後藤さん殺害の日に思うこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

明け方まで起きていて、まさに眠りに落ちようかというときに、後藤さんが殺害されたというニュースがスマホのお知らせに表示された。ああ、なんていうことだ。ひどく重たい気持ちのまま、体も意識も石の重りを付けられたようになり、ニュースを確認したりテレビを見たりすることもできず、そのまま眠りに落ちた。
昼過ぎに目が覚めたとき、ひどい吐き気と頭痛と体の重さを感じた。インフルエンザかノロウイルスかなにかを発症したのかと思ったが、起き上がってみるとそうではないようだ。精神状態が身体に影響したようだ。身体にまで変調をきたすようなショックを、ニュースから感じたのは、人生の中で、福島の原発事故のニュースを見たときと今回の二回だけだ。

フェイスブックの友人知人の何人かは、今すぐ政治的な意見をうんぬんせず悲しむべきだ、その死を悼むべきだ、という意見をアップしている。一方、安倍総理は、「その罪を償わさせるため国際社会と連携していく」とか「日本がテロに屈することは決してない」とか「テロと戦う国際社会において、日本としての責任を毅然として果たしていく」とか、「戦争続行宣言」的発言を続けているようだが、うまく報道記事が頭に入ってこない。

何か違う、という吐き気が僕の気持ちを支配している。どういう脈絡か、以前、友人のコピーライターに怒られたことを思い出した。彼と一緒に行った大きな仕事の(広告キャンペーン)のコンペで負けを知った直後のことだ。敗因を詳細に分析したメールを送ったところ、「全力を尽くし負けた直後に、いきなり敗因の分析をするな。今は、全力をつくして戦ったこと、負けた悔しさ、そういう感情的な体験に敬意を表し、それを労い、痛みを分かち合う時であり、冷静に敗因分析をしたりするときではない」という内容だった。

人が大きな痛みを感じ、その感情的な混乱と痛みを内的に消化し受容しようとしているそのとき、そのタイミングで、なぜだかわからないが、私の体と頭は、理性的に、理屈でその分析をしようというように働いてしまう。悲しみや怒りという石炭、熱源がくべられることで、理性的に分析するエンジンが猛烈に働いてしまう。申し訳ないが私はそういう人間なのだ。政治的に後藤さんの死を利用しようとしているのでもないし、悲しんでいないのでもないし、怒っていないのでもない。その反対だ。ものすごく落ち込んでいるし、ものすごく怒っている。後藤さんは知り合いでもないし、報道で見聞きした以外のつながりがあるわけではないが、その解放生還をほんとうに願ってここ一週間ほどを過ごしてきた。
私には六人の子供がいて、うち五人は男子だ。もう三人は成人しているが、どいつもこいつも人生に迷って、右往左往している。後藤さんも湯川さんも、道に迷った末に、うちの子供たちがなりうる存在だ。香田証生さんが殺害されたときも、長男は「自分もいろいろ迷って世界をさまよって、ああいうところにノリで行ってしまう可能性はある」と話していた。長男は今、二十代も後半にさしかかったが、就職もせず、うろうろしている。三男は大学を休学してうろうろしている。二男は就職が決まらずうろうろしている。みんなどこかで覚悟を決めて後藤さんのようになる可能性も、道に迷って湯川さんのようになる可能性もある。(五人男子がいたら、一人くらいは性的少数派になる可能性もあるなあ、と覚悟もしている。)少子化の時代、いったいどれだけの人が、湯川さんや後藤さんを「自分の子どもだってああなる」という可能性として見ていたか。自分の子供がオレンジの服を着せられて、テロリストの凶刃のもとにあると受け取っていたのか。だから、これから書くことは、表面的には理屈の話だが、書かせている原動力は理屈ではない。自分の子供が生きていく世界がどうあってほしいか、そのためにはどう考え行動しなければいけないか、という切迫した気持ち、焦りがこの文章を書かせている。

今日一日起きたことについてメディアに出る言説を以下三つに分けて考えてみる。
① こういう感情的な痛みを、政治家はなにがしかの方向に利用しようとする。政治的な立場と結びつけた言説。{安倍総理の「テロとの戦い続行宣言」。とか野党勢力側の「安倍総理の政治的責任を追及する。」とか}
② 専門家(イスラム政治、国際関係などの)は、「専門家以外は口をだすな、勝手に判断するな、感情的になるな」という専門家の意見を言う。
③ 倫理的な「いい人」は、「政治的に利用するな、まずは個人を悼め」という意見を言う。

こういう情報が組み合わさって押し寄せてくることに、私の身体全体が反発している。吐き気を催している。ひとつひとつそれぞれ、もっともらしいが間違っているし、それら三つが組み合わさることはもっと間違っている。

こういうときこそ、原理的に考えたい。そうでないと吐き気が止まらない。というのが私だ。素人だが、だからこそ、こういう大きなことが起きた時は原理的にことを考え直すべきだ。私はそう思う。そういう人間だ。語義のもともととしてのラジカルに考えたい。

 こういう感じを、福島原発事故直後にも味わった。だからわかる。まず、②の「専門家以外口を出すな」というのは絶対に間違っている。警戒すべき最たるものだ。細部についてはわからなくても、大きな状況しての判断は誰もができる。それを押しとどめる専門家の専横的態度は①の政治家の政治利用と結びつく。③の「いいひと」の行動も、大きな原理的判断に基づかないときは、①や②に利用される恐れがある。これらの組み合わせが間違って働くと、本当に大切なことがきちんと考えられないままに、状況が最悪な方向に動いてしまう。

 もつれた糸を解きほぐすために、まず②「専門家以外は口を出すな」への違和感から考えていきたい。

 イスラム国周辺の世界史的国際政治的歴史背景は、たしかに専門家以外にはわかりにくい。知識としても知らないことがたくさんあるし、ある程度わかったとしても、その中で取りうるどの立場が正しいかの判断はとても難しい。だから、知る努力無くして、判断をするな、という意見は正しい。しかし「専門家以外は口を出すな、あなたは判断をするな」という専門家の態度は正しくない。自分の人生、家族の将来に関係あることであれば、人は知る努力を素人ながらする。そしてなにがしかの判断をする。ガンにかかれば、病気に関して素人ながら勉強する。より信頼できる医師がどこにいるか。最新の治療法がどこで受けられるかについて勉強する。勉強熱心な患者は、不勉強な医師や、自分の治療法の学会的評価を気にするような偏った専門家、権威的医師よりも正しく自分の病気について判断できる場合がある。あるいは、病気そのものを治すことと、よりよい人生を送ることのバランスについては、医師ではなく、患者の方が判断できる場合がある。
 日本が中東にどう関わるかは、私や私の家族の将来、生命に直接かかわる問題だ。だから、知ろうとする。勉強しようとする。私は専門家としてではなく、自分と家族の人生と命にかかわる問題として、中東の問題に対して、ある判断をする権利と義務がある。そのために知る努力をしているし、特に今回のことを契機にさらに勉強を始めている。

 原発問題に関して「原子力の専門家以外は口を出すな」という議論がまったく意味をなさないのは、ここ四年間に僕らが学んだことだ。原子力専門家や政治家でなくても、自分の人生にかかわる問題として、知り、意見を表明することが大切だし、その権利はある。いや、義務がある。こうした問題に、第一義的に、政治的にではなく、「倫理的に」関わることができる。「こういう人生をよき人生と考える。そういう生き方をしたいと考えた時に、エネルギーについてはこのような立場でありたい」。これをすぐ「サヨク」という政治的批判をする人がいるが、これは違う。生活と人生に対する考え方、倫理的判断にもとづいて、二次的に政治的判断=ひとつひとつの政治課題への態度を決めるのだ。

 だから、③の「いい人」が、政治的課題への判断を留保排除して、感情的「悼み」だけに今回のことを限定するのには抵抗感がある。このような人生を自分と家族に送ってほしい、という願いがあったら、そのことと、今回のことをどう結び付けて判断するか。これは権利だけではなく、義務だ。

①の政治利用について。安倍総理の立場には反対だが、「自民党だから何でも反対」とか「安倍さんきらいだから反対」というような話ではなく、日本が政治的にどういう立場を取りうるかを、原理的に(現実にではなく、原理的に)考えてみたい。

国際紛争への関わり方はふたつの軸で考えることが可能だ。
① だれと一緒に行動するか。
② 何をもって貢献するか。
集団的自衛権の問題も、結局このことについて「同盟国」と一緒に「軍事行動も含めて」貢献する、という極端な選択をしている、ということで整理すればわかりやすい。

① は「国連とともに行動する」「西側(米国と西欧諸国)とともに行動する」「米国とともに行動する」「ご近所の国(東アジア、東南アジア)近隣諸国とともに行動する」「単独孤立主義」などの立場が原理的には取りうる。
結論から言うと、私の立場は「国連とともに行動する」である。これは「西側とともに」とも「米国とともに」とも明確に異なる立場なのは言うまでもない。軍事行動に関して、国連決議のない軍事行動には一切関与しない、というのが私の立場だ。今、国連決議ありで行われる戦闘を伴う軍事行動というのはほとんどない。(平和維持活動に伴い戦闘が生じてしまうことはあっても)。米国主導の軍事行動にはロシアと中国が賛成しないことが多いから。国連と一緒にしか行動しない、というのは、今の現実からすると、米国から距離を置く、という選択に結果としてなる。イスラム国に関する国連の決定(安保理での決議2170)は、資金源を断つ、外国人戦闘員の参加を阻止するなどという措置については求めているが、それ以上の具体的な軍事行動を加盟国に求めてはいない。日本は国連決議2170に沿った行動はしても、調子に乗って軍事行動をする米国の有志連合にまで同調しようというのはまずい。
米国と日本が軍事的に連携すべきは(もちろん日本に関する個別的自衛権を発動するときに、日米安保条約に基づいて米軍と共同行動をとることは当然そのまま保留してよい。その範囲はあくまで日本の周辺に限定すべきである。エネルギーを中東に依存しているから中東の紛争が日本の国の存立にかかわる事態だ、というのは正しくない。前の大戦に突入した原因の、国の外に防衛ラインを敷く考え方と一緒だ。)
私の立場はそういうことだ。できるできないではなく、そうすべきだと考えている。こういうことを書くとまた「サヨク」だという批判が来そうだが、違う。むしろ「ウヨク」だと考えている。対米従属を推し進める支えるのに利用されている偽物右翼ではなく、日本の文化と政治的立場を、いったん、しっかりと独自に決めた上で、米国の属国としてではなく、国際政治に関わっていくという立場は、これは純粋な意味で右翼なのではないかと私は考えている。

今回のことがつきつけているのは「アメリカとか、それが提唱する有志連合とか、そういう国連ではない勢力と一緒になって、日本国周辺以外の紛争に関わるのか、中東に関わるのか」という根源的な問いかけだ。イスラム国が残虐で非道なことは今回のことで、日本人にも身に染みた。として、歴史的背景も、国際政治的背景も複雑な中東の紛争に、日本が明確に敵味方を明らかにして関わるのか」という問いだ。そして答えは、NOだ。
 日本が中東での米国の行動に賛同参加しないからといって、米国が日米安保を廃棄して、日本から米軍を引き上げるか?もし引き揚げてくれるなら、お引き取り願えばよい。しかし、そんなことは絶対しないだろう。米国は米軍の国益にかなうから米軍基地を日本においているのだから。米国と日本の関係は日本国周辺に限定すればよい。

すこし別の話をする。
今回ここしばらく、「イスラム国」は国なのか、という議論がテレビでも新聞でも行われている。米国は一貫して国とは認めない、国という印象も国際世論に与えないように、その呼称について神経質になっている。しかし一方、たとえば政治学者の萱野稔人氏などは、「国際法的にまだ国とは認められていないが、原理的にはかなり国に近い形になってしまっているし、彼らが国を志向していることも事実だとしているし、一方で、国際法的には国であるところのシリアやイラクが、実態としては国として機能していない「破たん国家」化している。またあのエリアに存在するクルド人が、国際法上は「トルコ、シリア、イラクなどに分割された各国の少数民族」であるが、実際には人口3000万人からの、軍隊を持つ「国境をまたぐ民族集団」であることも露わになってしまった。(そして米国の全面的支援を受けていることも)

 敵が「テロ組織」であり、かつ、今回の人質事件は「テロ組織による営利/政治目的誘拐脅迫である」とするならば、テロと戦うことは犯罪者集団に対峙することであり、それは「戦争ではない」というのが、日本政府の立場だろう。戦争でない犯罪から邦人を保護するためであれば、自衛隊を派遣しても、それは「戦争しにいくのではない」というのが、政府の理屈の原理だ。そう言い張るためにはイスラム国は国であってはならない。犯罪集団だ。

しかし、かつての冷戦時代に左翼反政府勢力が、政権をとってしまえば国であり政府になったように、イスラム過激派もある領域を支配し政権を樹立してしまえば、国として考えざるを得ない。かつては過激派扱いだったパレスチナも、今は国連加入を申請中だし、国家承認する国も130か国に上る。米国と西欧と日本オーストラリアなどが認めていないけれど、世界地図でパレスチナ承認国を塗りつぶしてみれば、国家承認している国の方が圧倒的に多いことがわかる。(サッカーアジアカップの対戦国にパレスチナがあったよね)
話がちょっと横にそれるが、日本もパレスチナを国家承認していなく、それが国際世論的に当然なんだろうと漠然と考えているが、まさに「米国と歩調を一にしている」だけで、アジアアフリカ南米の大半の国はパレスチナを国家承認している。西欧諸国も承認に向けての動きが鮮明化している。UNESCOもパレスチナを加盟国として認めている。「誰と一緒に行動するか」というのは、まさにこういうことだ。無意識に「米国と歩調を合わせていれば、それが世界標準だ」と思い込んでいる日本人の視野狭窄についてもっと自覚すべきだ。
 イスラム国も今は「国ではない」「過激派だ」としていても、アルカイダなどと違ってイスラム国は「領土」も「民生施策」もおこなっている以上、もしイスラム国が「国になる一歩手前の、国になりうる反政府勢力」であるならば、そこに自衛隊を送ることは限りなく「戦争」に近い。日本は戦争をするのか。
 むしろ21世紀の戦争は、内戦と、そしてテロに形を変えている。21世紀型の戦争に積極的に参加するという選択を、私たちはいつしたのか。そんなことについて自民政権にOKと言ったのか。ましてやイスラム国は、アルカイダと比べると、「領域限定的」志向がもともとは強かった(無関係な世界にテロ輸出しようという動機はもともとは弱かった)ところに、おせっかいに手出しをしにいくべき対象なのかどうか。

私の意見は、イスラム国に対し軍事的に関わることにはっきりと反対だ。イスラム国の成立の前提となっている、シリア、イラク、ヨルダンあたりの歴史的経緯と、イラク国内のシーア派スンニ派の対立と、という日本にとっては判断不能な紛争に、わざわざ首を突っ込むことはない。アメリカのおせっかい&軍事ビジネスの尻馬に乗る必要は全くない。英国フランスの旧植民地政策の後始末に日本が関わる必要も全くない。少なくとも軍事的に関わることは一切すべきでないから、そう受け取られる可能性のある自衛隊の派遣もすべきではない。イスラム国と戦闘をする国を支援すべきでもない。お金も出すべきでない。人道支援をするのであれば、人道支援に限定されていることがわかる形の支援にすべきで、金を出したら金はどう使われるかその先は不透明だから金を出すべきではない。

人道支援だけをするなら良い。しかし、中東において軍事行動はもちろん、武器輸出ビジネスを展開することも絶対にすべきではない。武器ビジネスなのか通常のビジネスなのかグレーゾーン疑われうるイスラエルとのビジネスの拡大もすべきではない。



では何をもって、日本は国際的貢献を果たすべきなのか。中東とどうつきあうべきか。は、
力尽きたので次回、続きを書きます。

その前にイスラム国に対して、これだけは言いたい。
イスラム国に対して言うべきことは
① ジャーナリストの誘拐殺害をやめること。
② ヤズィーディーへの迫害(奴隷化、虐殺)をやめること。
この二点があるために、イスラム国をパレスチナのように捉えることが難しくなっている。単なる狂信的テロ集団としてとらえる立場を肯定したくなる。せざるを得なくなる。

日本政府に言いたい。イスラム国が上記二点を明確にするよう要求しつつ、それ以上のイスラム教宗派間の対立や、民族的抗争については、日本人はどちらにも与しないで、人道的立場から被害者支援を行うという立場を鮮明にすべき。

正直、スンニ派とシーア派の対立、クルド人との対立に、外国が関わるのは、どちら側についたとしても、憎しみの連鎖を助長するだけであり、資金も武器も、どちら側にも出すべきではない。その過程において出続ける民間人の犠牲、どちら側にも人道的支援を続けるという立場を明確にすべきだと思う。結果として、それは米国主導の有志連合とは距離を置く、という立場になると思う。

(ナチス台頭期に、それを擁護したり放置した英国や米国のようにならないか、という懸念はもちろんこれを書いている私にもある。あのときイスラム国を本気で殲滅すべきだった、と後で後悔しないかと。しかし、やはりそれはイスラム世界の中で、かれらの主体的選択としてなされるべきことであり、米国のおせっかい世界の警察行動や、ましてやそこにおける経済利権獲得のために、うろちょろすべきではない。)

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