2つのNOについて考えた。その2 政治的・政治的ではない、とはどういうことか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 具体的にやってみると、読む人にとって相当めんどくさいことになっているのに、ブログをわざわざ二つに分けたのは、この文章を書くことについての自分の中での躊躇と葛藤が、すごく強かったから。いまこの瞬間も書かない方がいいかな、という気持ちがかなり強い。でも書きたい、、読んでもらいたいという気持ちもすごく強い。あっちのプロジェクトを進めている「私」とこの文章を書いている「私」が同じ人だけど別の人。みたいな感じにならないか。

なんで、そんなこと考えたか。というと。

 脱原発を、政治的な対立課題にせずに進められないか。そう思った理由は、初めのブログで書いたとおり、まずは実効性の問題。政治対立になると、ことはなかなか進まない。そして、推進しようとする方は、なかなかしたたかでしぶといので、若者や市民運動やが「盛り上がって、勝てそうな気分」になっても、政治的現実はなかなかそうは進まない。だから、大企業も、保守的政治家の一部も、役人の一部だって乗っかりたくなるような、新しい成長とビジネスのビジョンを、「楽しそうな我が家わが社」で実現しちゃえ、と思ったということ。それは本心だ。だから、楽しい、政治的じゃない脱原発、と言っているのに、政治的な話を書いたら、裏切りだよ。と何人かの近しい人には言われた。それから、政治的に読める文章を書いた瞬間、あらゆる方向から足を引っ張られ、攻撃され、大変なことになるよ、とも注意された。そうだよな、政治的じゃなくておしゃれで楽しいから、たくさんの人が賛成してくれたんだよな。裏切っちゃだめだ、せっかくたくさんの人が賛同してくれたんだから、大切に、用心深くすすめなくちゃ。という思い。

 でも、ほんとうのことを言うと、もうひとつは「脱政治」とわざわざ言いたかったのか、というと。
「政治的」というか「イデオロギー的対立」というものの行きつく先が、とても怖かったから。というのが、本当のところ。

 国+大資本vs若者・市民運動・その後ろにちょっと左の人たち。という対立構図だと、
 なかなか進まない。そのうえで、怖い。怖いからいやだ、と私が感じる理由を、はじめは、私が育った子供時代からの家族親族の物語として、書こうかと思った。というか、実は何度も書いては、アップしかけては、やっぱり削除したり、ということを繰り返した。アクセス記録を見ると、何人かの人は読んでしまったような気がする。いや、あれはアップしたのを自分で読んだ回数なのかな。

「正しい」の反対は、「間違い」、のはずだけれど。「正義」の反対は「悪」になってしまう。

 イデオロギー対立は、初め、自分は「正しい」、あなたは「間違い」と言っているはずなのに、
いつのまにか、自分は「正義」、相手は「悪」という話になっていく。「間違っちゃった」というのと「悪」というのは、違うはずなのに。自分の反対の立場の人を「悪」だとして断罪しようとする。存在すべてを否定しようとする。誰しも存在すべてを否定されたくはないから、否定しようとする相手を否定しようとする。

 原発推進の人も、今回、あんな大事故が起きたのだから、「どこか間違った、ミスをした」ということは、認めているのだと思う。でも、だからといって、自分がやってきたことすべてが「間違い」だとは思っていなく、まして、「悪意」をもっていたとは、まったく思っていないと思う。反原発を主張する人の多くは原発推進してきた側を、初めは「間違い」を指摘していただけなのに、だんだん「悪」だと追及し始める。そうすると、推進派の人たちはどんどん頑なになって、むしろ、反原発派を攻撃してくる。

 もちろん、原発推進の具体的プロセスで、地元の人を説得懐柔するプロセスの中に、「悪」としか言えないようなさまざまな具体的圧力があったことは、事実だと思う。だから、地元のそういう思いをされた方が、国や東電を「悪」として追及することに、私のような遠く離れた人間は異を唱える資格はない。

 でもね、脱原発を本当に進めようとしたら、原発を推進した人を、「悪」とはじめから決めつけて、その存在を全否定するような運動にしたら、むしろ、ダメだと思う。本当はかなり悪の要素が濃くなっているとしても、そもそもの初めには、ある善意からスタートした、と認めるところからスタートしないと、話が進まないと思う。本当はそうじゃないにしても。嘘でも性善説に、一回、立ってみようよ。原発をめぐる問題というのは、実は「みんなが豊かになるにはどうしたらいいか」という、善意について、異なる善意実現方法同士が、対立してしまっているのだ、ということを最初にお互いに、一回、認めてみようよ。特に雰囲気として、明らかに「悪」にされやすい、原発を推進してきた、既得権益側にいる、年齢的にはじいさまたちを、いったん、善意のひとだったんだよね、初めはね、と認めてあげるところからスタートしようよ。嘘でもね。

 あさってはうちの父の、80歳の誕生日です。その父と、それから今は亡くなっている叔父と、そして私についての、家族の話を、やっぱりしないと、言いたいことは伝わらない。本当に長くなるけれど、僕の家族の話から、考えた、脱原発についての、今、思っていること。ほぼすべて。ああ、本当は、このことを僕はみんなに読んでほしかったんだと思う。

『いままで原発を推進してきた誰のことも憎まないようにしたい。
でも、原発はなくなるべきだと思う。その判断について迷いはない。
これは、父についての思い出と(まだ生きているのだけどね)、六人のわが子たち、息子娘たちに言っておきたいことを書いた個人的な文章だ。』

どこから話をはじめよう。龍の子太郎の話、いやその前に、父の話から始めるのがいいだろうか。

私の父親は、原発を推進してきた中心人物、なわけではない。北海道開発庁という、中央官庁のなかで、もっとも小さくて、エリート度の低い官庁の、それでも、上級職試験を通った、キャリア官僚だった。キャリア官僚といっても、東大法学部出のエリート、というわけではなく、北大農学部農業経済卒、農林省採用、という田舎のエリート、上級職を通った官僚の中での地位はかなり低い、という人だ。北海道開発庁のような弱小官庁では、事務次官は、大蔵省内部の出世競争には途中で負けちゃった東大法学部大蔵省出身エリートが、役所内で天下ってきて、事務次官に座るのだ。だから父のような北大、農林省採用、北海道開発庁プロパーという人たちには、世間の人がイメージするエリート官僚臭というのはほとんどない。そのうえ、若い役人というのは、ほんとに薄給だった。少なくとも子供時代の私の父親に対する印象には、『高級官僚』とか『エリート』とかいったイメージはまったくない。貧乏くさくて、やぼったくて。公務員官舎の貧乏役人の子供たちは、公団住宅や一軒家に住んでいる金持ち民間サラリーマンの友達のことがうらやましくてしかたがなかった。父曰く、国民の皆様の税金で、養っていただいているのだから、公務員官舎は公団住宅より、みすぼらしくつくらなきゃいかんのだ。そうだ。一戸建てやマンションの子に、官舎のことを「犬小屋」と呼ばれて馬鹿にされたこともあった。役人がエリートだなんて思ったことは、子供のころ、いちどもなかった。
 役人としての父が優秀だったかと言われると、私にはよくわからない。30代、霞が関の本庁時代に、今は開発行政の失政として語られる苫小牧東部開発について総合企画室にいて携わり、その後、人事考課の担当官となり、北海道の現業部門・開発局に戻って、局の官房長という、局長のひとつ下の、北海道の役人NO2という地位で退官し、天下りをした。天下った先の第三セクターの社長になったところで、仕事から退いた。おおまかにいうと、こんな役人人生だったはずだ。
 父が、農林省に採用になり、その後、北海道開発庁に自ら志願して進んだのは、北海道の開拓農家である稲作農家に育ち、厳しい北海道の環境の中、農家をする人たちはじめ、全国でもいちばん貧しく厳しい北海道を豊かな土地にしたい、と願ったからだ、と聞いたことがある。本人が直接語ったのではなく、おそらく、母から聞いたのだと思う。
父は、役人として有能であったかどうかはわからないが、人間として、曲がったことが嫌いで、正義感が強く、また、困っている人を放っておけない人だ。私が中学生だから、父が40代半ばのころ、電車の中で、老人が座ろうとした席に割り込んで座った若者を注意して、殴られて眼鏡を壊して帰ってきたことがあった。最後の第三セクターを退任するにあたっては、事業として十分な成果が果たせなかったこともあり、天下りに対する世間の批判に対し自らも思うところがあったのだと思うが、退職金は全額返還している。私の姉の子供、つまり父にとっての孫たちが通う学童保育の施設が、使用していた借家から立ち退きを迫られた時、近隣の中古住宅を購入し、学童保育用に、ただ同然で貸し出して、今もその状態は続いている。曲がったことがきらい。困っている人を助ける。父の性格は裏表なく、こういう人なので、北海道開発庁の仕事を選んだのも、裏表なく、貧しい北海道の人たちの暮らしをすこしでも豊かにしたい、という善意に基づいたものだったというのは、うそではないと思う。
1970年代に入り、父が苫小牧東部開発に総合企画室で関わっていたころ、世の中は、公害問題で大騒ぎになっていた。母は、札幌の医者(のちに市民病院という札幌でいちばん大きい総合病院の院長かつ北海道医師会の副会長にまでなる、エリート勤務医)の長女として生まれ、都会的でリベラルな雰囲気の家に育った。母の弟3人のうちふたりは、学生運動に身を投じ、代表的新左翼セクト系の全学連委員長、副委員長になり、二人とも内ゲバの犠牲者となり、一人は死亡、一人は回復後も活動を続け。今も生きていれば、地下潜伏生活を送っているはずだ。(死んだ方のおじは、正確には運動をやめて、新しい人生を歩もうと、名前も変えて地方の国立大医学部に入学しなおし、もうすこしで医師として再スタートを切れそうに思えたある晩、アパートで襲われ、死亡した。私が高校二年のときだ。これを内ゲバということを、母は許さないかもしれない。知的でやさしい人だったので、このおじの思い出だけで、いちど文章を書きたい)。母はそこまで過激な政治思想の持ち主ではないが、基本的に朝日新聞・岩波書店的、反権力思想、市民運動に共感しやすいタイプであり、当然、公害問題では大企業と国に対して、極めて厳しい批判者であった。父母は、基本的に仲がよかったので、夫婦喧嘩はまったくしなかったが、公害問題や反戦運動などについて、権力・資本の代弁者としての父と、朝日岩波市民運動代弁者としての母は、ことあるごとに論争をしていた。そして、子供と言うのは、基本的に母親の味方であり、父親に反発するものなので、私は当然、朝日新聞・岩波書店よりの思想に共感を覚える、政治的立場鮮明な小学三四年生になっていた。中学生・高校生になると、私は夜遅く酔って帰ってきた父や、酔った父が連れてきたその同僚部下と、さまざまな政治問題について、議論をすることがときどきあった。おもに公害、環境保護、自衛隊、反核などといった、対立構図の鮮明な課題についてであり、原子力発電についても、テーマになることがよくあった。中学高校大学生の息子を私自身が持つようになった今にして思うと、父はそうしたテーマについて、大人に議論を挑んでくる息子を、かなり自慢に思い、同僚たちに見せびらかしたい気持ちもあったのではないかと思う。
私は当時から口先戦闘能力は極めて高かったので、父やその同僚を議論の筋道の上では追い詰め、言い負かすこともあったように思う。そんなときの父の結論は「現実はそんな甘いものではない」『お前の言うのは現実を知らないただの屁理屈だ』という、当時の私に反論不能な卑怯な言葉となる。そこまで言わせれば、私は悔しい思いと、その卑怯な言葉を吐かざるを得ないところまで父を追い詰めた満足感が相半ばする感情を抱いた。
 話が逸れたけれど、こういう議論の中での父は、今、原発推進論者が言っている理屈と全く同じことを言っていたし、当時の私の主張は、今の反原発論者の議論と基本、全くかわらないものだった。善意の人である父は、その善意ゆえに、原発推進の通産省公式見解をそのまま確信をもって語った。お題目としてではなく、原発が、開発が、貧しさを駆逐して、日本人を豊かにすると信じていた父のような人が、父の世代にはたくさんいたのだと思う。

 その後の私の思想的変遷でいえば、高校時代に三島由紀夫の文学に出会い、大学でも三島研究を文学部国文学科で続けた。その中で、「政治思想」の立場は、右が左かと言われれば、右寄りの思想に傾いていった。とはいえ、生活表面上は、一切の政治的行動はしないようにしてきた。完璧な都市型非政治的市民として、何十年も生活をしてきた。それは、政治的暴力によって死んだおじ、政治的暴力を自らにふるって死んだ三島のふたりにはさまれて、私にとって、政治は死に直結するものであり、死ぬ覚悟のないときは、絶対に政治的行動にはでない、と心に決めたからだ。子沢山な家族を形成し、死ぬわけにはいかない度合いがどんどん高まるにつれ、政治的行動を避けることは、私にとって生活上の最優先事項になった。
そのうえで、いや、それにも関らず、私は環境問題と原発問題に関して言うと、はっきりと環境保護派であり、原発反対主義である。それは、48年間生きてきた中で、ずっと問い続け深めてきた思索の結論として、今後もぶれることはないと思う。そう考えた道筋を、文章としてまとめておきたいのだ。
 自然破壊をしながら開発を進めた役人の息子。新左翼学生運動に深くかかわった末、無念の死を遂げたおじの、おい。三島文学の信奉者。子沢山家族の父親として、そういう重しが全部かかった状態としての、質量としては重たいのだけれど、全部ぶら下げた物体として、「政治的には真ん中へん、どちらにも傾かない。質量の重いノンポリ」でいたい。

 ここで、「どっちかというと右寄り、と脱原発の思想の関係」をまとめておきたい。
私が右寄りという場合、そのことが指すのは、時間と自然に対して敬意を払う思想のことだ。自分ならざる者から引き継ぎ、自分ならざる者に引き継いでいく時間の中での他者とのつながりに対し、敬意を払う思想が右よりの思想の本質だと私は考えている。時間的つながりと自然とのつながりの中に日本文化は育まれている。それを守るという視点から、私は原発に反対する。(左より、といった場合には、世界共通共時性と、弁証法的進化進歩、その基本にあるのは人間理性への信頼と肯定、理性的人間による自然の征服活用利用は肯定、ということ。すごい単純化してしまったが。この辺は左右両方の方から批判集中しそうです。今からあやまっちゃう。単純化しています。ごめんなさい。)

 えーっ、難しい言葉使ってるけど。結局、自然保護っていうことじゃん。自然保護は左翼的市民運動の専売特許じゃん。わかい世代の人はそういうかもしれない。でもね。そうじゃないんだよ。
 いかん・いかん、政治的対立を持ち込むと、すぐにお互いを攻撃したくなる。
左右いずれの立場からも反原発の思想は生まれうるということだけ、ひとまず置いておこう。そのうえで、今、問題にすべきは、『原発というのは、私の父親の世代にとっては、貧しさからから脱却する開発の思想と連動して肯定されてきた』ということ。私がしたいことは、開発の思想をもった父世代を憎まない。彼らの善意を否定しない。しかし、父を憎んではいないが、開発の思想と、それと連動した原発の推進は、この日本から、そろそろ退場してもらわなければいけない。父親を愛し、しかし開発の思想と原発推進に、はっきりと否を言う。
そのために、まず、開発の思想の善意と、その一方での環境意識のなさ、ということを、理解してほしい。私の父とほぼ同年齢の、高齢某都知事が『原発推進』と言い切る心情も、こういうことではないかと私は思っている。

 『開発の思想と龍の子太郎』

開発の思想は、昭和二十年代後半から三十年代にかけては、イデオロギーの左右を問わない、国民的思想だった。原発推進も、そうした機運から肯定されていた過去を持つのではないか。今、さまざまな『裏話陰謀』が日本における原発のスタートにあったということが言われる。あったのかもしれない。本当のことは私にはわからない。しかし、自然破壊を伴う開発も、原発も「はじめから資本と権力の強欲と悪意から推進された」として批判するのは間違っていると私は思う。当時の国民の気分を1960年に発表された童話作家松谷みよ子の出世作『龍の子太郎』という児童文学に見て行きたい。

 松谷みよ子は父が左派の弁護士であり、晩年まで平和運動に熱心であったことからもわかるとおり、思想傾向分類からは左翼的文学者として理解されている。
 その出世作である龍の子太郎も、貧しい農民のくらしから生まれる悲劇をベースにしており、そのような思想背景から生まれたものとみることができる。
 が、しかしである。私は長男が生まれてから、毎晩、寝る前に本の読み聞かせを夫婦で欠かさずしており、特に長男に対しては、非常に大量の本を、私が主導で読み聞かせた。その中で、龍の子太郎を朗読して、私はその結末部分の意外な展開に、内心仰天した。そこには左翼なのに開発礼讃自然破壊OK、という驚くべき立場が何の迷いもなく堂々とすがすがしくも表明されているからである。
 龍の子太郎の母は、極めて貧しい寒村にくらしており、太郎を身ごもったとき、村の共有物である川の岩魚を、妊娠中のひもじさから、自分ひとりで何匹も食ってしまう。そのさもしい心から、母親は龍に姿を変えられてしまう。母親は悲しみ、太郎を産むと、自らの目をえぐりだし、目玉を乳代わりに太郎にしゃぶらせるように持たせて、めくらの龍となって姿を消す。母の目玉をしゃぶって祖父母に育てられ成長した太郎は、めくらの龍になった母を探して東北地方の貧しい山村を旅して歩く。貧しさゆえに、皆が不幸であること。母親が龍になったのも山村の貧しさゆえであることを旅の中から学んだ太郎は、ついにめくらの龍になった母に出会う。そして母に頼む。おれが母さんの頭に乗って、かあさんの目になってさしずするから、湖の周りの山に体当たりして山を崩そう。そうしたら、湖の水が流れ出て、そこに大きな豊かな土地ができる。そこを田んぼにすれば、米がたくさんとれて、みんなが豊かになれる。太郎の願いを聞いた母親は全身傷だらけ、ひん死の傷を負いながら、山に体当たりを重ね、山を崩す。山に住むきつねもたぬきも、太郎と母を応援する。!?ついに山は崩れ、豊かな土地が現れる。傷を負って死んだかと思われた龍。その中から、母親が現れる。死を賭して貧しい農村を救おうとした心が通じて、母は人間に戻れた。
 そう。これは戦後の貧しさから、人の道に外れてしまう人がたくさんでた世の中の悲劇を、暮らしを豊かにすることで解決したい。そのために自然を開発して、人間の活用できるようにすることは、疑いのない正義だ。そのことが、政治的左右を問わない国民的願いとして、心からの感動をもって語られた童話なのだ。
八郎潟の干拓も、黒部ダムの感動も、私の父親の開発という仕事への献身も、同じ貧しさと、そこからの脱却を心底願ったひとたちの、共通の思いから発したものだった。左翼思想家で平和活動家である松谷の出世作が、これほどはっきりとした開発の思想、開発の善意に立脚したものであることは、環境保護が絶対善化している現代の良識派からは理解できない。ものすごい違和感だ。自らの住処である豊かな山を破壊されているきつねやたぬきやうさぎたちが、声を揃えて、自然破壊人間中心開発主義のブルドーザー龍の子太郎母子を応援するのだ。そんなことはきつねやたぬきやうさぎの立場からはありえない。なんでたぬきさんがすみかの山を壊されて喜ぶのか、『平成狸ぽんぽこ』や『もののけ姫』などジブリアニメをバイブルとして育ったいまどきの子育てママには想像もできない。
 こうした時代に、原子力の平和利用推進も開始した。今の、地球環境への取り返しのつかない汚染を招いた原発も、開始時期には、貧しさに対する善意からスタートしたという側面を持つことを、私は否定できない。筋が通った保守政治家のじいさまたちが、現下の事態にたちいたっても、原発推進主義者であることを明言保持しつづけているのは、利権と結び付いているからでも、科学妄信のためでも、そんなことではなく、原発がスタートしたときの国民の願い、資源も乏しく、貧しさにあえぐ戦後の国民を、そこから引き上げるための選択としての原発推進の記憶が、心の奥底に、善意の記憶としてしみついているせいなのではないか。
原発推進の根底には、そういう側面を持つことを、彼らについても認めてあげたいと思う。それを認めてあげることからしか、脱原発の動きは前に進まないと思う。

 人は批判されると反撃する。自分を守ろうと頑なになる。私は原発を推進してきた人たちを批判したくない。追い詰めたくない。彼らの過ちを責め立てるのではなく、彼らの当初の動機の善意を認め、評価したい。でも、原発は止めたほうがいいし、かれらはそのミスの責任を問われるべきだと思う。彼らはあきらかに取り返しのつかないミスをおかし、取り返しのつかない災厄をこの国にもたらした。だけれど・・・・

 あまり上手ではない気もするが、たとえ話をしたい。
夜中に熱を出した子供を乗せて、クルマを病院に走らせている若い父親。ひきつけを起こし、命の危険もありそうに思える。あせる。冷静に運転しようと思うけれど、でも、急がないと。夜中だから、人通りはほとんどない。かなりスピードを出しても、特に危険な感じはしない。無理な運転をすることにも慣れてくる。今大切なのはこの子を病院に早く運ぶことだ、という目的の正しさが、危険への評価を甘くする。目の前の信号は黄色から赤に変わるけれど、えい、突っ切ってしまえ。あ、あ、なぜか深夜に散歩をしている老婆をひいてしまった。どうしよう。(老婆が夜中の三時に散歩をしているなんて、千年に一度しかおきないだろうに)
原発推進の人のおかした過ちというのは、こういう性格のものだと思いたい。子供の命を助けたいという善なる心からクルマを走らせている。もちろん安全にも気を配っている。でも、焦る気持ちがある。子供の命を助けるという目的の正しさから、夜中に道をわたる人を、信号無視でひいて殺してしまうという結果になった。さて、この人は、どう裁かれるべきか。
すくなくとも、裁かれるべきだ。殺人罪ではないだろう。危険運転致死罪でもなかろう。が、過失致死罪では裁かれるべきだ。情状酌量はあってしかるべきだが、罪をおかしたこと、法律を破ったこと、危険を軽視したこと、その結果として取り返しのつかない重大な結果を招いたことへの責任はとらねばなるまい。飲酒運転をしたわけでも、暴走行為を楽しんだわけでもない。でも、彼の行為が、重大な結果を招いたことは確かなのだ。

 もちろん、今は、裁くべき時ではなく、子供とともに、ひいてしまった老婆もクルマに乗せて、病院に急ぐべき時だ。かれらは今、そうした段階にいる。この道にはパトカーも救急車もなく、ひいた老婆を病院に運べるクルマは、彼しか運転ができないのだから。
私が、原発を推進してきた人たちを憎んでいない、憎みたくないというのは、そういうことだ。もちろん、彼らは傲慢だったと思う。善意と、知的優秀さがあいまって、危険を指摘する人たちに対しても、地元で、原発について迷い悩む人たちに対しても、傲慢だったことは間違いない。直接彼らのそうした対応に、政治的暴力性に向かい合った人たちは、彼らを憎み、許すことはできないと思う。しかし、そうした直接当事者の憎しみに基づく糾弾に、私のような、距離を置いた立場の人間が乗るのは、卑怯だと思う。

 私は、彼らを憎んでいない。が、彼らはその犯した罪に従って、裁かれ、罰せられなければならないと思う。もちろん、ことの収拾がついた後で。それは、太平洋戦争の後に、この国の指導者たちが戦犯として裁かれなければならなかったのと同じように。彼ら戦犯には、普通の意味で悪人ではなかった人も多くいた。傲慢だったり、無能だったりした人はいるにしても。戦争は悪意や強欲さからのみ生まれたものではない。善意と正義から生まれるのだ。東京裁判でも、彼らは戦争の大義について、語っている。日本が国際政治の中でおかれたあのときあの状況で、国、国民を守るには、戦わざるを得ない。選択の余地は少なかったのだ。少なくとも、善意で心底そう信じた指導者は少なからずいた。
 それでも、取り返しのつかない災厄に国民を追い込むという結果に対して、A級戦犯たちは、たしかに裁かれる必要があったのだ。(B級C級の戦犯については別の話だ。今回も現場の東電職員たちを糾弾することには何の意味もないし、だれも現場で奮闘している東電の人たちを、応援こそすれ、非難している人なんていないと思う。)
 
今回の原発事故について、憎しみからではなく、かれらの善意と、その善意がいつか、傲慢と鈍感に変わり、またその善意と傲慢のすきまに、強欲がつけこんでくるプロセスを明らかにするために。東京裁判のように、他国の人に任せるのではなく、ぼくらの世代が、自らの手で、きちんと裁くべきなのだ。愛情と、自責の念を持ちつつ。

 私は、今回の事故に至る過程を、日本人が自ら解明し、責任者を裁き、罰するところまでを、日本人がやりきることが、本当に大切だと思っている。それは、政治的対立に基づく冷徹な裁きであってはならないと思う。善意と愛情に基づき、そこにある人生のありようを肯定しながらも、それが過ちへと転がっていくプロセスを明らかにし、犯した過ち、罪というよりも「失敗」に対して、誰から見ても納得のいく、「失敗」の大きさに見合った罰を与えるべきだと考えている。『悪人』を憎み糾弾する裁判ではなく、『過ちを明らかにし、償う』ための裁判が必要だと思う。はじめは高潔な意志を持ち、高い専門知識を持ち、けして汚い欲望に左右されたのでもない、多くのエリートたちが、それでも大きな災厄の原因をつくってしまったことを、日本人が、愛情をもって裁くべきだと考えている。

 そのプロセスを通じてしか、次世代に向けて原発をどうしていくか、の国民的コンセンサスは生まれないと思う。なぜなら、「不幸を減らし、豊かな暮らしを次世代に残したい」という善意は引き継がれるべきものだから。善意を実現するための手段が、原発推進という、今から50年以上前の選択にしがみつく必要があるのかどうかを、国民みんなが、事実を共有しつつ、考えなければならないから。そして、この選択は、政治的イデオロギーの対立や、ましてや特定個人や団体への憎しみによって選択されたものであってはならないから。そして、今後の世代に残すべき豊かな暮らしというのは、どんなものかを、もう一度、みんなでよく考える必要があるから。

 今は、政治的対立、イデオロギー的対立、プリミティブな憎しみと尻馬に乗った興奮、そういうものが原発をめぐって沸き立っている。私は原発に反対だ。今すぐでなくても、出来るだけ速やかに、原発のない日本に向けて、歩み始めるべき時だと考えている。でも、そのことを、憎しみを燃料として進めたくはない。かといって責任をうやむやにして進むのも違うと思っている。
福島原発についての事態がなんとか収束を迎えることをまずは祈っているし、そのことを皆が応援するのが今、大切であることに異論はない。ただし、情報をどうしても隠ぺいしがちな東電と国の基本姿勢から考えると、事態と被害をこれ以上ひどくしないために、批判的立場での報道が活発化することを応援する。
関係者の努力が実を結び事態が一応の収束を向かえたならば、「めでたしめでたし」で、「東電もがんばったじゃないか」と、責任の所在をあいまいにしたまま先に進むことは許してはならない。善意に基づき進めた原発、英知を集めて進めた原発が、千年に一度の自然災害に襲われたのだから仕方がない、という免罪符の理屈を飲むわけにはいかない。
善意にスタートした原発が、なぜこのような災厄へと転じたか、起きたことを明らかにすることが必要だ。憎しみに基づかない、が、責任は明らかにする。国民注視の、裁判(本当に裁判なのか、国会での証人喚問なのか、専門的な政治プロセスはわからないけれど、)を実現するのが、脱原発への第一歩になると私は考えている。

 追記 ここのところツイッター上で、伊丹万作氏の、戦争責任についての書簡が話題になっていますが、私は、倫理的には極めて高潔な、尊敬すべき文章だと思いますが、基本的論理については、反対の立場です。

 みんなが、悪に加担してきた。だまされたということも、過失であり、責められるべきことである。むしろ、だれもがだますことに加担してきた。だから、戦後急に正義、裁く側にたって、戦争犯罪を告発断罪する側になることには与しない。という論旨かと思うのですが。
 正義が悪を裁く、ということの欺瞞を指摘し、高潔ではあるけれど、では、誰が、「あやまち」を明らかにするのか。こういってしまっては、東京裁判のように、外国の人に裁いてもらうしかなくなってしまうではないか。というのが、私が反対する理由です。
 
 私は、正義が悪を裁くのではなく、みんなが善意からスタートしたはずなのに、薄汚れてしまった傷を持つもの同士として、心情的には泣きながら。涙を流しながら、それでも、何が過ちだったのかを、「お前に裁く権利があるのか」という指弾を甘んじて受けながら、日本人自らの手で、きちんと明らかにすることが必要だと思います。

 みんな、汚れた手をしている。だから誰にも人を裁くことはできない。という高潔に見える理屈に日本人が弱いことこそが、伊丹氏の書簡中にもある、日本人は外圧以外では変わることができない原因だと私は思っています。汚れた手で、泣きながらでも、間違いをつかみ出すことを、今回こそ自分の手でやりましょう。




具体的行動計画 エネルギー自立化プロジェクト報告ブログは
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おおはらたけし

真剣に、かつ、2回読み返しました。
何だろう、この涙の出そうな感覚。モゾモゾした肌感。
ひとつ前のブログに思わず勢いでコメントしてしまいました。
今回は、とりあえず、ひとつだけ。
僕は原発を含むこれまでのシステムに加担してきました。
生きているということは、呼吸でCO2を排出しているように、
システム(社会)に何らかの影響を与えていることになります。
反対しないこと、あるいは傍観していることは賛成していう
ことと同義です。
そのような僕が、今回の件について、どうしたらよいのか、
考えがまとまりません。貴君のブログにコメントする資格も
ないかもしれません。なので、じっくり考えてから、改めて
コメントします。(できないかも)

by おおはらたけし (2011-04-16 02:56) 

NO NAME

Twitterから来ました。

原発のこのことが起きる前から、日本を小さな水車の発電でいっぱいにしたいと具体的に活動している人を知っています。
ウォタプラネットさんの活動も彼の活動もその他の方々の発電に関する活動も、始めることが意味があると思います。

失敗は正されるべきであって、罰せられるべきではありません。
今回のこと、「ごめん、原発のこと間違ってた。やり直そう」とはっきり簡単に最初の段階で言えたら、日本のみんなのショックも少なかった。
まだ駆け引きとか計算とか知らない子どもに見習うところです。

今はウォタプラネットさんや個人個人の日本人が日本で始める事で内側から変わっていく時です。
慣習を打ち砕いてください。できない理由を探さないでください。
日本人は精神的に素晴らしく、本当に秀でた人が多いのです。
外圧は必要ありません。日本から変わっていけます。
ウォタプラネットさんご自身も外圧で変わったのではなく、自分の中にあったものが今回の震災を機に外に出てきたように。

心を強く持って、心にしたがって進んでください。
心ある人が集まれば、それが一番の力になります。
by NO NAME (2011-04-16 05:51) 

NO NAME

ツイッターから来ました。
わたしは公務員で、労働運動の末端におり、北海道民で、「日本の原発には休んでもらいたい」と考えている者です。

とても、心のこもったブログを拝読して、涙が出ました。
これだけ心がこもった文章に対して、自分もいま感じたことを書ければいいのですが、言葉が見つかりません。
いまコメント欄を開いて数十分たってしまいましたので、言葉を綴ることは諦めました。

ありがとうございます。
by NO NAME (2011-04-16 06:40) 

nippo225

熱い。驚くほどの熱さに、笑いのち、感動でした。
一種の「はしか」のような症状かと思いますが、こんなに熱くて、今後続けられるのか、ちょっと心配です。それとも、熱いから、続けられるのか?
wpboyoyonさんのTwitterをチェックして
mikan○○○
ichinishi○○○
この二人を僕もフォローしてみました。

by nippo225 (2011-04-16 09:17) 

ゆめか

私もこの記事の主旨に賛同いたします。
何でも、基本的に最初は善意から始まったのだと私も考えます。
ただ、いつのまにか道を違えてしまったというか、周囲(ひと以外のすべての「存在」)への配慮を欠いてしまってがために起こったことだと思ってます。
ですから、当事者たちを過剰に非難したり否定したり悪としてみるのではなく、いつでも軌道修正できるひとたちとして見てもいいのではないかと思う、今日この頃です。

ありがとうございます。
by ゆめか (2011-04-16 09:48) 

halkingjaguar

私は右とか左とかよく分かりません。
“ジブリアニメをバイブルとして育ったいまどきの子育てママ”です。

分からない事、知らない事が多すぎて、
軽はずみな言葉でコメントを残すべきではないのでしょうが、
ブログを読むことができてとてもよかったです。

ありがとうございます。





by halkingjaguar (2011-04-16 09:51) 

さっぽろ一市民

反原発でもスタートの立ち位置についてこう考えられるんだなと感動しました。北海道の泊原発も北海道の経済には貢献したのでしょうし。。
また、私は苫小牧東部工業地域で酪農をしていた親を持つ人間です。小学4年生まで苫小牧の該当地域で育ちました。もう忘れ去られた話かと思いましたが。もう一度文章を読んでみます。
by さっぽろ一市民 (2011-04-16 13:51) 

東京出身大阪のアラフィフ

日本が変わるために、日本人は変わらなきゃいけない。皆わかっているけど、今は強く賢いリーダーを待っている状態。黙って待っているのが今までの常。政治活動が怖いと感じる主婦の私も、待つだけじゃだめかもと思い、応援したい人を探している。善意が大きな実を結ぶよう願い続ける。とにかく今は、はらさんを応援したい。でもツイッターのユーザー名は明かさないでおきます。ごめんなさい。
by 東京出身大阪のアラフィフ (2011-04-16 14:39) 

Az

どんな立場の人にも、そもそものはじめには、善意がある。とりあえずそれを前提としたい、というところに共感します。
甘いと言われることも、おそらく本当に甘いのだということも、わかっているけれど、それでもやはり、本当に深いところまでみれば、善意は必ずある、とも思います。
こういうことを語りたいと思いながら、まだ、自分の言葉ではうまくまとめることができずにいました。もしまとめられたとしても、発表する勇気が持てなかったかもしれない、とも思います。
共感しています。

by Az (2011-04-16 17:44) 

おおはらたけし(kenrisa on twitter)

昨晩に一度コメントして、今日、1500m泳ぎながら、さらに、考えました。
まず、以前に自分のことを「書斎派」と書いてしまったのですが、やはり不適切であると思ったので、「臆病者(卑怯者)」ということに訂正させていただきたく存じます。すいませんでした。
僕も広告屋として25年も経っており、下駄箱の中で暮らしていたのではなく、普通に「文化的でない雪かき」的仕事をしてきましたが、今回のような震災を含む幾多の事象に対して、何らアクションをしてきませんでした。震災や内戦(虐殺)などの事象について、ニュース等で知るのですが、それらに対してどのように対処すべきかわからなかったからです。事象のレベル、物理的・精神的な距離、国内か国外か、などの視点があって、アクションのための判断基準ができていなかったこともあります。でも、今回の原君の行為や東京事変が敢えて林檎のメッセージ付きで配信ではなくyoutubeに上げたことなどから、とにかく場合に応じて自分のできることをできる範囲でやるのが正しい、ということを感じました。
20世紀後半に大きな「うねり」が2つあって、1つ目は日本の外交・国防に関するものでしたが、多くの国民や政治家・官僚が共感するステキな代替ビジョンが提示できなかったことと、権力の強大さ(壁に卵)を感じました。2つ目は不適切な処分・使い込み・勝手な値上げなど、相手が見えていて謝罪や処分撤回に加えて大学という単位の共同体の変革という目的があって、それがどこまで成しえたがどうかはさておき、権力の強大さもあって終焉してしまいました。そのようなことを知っている人は少なくなっています。
今回の件について、政治的なことは一旦置いておきます。今、駅やビルのエスカレーターで左側に寄り、急ぐ人のために右側を空ける、という行為が法的な制約もなく一般化しています。そんな風に、みんなが同じ思いを持って(共感して)行動して、それが少しずつ大きくなるとステキだと思います。
長文コメント、失礼しました。



by おおはらたけし(kenrisa on twitter) (2011-04-16 21:54) 

うぉたぷらねっと

そろそろみんな何かやらなくちゃとざわざわしてきて、結局、被災地観光に行って現地の方の邪魔をする、というようなことが起き始めているみたいなので、書斎派傍観派のタイプの僕たちは、やはり今いる場所で、仕事で、自分の能力が向いていることで、経済を元気にしたり、新しい仕事が増えるようななにかをやる。ということのようです。糸井さんのきょうのほぼ日を読んで、ちょっとリキんでから回った昨日今日を反省。プロジェクト進捗報告の方でちゃんと成果がでるように、やっていこう。それから本業の仕事も。
 僕が書きたかったのは、「壁」と「卵」といっても、壁もよーーく見ると「卵が積んであるだけ」なんじゃないか。「卵」ひとつひとつには善意の卵もおおかったはず。と言いたかったのに。ひとつひとつ見ると善意の卵が、全体として悪意の(というより制御不能に無能な)壁になる、この日本の権力メカニズムについては、またよく考えて、何か言えそうなときに書いてみます。
by うぉたぷらねっと (2011-04-16 23:03) 

seiya

僕はあなたの意見を全面的に支持します!カンドウトナミダヲモッテ。
by seiya (2011-04-17 00:01) 

かんたろう

28歳サラリーマンです。
TVやネットでの批判の応酬にモヤモヤと感じていた違和感。
その違和感を言葉にできないまま、次々と押し寄せる不快な
情報の波に嫌気がさしていたところでしたが、本文章を拝読し、
このモヤモヤのメカニズムがわかり、とても清々しい気分です。

私も距離を置いた立場の人間ですが、今後の原因究明が、
ひとりの人間としての政治家、官僚、専門家の善意とその
背景を無視したものにならないよう願うとともに、それが私を
含めた「裁かれる者以外の大衆」にただ免罪符を発行したい
がための責任転嫁にすり替わらないよう、心より願います。

躊躇と葛藤の中、思い切って書いてくださってありがとう
ございました。感動しました。
by かんたろう (2011-04-17 00:54) 

じーこ

コメントを残さないで応援している人の一人ですよ!
と、こっそり思っていましたが、そういう声無き声よりもやはり、
聞こえるような声を出して応援することが、
何も出来ない自分が出来る精一杯の事だと思い、コメントしました。

そして、これを書き込んでいる最中に、何も出来ないなんてことはないはず、
と思いなおしまして、やれることを探してやっていこうと思いました。

ありがとうございます。
そしてがんばってください。
私もがんばります!

by じーこ (2011-04-18 12:41) 

YUcana

えーとmixiからTwitter経由で来ました(汗 奥様によろしく。でもマツコなんて言っちゃってどうなの。マツコは好きだけど)。

元お役人の父を持つ人間としていろいろと共感、納得です。
この度の都知事選前に父(86です)が疑いもなく再選を支持すると
言い切るのに驚き反論を試みつつ、うちの場合はかなりヨボヨボしてるので
怒らせても仕方ないかと途中でやめたわけですが
何故あそこまで「疑いもなく」できるのか、という部分が
引っかかっていました。
うぉたぷらねっとさんのお父上のお話を読んで、ああ、そうだった、そうだよね、
と、あの年齢層の人々の時代的背景というか
戦後の日本を作り上げてきた世代的考え方、
そういうものいろいろに思い至りました。

それと
私はあの学校で落ちこぼれなので
難しい話は飛ばし読みしちゃいましたが
こういう難しい話をする人が大勢いる学校だったなと
その点でも懐かしく思いました…!?

今この「原発どうよ」、な状況だからこその
新しくオシャレに脱原発、という試みに
惜しみない拍手を送ります。
うぉたぷらねっとさんのプロジェクトを参考にさせていただいて
私も、うちのマンション(巨大な民間団地です)の屋上にソーラーパネルを入れたらどうか、とか
ビル風で風車を回したらどうかとか
管理組合に言っちゃおうかと思っています。

特に「風車」がいいですね。
私は、風車→ドンキホーテ という連想から
ミュージカル『ラマンチャの男』に出てくるセリフを思い出しました。
(正確な引用が出来ないのでここでは控えますが…)
長コメ、それと、何だか軽くてトンチンカンだったらごめんなさい。
そのへんはスルーでお願いします。
by YUcana (2011-04-18 15:17) 

NO NAME

大学4年の時に亡くなった父は、科学者でした。
某大学で電気通信工学を教えていました。
私が小学生の春、父と、ある森に筍掘りに行きました。
筍を掘りながら、父は、
「この森の奥で、すごい研究をしているんだよ。
その研究は、みんなの生活に役立つものなんだよ」と話してくれました。

そこは今の川崎市麻生区。
その研究所はその後事故を起こして、今は閉鎖されています。

このブログを読ませていただいて、
私は、父が今生きていたら、何と言うだろうかと考えました。

あの頃の父はきっと、ただ純粋に、
新しいエネルギーを使った、新しい社会を夢見て、希望にあふれていたと思う。
そう信じたい。

そして今、私たちはまた違う方法で
未来を夢見ていかなければいけないと強く思っています。

大きなうねりになっていくといいですね。
by NO NAME (2011-04-19 00:43) 

Kaori yanamoto

上のコメント、名前書き忘れました。
ごめんなさい。
編集ボタンがないようなので、追加します。

by Kaori yanamoto (2011-04-19 00:46) 

n

震災後、「何かしなきゃ」という気持ちは(温度差はあっても)誰もが持っていると思います。そんな時に分かりやすい「悪」を見つけて攻撃することでなんとなく「何もしてない自分」に言い訳ができるような気がしたりして…
でも「甘い」といわれても、やはり「善」を信じたい。そんな気持ちを上手に表現していただいて良かったです。

by n (2011-04-19 08:55) 

おおはらたけし

そもそも、善意(あるいは科学者の純粋な探究心)が始まりで、モノゴトが進んでいる時も「よりよい社会にしたい」「より便利で快適にしたい」と思っている人たちがいっぱいいたと思います。今でも復旧や修理に携わっている人たちは仕事というだけでなく「何とかしたい」という使命感を持っていると思ってます。そんななかで、新しいものが普及していくときに(させていくときに)そのメリットだけでなくデメリットも含めてコンセンサスが得られたうえで進められるとよいのだけど、もしかすると、デメリットを故意に矮小化するケースがあったかもしれません。もちろん、デメリット全てが把握できていなかった場合や使われてみて隠れていたデメリットやリスクが露見したということもあるかもしれません。病気を治すという善意をもとに新薬が世に出る際も、副作用がオープンにされるわけですが、使用して数年後に新たな副作用が出る場合だってあります。車のリコールもそうですが、そういう時に、ちゃんと隠蔽されることなく対応されることが重要なのかな。
もともと人間には生物学的本能のまわりに善意的欲望もあるだけでなく、征服欲とか名誉欲みたいなものも不可分にDNAとかに刻まれているんじゃないかと思います。仮にそれらをひっくるめて自我と定義した場合、自我があるからこそ人間たる、ということになり、自我がないと影がないとか自我が弱いと影が薄いということになります。さらに言えば、暴力的な悪意みたいなものも隠れていて、時たま露出するとギターで他人をボコるみたいなことになっちゃうのではないでしょうか。また、競争に勝ちたいとか裕福な暮らしをしたいというような欲も刻まれていて、そんな生物にはマルクス経済より高度資本主義の方がフィットするのではないかと思って、大学2年で転向しました。そのシステムの中で、生活を守るために、あるいは意識的に、または無意識に「善意とは違う」欲望からの行動をしてしまう人もいると思います。そんな人たちが世の中の中心にいたりすると、困ったことになってしまうのだけど、どうすれば、そうならないようにできるのか、わからないのだな。長文、ごめんなさい。

by おおはらたけし (2011-04-20 22:25) 

45

将来の子どもが・・・、

将来の孫が・・・・、

そういう想像において、推進派も反対派も時間をかければ
同じ意見を持てるのではないかと考えたのだが・・・。
豊な世界を子供に残したいという気持ちは万人に共通する
と信じたいのだが・・・。

親に愛されて育ったか?
ということが、すごく重要だと思いました。
親に愛されて育つことは、デフォではない。

う~~ん。
僕、ギブアップ。






by 45 (2011-04-22 00:07) 

うぉたぷらねっと

45くんのコメントは重たいな。芯を喰った批判だな。さすが天才だな。そこを突いてくるか。うーん。すごいな。まいったな。
大学生で、物書き修行中の長男はこの文章を読んで「(神話的な意味での)父親殺しの話」と喝破し、まさに、その通りなのだが。その長男を、未熟な父親の私は、大きくなるまでにおそらく千発以上ぶんなぐって育てた。ものすごく濃く愛しながら、ものすごく暴力的に育てた。大学生になった息子に「父ちゃんはやり方が下手すぎる」と言って、激しく非難批判された。「愛されなかった」と非難したのではなく、「やり口が下手すぎる」と非難したのだ。下の子になるにつれ、殴る回数は減って、末っ子は6歳のいままで、1発かな、殴ったのは。
「愛し方が下手な父親」についての話、なんだな。この話は。私の親→私→息子、というのは「愛し方が下手な家系」の物語ではあっても、「子供を愛さない家系の物語ではない。ということを45くんは言っている。世の中には子供を愛さない親というのがいて、親に愛されなかった子供というのがいて、それは「愛しているけれど愛し方が下手」というのとは違うんだ。愛されないという形で傷ついた子供からみると、甘っちょろいぜ!!っということなのだろうか。うーん。45、するどいつっこみありがとう。考えるよ。
by うぉたぷらねっと (2011-04-22 02:02) 

うぉたぷらねっと

ええと、前のわたしのコメント、昔の私は「児童虐待で通報します」と、言われても仕方がないくらい、長男には厳しかった。です。今の私は、すごくやさしい甘々おとうさんです。だから、テレビで児童虐待のニュースを聞くと、いつも、昔の自分を思い出して、どよーーんとした気持ちになります。ちなみに、私の父は、暴力的な人ではありませんでした。というか、仕事が忙しく、、夕食時に家にいることは、平日は全くない。休日も半分はゴルフだなんだでいない。子育てはすべて母にまかせている。そういう、当時の典型的仕事人間でした。父の名誉のために、父は子育てに熱心ではなかったが、私のように暴力的な父親ではなかったです。
by うぉたぷらねっと (2011-04-22 02:17) 

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