというのは、それは、良い翻訳なのだと思います。



感想、その②

すこし、違う視点で、なんというか、本の中に入って著者に共感して、という立場ではなく、この本が出版され、読まれる、日本のこの社会、という俯瞰的鳥瞰的視点で、考えたこと、できれば佐藤さんに聞いてみたい、話してみたいことを書いてみる。

俯瞰的、鳥瞰的といいつつも、それは、ずいぶん長いこと、僕を悩ませてきた問題なのだが。

 友人が僕を誰かに紹介する場合、まずは「子だくさん」という特徴が伝達される。「五人だったっけ、え、六人! 前に聞いた時より増えたね」なんていう会話だ。

 そして、僕の親しい友人、高学歴でリベラルな友人たちの集まりでは、結婚していない人、離婚して今はシングルの人、結婚しても子供を持たない主義の人、子供が欲しくて不妊治療をしたができずに子供をあきらめた人、一人か二人の、いまどき標準的な数の子供を大切に育てている人、というのが、まあほどよくミックスされているわけだ。そんな中で、誰から見ても、僕は異常値なのだ。結婚や子育てに関わる文学や社会問題について、僕が考えること、感じることは、どうも、世の中の標準から大きく外れているのではないか。僕のような世の中の標準から外れた人間が、この問題に関わることで不用意に意見を表明することは、多くの人を傷つけたり反感を持たれたり、すくなくとも、全く共感されないことなのではないか。「少子化問題」が議論されたりするときに、僕にはすごくたくさん言いたいことはあるのだけれど、どうも、思ったままを言ってはいけないような気がする。内心にとどめておいた方が良いような気がする。なぜなら、僕は、いろいろな意味で、あまりに恵まれているから。

『波』の著者は、津波に遭うまで、本の帯にある通り「すべてをもっていた」のだ。知的な職業。同じく知的な職業についている優しい夫。家事も子育ても平等に参加してくれる。そしてかわいい子供が二人。夫の両親家族も、自分の両親家族も、自分たち夫婦とその子どもたちをかわいがってくれる。ロンドンで生活し、スリランカに長期休暇に訪れる。ロンドンには、同じような恵まれた境遇で、同じ年齢の子供を持つママ友家族がいる。経済的にも子育てについても、なんの不安も不満もなく、幸せな毎日の日常が続いていた。

 この「すべてを持っていた」著者が、「愛する子供と夫と両親を奪われる」という状況なので、奪われた生活の細部を思い出していく、文章にしていくというものが、文学(もともとは文学、他者が読むことを想定せずに書かれたとしても、その価値がある文章表現)として成り立つ。という意地悪な見方というのが、成り立つ。
 どう意地悪か、と言うと、もしすべてを奪われておらず、すべてを持っている段階の彼女が、その生活の中で、ここで「思い出している」生活の細部、幸福の断片を「幸せ実況生中継」として、いちいち文章に書いて発表していたら・・・、それは日本の「子育て芸能人タレント夫婦のブログ」みたいなもので、「自慢か?」と言われるものなのではないか?
文句のつけようのない知的で裕福で幸せに満ちた日常なのだ。その幸福がどれほど本人には真実でかけがえのないものだとしても、それは世の中に発信してはいけない、ひっそり本人の心のうちにしまってかみしめているべきことなのではないか。こうした子育て生活の細やかなディテールが、文章として世の中に発信できるのは、それが「突如失われたもの」として、回想として書かれているから。損なわれた心を回復するためのカウンセリングの一環として書かれたものだから。

 「持っていたものが奪われる」というところに、文学(無関係な不特定の他者が読む価値のある言語表現)は成立するのだけれど、現実に生きる人は、「そもそも持っていない。あらかじめ奪われている」という日常を生きている人の方が圧倒的に多い。そのような「あらかじめ奪われている人たち」が読んだとき、この「一度、すべてを持ち、そして奪われる」という体験談は、どのように響くのだろう。

結婚、子供を持つ、子育てをする、ということに対して、この小説への反応が全く違いそうな、価値観や現状のステイタス、パターンをいくつか挙げてみる。完全に網羅はできないけれど、ずいぶん違う立場の人が、この本を読むだろう。

① 高収入・知的な共働きで、子供を育てる幸せ真っ最中の若夫婦。(奪われていない段階の筆者と同境遇の人)
② 何も奪われないまま、子供が育って、子育てが終了しつつあり、思い出に囲まれて寂しくなりつつある人。(僕のことだ。)
③ 津波や突然の災害や病気・事故などで、幸福の絶頂で突然、子供や夫を奪われた類似の体験がある人。(筆者と同種の体験を、程度の差こそあれした人)
④ 子供を育てることの喜び、幸せを渇望しているのに子供に恵まれない女性。(子育ての喜びから、というか、子育てという人生のステップから、あらかじめ疎外されている人)
⑤ 貧困や夫の無理解の中で、子育てが苦行にしか思えなかったり、子供を愛することができないという苦しみに直面している人。(子育ての「喜び」から疎外されている人。)
⑥ 結婚していても、子供に興味がない、子供が欲しくない、子供以外のこと、仕事や夫婦二人の生活や趣味や社会貢献活動などに十分な生きがいを感じている人。(子育てを喜びとはそもそも考えない、選択しない人)
⑦ 結婚や子供を望んでいるが、様々な理由で、その機会に恵まれず、単身で暮らしている人。(結婚自体から疎外されている人)
⑧ 結婚も、ましてや子供を持つことも望まず、単身を好きで選んで生きている人。(結婚自体を幸福の条件と考えない人)


③の人は、自分の体験と照らし合わせながら、救われたり、自分とは違うと思ったり、いろいろと、体験者としての感想を持つのだろう。
子育ての幸せを現在・または過去において体験している①や②の立場の人には、それを失った場合に自分にも起きること、起きたかもしれないことと照らし合わせて、この本の内容が激しく心に刺さると思う。今の自分を大切にしようと思うだろう。
⑤の、子育てが苦しい人は、「もし失ったら、」というこの本を読んで、今は苦痛に思える子育ての細々した苦労が、かけがえのないものだ、と気づけるかもしれない。

さて、④の、子供が欲しくてできない人からみると、この話は、どんなふうに読めるのだろう。⑥の子供を望まない人には、どんな風にこの話は響くのだろう。⑦の、結婚や子供を望んでもそこにたどり着けない人にはこれほどの苦しみも、贅沢に聞こえるのだろうか。⑧の結婚も子供も望まない人から見ると、「失って苦しむような家族を持つこと」自体が愚かな選択に見えるのだろうか。

僕は、医師の妻を持ち、子供を六人持ち、事故や病気や災害に今までのところ、幸運にも遭わず、経済的にも、(今はいささか破綻しつつはあるが、)なんとかここまでやってきた、「すべてがある」状態で、子供が育ちあがり、自立して離れていく、という「幸福で寂しい」人生の終わりに入りつつある人間として、「それが途中で奪われた人の話」を読んだわけだ。そんな贅沢な僕の感想というのが、この本への評価として、一般性を持ちうるのかどうか、ということが、よく分からない。

「子育てを中心とした家族の幸せ」が「奪われる」、それを思い出して書くということを通して受容していく。という基本枠組み自体が、どの程度の共感幅を持ちうるのか。今の日本の社会の変質(というか、個人的には劣化だと思うのだが)の中で、この本が、誰に、どのように受容されるのかしら。そんなことも、読みながら、考えました。

※ちょうど本を読んでいる最中に、NHKBSハイビジョン103で、紅茶に関連したドキュメンタリーを何本か続けて再放送していて、ひとつがスリランカのヌラワエリアの茶園、そこで働く人たちのドキュメンタリーでした。コロンボの街や、スリランカの子供たち、様々な階層の人たちが描かれていました。かわいい保育園児たちの様子も描かれていたり、大卒で茶園の監督官になった女性の、利発そうな子供たちも登場し、著者の子供たちも、こんなかわいい子供だったのだろうかしら、と思いました。
一方で著者が、スリランカの中では知的にも経済的にも最上位の階級に属する人であること、そういう「持てる人が失う」という、この本の持つ基本性格について、そのドキュメンタリーを見ていて、改めて気づきました。知的経済的にいかに高い地位にあっても、悲惨な体験であることに変わりはないし、知的な人だからこそ言語表現にし得たので、そのこと自体に何か批判的な視線を持ったわけではありません。ただ、あの津波では「文学的言語を持たずに、体験を表現することもないが、同じような悲惨な体験をした人たち」が何万人もいたのだ、ということも、考えました。

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読書記録2019年二冊目 『R帝国』 – 2017/8/18 中村 文則 (著)  [文学中年的、考えすぎ的、]

『R帝国』 – 2017/8/18
中村 文則 (著)

今年二冊目。
Amazon内容紹介
「舞台は近未来の島国・R帝国。ある日、矢崎はR帝国が隣国と戦争を始めたことを知る。
だが、何かがおかしい。
国家を支配する絶対的な存在″党″と、謎の組織「L」。
やがて世界は、思わぬ方向へと暴走していく――。
世界の真実を炙り出す驚愕の物語。
『教団X』の衝撃、再び! 全体主義の恐怖を描いた傑作。」

ここから僕の感想。
この作者の小説、何冊か読んでいるけれど、いちばん良い。(この作者の小説が嫌いな人にもおすすめ)。
 絶望的に暗い状況を書くのがこの作家で、「あまりに救いがないよなあ」といつも思うのだが。この本は、この日本の、この世界の現実そのものの醜さを、これでもかというほど冷徹に露悪的に描いているので、つまり、あまりに現実そのものなので、この世界で生きていく以上、なんとか希望を残したいという作者の願いがにじみ出るものになっています。とはいえ、ほとんど救いは無いけれど。

 実力のある作家たちか、現実の政治状況に対する批判を直接扱った小説をたくさん書いた時代として、今の時代は文学史的に後から位置付けられると思う、と前にも書いたが、その時代を代表する小説として、評価されると思う。文学としても素晴らしい。
 僕は大江健三郎の小説では『洪水はわが魂に及び』がいちばん好きなのだが、読後感がなぜかあれに近い。絶望的なのだが、なんというか、美しさ、「清い」かんじが残る。大江作品では、その「清さ」は「自然や子供」の中にあるのだが、この作品では、人工知能の中にあるという、そこが極めて現代的でした。

現代人必読度120%


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『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』 佐藤 健志 (著) なんで装丁がふざけているかは最後まで読んだらわかります。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』 単行本 – 2018/9/15
佐藤 健志 (著)

 今年一冊目の読書レポート。装丁も帯も、ものすごくふざけているが、最後まで読めば意図してのこととわかる。この作者、九十年代に『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』を書いた人だった。あのときから、興味領域とアプローチの仕方に親近感を覚えていたのだが、何十年もたって、たまたま読んだこの本も、考えていることもアプローチも、近いなあ、と思いました。政治学者、佐藤誠三郎氏の息子さんで、僕より、4学年ほど年下だろうか。東大教養学部国際関係論卒というのは、ごく普通の意味でも秀才だったのだと思う。
 今は保守派の論客としてけっこうたくさん本を書いているようだが、この本の紹介をツイッターでたまたま見かけるまでは全然気づかずにいました。保守派と言われているが、読んでみると、右派左派と分けることが不適切な、きわめて高度な政治文化評論でした。岸田秀『ものぐさ精神分析』加藤典洋『敗戦後論』『戦後入門』内田樹『日本辺境論』白井聡『永続敗戦論』、というような戦後論、対米従属問題を考えて読んできた人には必読の内容かと。そういう真面目な本と並べてみるには装丁が不適切に思われるだろうが。しかし、内容はそれらと並べて論じる価値があると思いました。
 一昨年ヒットしたアニメ映画とその原作漫画『この世界の片隅で』、小津安二郎『晩春』や、大岡正平『野火』など漫画映画文学などの読み解きを交えながら、(こういうアプローチがこの作者の特徴なのだと思う。学術論文としては、「その解釈は強引だろう」となるが、評論としては、わかりやすいし面白い」日本と米国の関係、戦後から現在に至る政治状況をきわめて論理的にとは明かしていく。
 政権支持右派にもリベラル左翼にも同じように辛辣な批判を浴びせている点で、どちらの立場の人にも是非とも読んでほしい。分析としては、ぐうの音も出ないくらい正しいと思いました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4584138842/ref
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今年の読書記録 『カンディード』ヴォルテール (光文社古典新訳文庫) 古典の現代性に驚く [文学中年的、考えすぎ的、]

しむちょん、読んだよー。と叫ぶのは久しぶり。ややこしい時代背景の中での、思想史的大転換点の、というような解説がついていて、それはそれで解説を読めばなるほどと思うわけですが、お話としては荒唐無稽な大冒険譚で、エンターテイメントとして面白い。露悪的批評精神まるだしで、欧州各地から南米からトルコまでを舞台にして、主人公がやりたい放題大暴れをします。
 まじめな議論としては、1755年にポルトガルが没落するきっかけとなったリスボン大地震と津波、というのがあって、それをめぐって、①「栄華贅沢をきわめたリスボンへの、神様の天罰を唱えた古い教会権威=中世、神様中心世界観のいちばんおしまいの時期」②「科学的啓蒙時代幕開けとして、神様とは関係なく科学的に災害の原因を究明しようとしたり、理性的合理的に復興にあたる政治家が出てきたり=近代の始まりの時期」。かつ、③当時のリスボンは、パリ、ロンドンなどと並ぶ大都市であったため、災害の惨状がヨーロッパ中に伝わり、こうした解釈、論評がヨーロッパ全体で起きた=メディア型災害という側面。
 作者は「古臭い宗教哲学者たちの、どんなひどいことが起きても、この世界は神様が作ったものだから、素晴らしいのだ=最善説」への批判のためにこれを書いた。このあたりについて、ルソーとの間で論争もあったらしく、自分の意見を真面目な論評としてではなく、荒唐無稽な冒険談(解説者は哲学コントと呼んでいて、なるほどと思う)で書いたのがこれ、ということなんだそうだ。
 リスボン大震災がポルトガル没落のきっかけになったように、東日本大震災が日本没落のきっかけとなり、また、いろいろな価値観の大きな転換点になるのでは、と、このふたつの震災を文明史的に重ねる人もけっこういる。(震災直後に、そういう発言を見ることが結構あった。)
大冒険の果てに主人公がたどり着いた生き方、というのが、これがなかなか、現代的というか、震災後にこういう価値観転換と生き方変化をした人は多いよなあ、という、250年の時を経ての、奇妙なまでの一致というのが、大変に興味深い。
 古典というのは、古くならないものだなあ、と、びっくりした一冊でした。
#Amazon


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カンディード (光文社古典新訳文庫)
カンディード (光文社古典新訳文庫)

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今年の読書記録 『岩場の上から』 黒川創 (著) ベテラン作家評論家の焦燥感について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『岩場の上から』 黒川創 (著)
Amazon内容紹介から
『内容(「BOOK」データベースより)
2045年、北関東の町「院加」では、伝説の奇岩の地下深くに、核燃料最終処分場造成が噂されていた。鎌倉の家を出て放浪中の17歳の少年シンは、院加駅前で“戦後100年”の平和活動をする男女と知りあい、居候暮らしを始める。やがてシンは、彼らが、「積極的平和維持活動」という呼び方で戦争に送り出される兵士たちの逃亡を、助けようとしていることを知る。妻を亡くした不動産ブローカー、駆け落ちした男女、町に残って八百屋を切り盛りする妻、役場勤めの若い女とボクサーの兄、首相官邸の奥深くに住まい、現政府を操っているらしい謎の“総統”、そして首相官邸への住居侵入罪で服役中のシンの母…。やがて、中東派兵を拒む陸軍兵士200名が浜岡原発に篭城する―。“戦後百年”の視点から日本の現在と未来を射抜く壮大な長篇小説。』

ここから僕の感想。
 震災・原発事故以降、考え続けてきた様々なテーマが、無関係ではなく。ひとつの関係図としておおよそ見えてきた。しかし、それに対して「どうしたらいいのか」についてはまだよくわからない。むしろ、問題の根深さ深刻さが見えてくるほどに、立ち尽くして途方に暮れる。
 という、今の僕と同じような地点に、この作者はいるようである。関心の領域も、その立ち位置もよく似ている。しかし呆然と何もせずにいる僕とは違い、この作者は、その問題の在り方の全体を、小説という形にして、世に問おうとした。というのが、この作品。大変な力技である。現在、モノを考えるタイプの人なら、考えざるを得ない多くの問題課題を、もう、できる限りもれなく扱おうという意欲にあふれた力作である。
 しかしまた、現在の諸課題の相関関係を描き出す、それ以上の何かに到達しているか、というと、そういう読後感は無い。小説的興奮とか、文学的感動とか、そういう「文学的な意味での傑作」というものでは、残念ながら、ない。
 震災後、「何かのテーマを考えるために、それについて書かれた小説を読む」という読書の一ジャンルが、僕の読書生活の中に生まれた。そうしたジャンルの小説に共通する、物足りなさというのがある。登場人物が、その行動が、その言動が、(もちろんそれなりに上手に人物造形はされているのだが、) なんだか全部、あくまで筋を進めるための「キャラクター」でしか無いように感じられてしまうという欠点。

 各新聞の書評欄でも取り上げられたにもかかわらず、その後話題になることもあまりなく、Amazonのレビュー欄にも一件のレビューもない、というのも、なんというか、そういうこの本の文学的魅力の低さのせいかなあ、とは思う。
 
 この前紹介したヴォルテールの『カンディード』は、時の政治、思想的課題に対する態度・意見表明を、評論・論説ではなく、小説の形で著したものだったように、文学には、そういうジャンルというものがある。のだが。しかし、あれは純粋に冒険文学としても面白かったんだよなあ。

 原発・核廃棄物・戦争可能な国になり、若者が海外に派兵されるということ、そういう現在の先にある未来がどのようであるのか、ということを描き出すというのは、小説にしかできないこと。そのことをテーマとしつつ、小説として、文学として、強烈な魅力・魔力を発揮するような小説っていうのは、出てこないかなあ。

 とはいえ、私の友人の多くが、考えては様々に意見を表明している、原発、核廃棄物処理、戦争法案、自衛隊の国軍化、憲法改正、軍事産業を経済成長のエンジンとする経済政策、つまるところ現在の安倍政権が進めている様々な政策と政治の方向に対する疑問反対。こうしたこと全体をどう関連付けて理解し。そしてそれに対して、どのように生きていこうか。そんなことに興味のある人は、読んでみる価値はある。結構。随所に、深い考察や、なるほど、という提言があります。



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今年の読書記録 『奥のほそ道』 リチャード・フラナガン (著), 本当の文学の力 [文学中年的、考えすぎ的、]

『奥のほそ道』 単行本 – 2018/5/26
リチャード・フラナガン (著), 渡辺 佐智江 (翻訳)
Amazon内容紹介
「ブッカー賞受賞作品
 1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。
 本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇だ。
 作家は、「泰緬鉄道」から生還した父親の捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書き上げたという。東西の詩人の言葉を刻みながら、人間性の複雑さ、戦争や世界の多層性を織り上げていく。時と場所を交差させ、登場人物の心情を丹念にたどり、読者の胸に強く迫ってくる。
 「戦争小説の最高傑作。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』以来、こんなに心揺さぶられた作品はない」(『ワシントン・ポスト』)と、世界の主要メディアも「傑作のなかの傑作」と激賞している。」

しむちょーん、読んだよー。本物の小説です。本物の文学です。としか、言いようがない。
こういうすごい小説は、Amazon内容紹介を読んでしまったとしても、まったくネタバレの心配がないのだよな。あらゆる細部が、あらゆる人物が、どのエピソードのひとつもが、息詰まるような切実さ、真実に満ちています。戦争を舞台にし、それを軸にたしかに小説は進みますが、それにとどまらない、何人もの異なる人生のまるごとが、驚くべき多様さをもって描きこまれています。

 話はかなりズレるのだけれど、先日、大学の教養課程のときのクラス会というのがあった。中にはずいぶん偉くなっている人もいるけれど、多くはそろそろ「社会人キャリアの終わり方」、ひいては「人生の畳み方」に悩むお年頃なわけで。私もフリーランスだから、年とともに仕事はどんどん減っているので、近いうちに仕事は自然消滅になるだろうから、ここから先は、良い本、文学思想の本当に優れた本を読んでは、モノを考える、という本当にやりたかったことを、頭が働くうちにやっていきたいものだなあ、というような希望を語ったりしたのだが。そうすると、「原は悠々自適だね。奥さんがお医者さんでうらやましい」というようなツッコミが入ったりする。
 文学を読む=趣味=悠々自適、ゆとりがあってうらやましい、という理解のようなのだが、違うのだよなあ。そういえば、電通同期の友人と話していても、同様のつっこみを食らうことが多いので、世の中一般での「文学」って、そういうふうにしか思っていない人が大半なんだろうなあ。
 お金になる=仕事。お金にならない=趣味、というとらえ方なのかな。読書という読むだけ体験=お金にならない=趣味、ひまつぶし、という捉え方なのかな。

 文学は娯楽ではない。文学は趣味とは違う。僕らの大学のクラスの半数以上は「文学部」を出ているはずなのだが、文学にその程度の価値しか見出していなかったのかなあ、と正直、非常にさみしく思う。
 まあ文学部と言っても「社会心理」あたりを実学として学んで、広告マスコミ業界で仕事をしてきた秀才の皆さんからすると、「いつまでも文学なんて青臭いこと言ってんの」と思うのかもしれんがなあ。

 本当に優れた文学においては、一冊の本には、人生全体や世界全体というサイズの何かが詰まっていて、その本を読む前と後では、自分というものが深いところで変わる。そういう体験を通じて、世界のとらえ方、人生の意味を自分の中に広げていくか、というのが、文学を通して生きる、ということなのだけれど。

 というように本を読む人には、ものすごくお勧めの本です。包含されている世界と人生の奥行きが、とてつもなく大きな本です。

 この本で言えば。先の戦争のときの、日本軍士官、教育も教養もある人たちが、どのような「思想と思い」でもって、捕虜虐待をしていたのかしら、ということについて。この作者は、虐待されたオーストラリア捕虜を描くだけでなく、虐待した方の人間も、なんとか理解して描こうとする。それは、私がこれまで読んだ日本人小説家、日本文学で描かれてきたものとは、けっこう異なる。初めて読む、日本軍人の姿と思想であったりする。特定の政治的立場からステロタイプ的批判的に描く、というようなことがない。理解不能な日本人の行動と思想を、なんとか、納得できるものとして把握し、描こうとするその文学的な想像力と筆力には驚かされる。階級の異なる何人かの日本人士官、兵士、朝鮮人軍属、どの人物についても、生きた人物として描かれていく。単に収容所のシーンだけでなく、その前後のそれぞれの人生までもが深く描かれていく。
 もし、例えば、現代の、イスラム原理主義者が日本人ジャーナリストを拉致し拷問する、という設定の小説が日本人の手によって書かれるとして、その拉致拷問を行うイスラム原理主義者の、「現場の若者」「現場指揮官」「指導者」それぞれの人物像、思想と動機、宗教理解の深さの違い、背景を、細かに文学として納得できるように、しかもイスラム教徒側が読んでも納得できるように書くとしたら、それがどれくらいの難易度の高いことかは想像できると思う。
 たまたま取り上げた日本軍人の描き方、というのも、この本の中に包含されている、ごく一部でしかなくて、戦争文学ということで人が普通想像する範囲を、はるかに超えた様々な人物とエピソードが、どの一部をとっても、身もだえしたり、ため息がでたり、激しい生理的嫌悪感を催したりするような見事さで描き出されています。

 途中、「ここで終われば感動的」というところを超えて、小説がなかなか終わりません。「欲張りすぎて失敗したかな」と思いつつ読み進むと、響きがどんどん複雑になって広がっていきます。伏線の収拾のような小手先的技巧を超えて、小説が膨らんでいきます。大作ですし、長いし、複雑だし、ですが、もし読み始めたならば、ぜひとも、最後まで、読んでください。
 



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今年の読書記録。『戦争まで』加藤陽子著 被害者目線ではない、戦争のとらえ方について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『戦争まで』歴史を決めた交渉と日本の失敗 単行本(ソフトカバー) – 2016/8/9
加藤 陽子 (著)
Amazon内容紹介から。「かつて日本は、世界から「どちらを選ぶか」と三度、問われた。
より良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線。」

ここから私の感想
 前著『それでも日本人は「戦争」を選んだ』の、「高校生に語る」スタイルをさらに進めて。先の大戦に至る、内外の外交文書など大量の一次資料を中高生とともに読みながら、当時の内外情勢、意思決定に関与したそれぞれの人物の意図したことを分析考察していく。一方通行の講義ではなく、中高生との質疑応答、やりとりが素晴らしい。中高生の鋭い質問や資料の読みに、加藤先生も新しい発見をしていく。「中高生向けに平易に語った」などという生易しいものではない。(ここに参加している中高生はそこらの大人より、はるかに博識だし読解力も考察洞察力もある。)
 そして、最終的に、先の大戦に負けたことの本質、中心に何があるかに迫っていく。

 日本における、戦争に関する書物というのは「被害者、悲惨な目に合った一般庶民や普通の兵士たちを通して戦争の悲惨さを記録する」というカテゴリー、「当時の軍部の愚かしさや残虐さを告発糾弾する」というカテゴリーが多くあり、もちろんその意義は大きいのだが、それらは全体として「日本人の大半は先の大戦の被害者だった」「戦争は悪辣で愚かな指導層が引き起こしたものだ」という、戦争があたかも天災であったような、一般市民には避けようもないものであった、という「被害者視点での戦争観」を作り出してしまう。

 この本は、そういう戦争本とは、かなり異なる視点、立場で書かれている。戦争とはあくまでも人間の選択の結果として起きるものであり、その戦争までの意思決定に関与した人物=各国の国家指導者や軍幹部、外交官など官僚、天皇陛下自身やその側近らの「その人たちの書いたもの、語ったことの記録」を丹念に追い、それぞれの人物像、その当時の立場、狙ったこと、どのような選択肢の間で迷ったか、国家の意思決定の中でどのような対立意見、議論があったか、最終的にそのような選択に至ったのはどのような合理的な理由や偶然の事情や、ものごとのタイミングが重なったのかを、重層的に解き明かしていく。

 さらに言うならば、戦争に至るまでのいきさつを「軍部の悪辣さ」「かかわった人間の愚かしさ」としてテレビなどでもっともらしく語られるスタロタイプな物語やエピソードについて、資料に基づき、そうではなかった可能性、各部署各立場の人間の多くは極めて合理的に判断をし、未来も的確に予測していたことを明らかにしていく。ならば、どこで、なぜ、間違ったのか。

 「戦争の悲惨」について書かれた本、語られるテレビドキュメンタリーなどの方に多く接している私としても、そういう悲惨さと、こうした「意思決定者の側の事情や考え」の関係をどうつなげて飲み込んでいいのかは、どうもはっきりした考えを持ちにくい。
 指導層の、当時の考えや言動行動を見ても、結果としての「誤り」「弱さ」はあれ、極端な「悪意」や「愚劣さ」があったようには思えない。それは、今、私が日常接している「企業の戦略を考えている企業幹部」が、さまざまな意思決定をする。それについて戦略を立案する参謀役含め。多くは有能で善良な人たちが、真面目に職務に当たっている。その中で競争相手との戦いに、勝ったり負けたりする。時になんらか不祥事トラブルをその企業が起こすことを経営者や戦略参謀として防げなかったりするが、そうであっても、極端な悪意があることはほとんどない。。「国家、戦争」という場面でも、「各個々人の行い、できること、やっていること」でいえば、そんなに大きな差があるわけではない。
 企業戦略と異なる点があるとすれば、自分の決定により多くの人の命をやりとりすることになる、という点。また同時に、戦前の日本では多くの政治家に対するテロがあったために、意思決定にかかわることは自身の命の危機がリアルにあった。(天皇でさえも。)。とはいえ「命がかかっているから」といって、やはり意思決定のためにできること、やることに大きな違いは無いのである。情報の収拾と分析。いくつかの妥当なシナリオを立てる。その優劣を比較する。関与者の意見を聞く。交渉する。(提案し、議論する。) 個人として交渉相手や協力者に信頼されるようにふるまう。そうした当たり前が、どこでどう機能しなくなるのか。
この本の結論としては、「英米側の掲げる戦争目的が、最強の資本主義国家の彼らにとって有利なルールであったのはもちろんです。そして戦争の途上で、英米側の戦争目的に共鳴できる国家を募り、増やしていって、最後に、のちの国際連合の基礎にしていく。自らの利益の最大化を図りつつも、他のものもその道に仮託することで利益が得られるように配慮すること、そのような行為を、普遍的な理念の具体化、というのではないでしょうか。日本の場合、この、普遍的な理念を掲げることができませんでした。」というあたりに収れんしていく。こうした視点で、歴史とともに、今の政治を考えるきっかけにもなる本でした。

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