政治とはなにかを、ドラえもんと、水戸黄門と、ジャックバウアーを通じて考える。1どらえもんの巻。選挙はなぜ大切か。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 ぼくら、高度成長以降にそだった、70年安保も子供すぎて記憶にない、といういまどきの50歳以下の人たちというのは、「政治」の本質にある「暴力性」について、考えたり、あるいは本気でそれを生活感覚として感じている人は少ないと思います。(いない、とは言っていませんから。あなたが、政治についていつも真剣に考えている人だとしたら、腹を立てないでくださいね。本気で政治にかかわってきた人は、もちろん考え、感じていると思います。今、読者として想定しているのは、そういうことをいままであんまり考えてなくて、選挙を人気投票のように考え、とりあえず、テレビでよく見たことある人に投票してしまうような人たち。政治家を、国民のためにいいことしなきゃいけないのに、できない愚図な人たち、とかんがえている、そういう人たちです。そういう人たち、と他人のように言ったけれど、僕もそういう人たちの一人です。でした。その認識を、どういうふうに僕が変えていったかについて、今日は書いていきたいと思います。)
 そしてまた、「その政治の暴力性をどうコントロールするか」という仕組みとしての、議会制民主主義とか、三権分立とかいった政治の仕組みが、なんというか、効率は悪く、特に日本ではその現実的運用のされかたのひどさといったら、目も当てられないにしろ、出来は悪いが必死の努力の結果なんだ、ということについても、書いていきたいと思います。

 ああ、ここまでで、ひどく回りくどくてね、ややこしそうですね。もうすこし、我慢して。いまから、ドラえもんの話をしながら、「権力って、実力って、暴力って」ということについて、まず、考えていきます。

 ジャイアンは、暴力的な子供です。のびたが買った、まだ読んでいないマンガも、公園で遊ぼうと思って持ち歩いていたラジコンカーも、道端で、ジャイアンに会ったが最後、取り上げられてしまいます。マンガの、子供の世界だから、みんな普通に「ああまたジャイアンが」と思うだけですが、現実世界にそんな子がいたら、犯罪者です。恐喝常習者ですよね。でも、学校で、先生がみているときには、さすがのジャイアンも、のびたにそういう無茶な暴力的犯罪行為を働くことはできません。先生がみているからです。先生が見ている前で、ジャイアンがのびたの持ち物を取り上げようとしたら、先生は「やめなさい」と怒るはずです。それでもジャイアンが無理やりのびたの持ち物を取り上げようとしたら、先生は、ジャイアンの首根っこをつかんで、やめさせるはずです。
 さて、ここで先生がジャイアンの首根っこをつかまえて、ジャイアンの恐喝略奪行為を止める行為は「暴力」でしょうか。これは一般に「暴力」ではなく「実力行使」と呼ばれますよね。人が人に対して、物理的な力で、本人の意思に反する行為を強制する。これが、「法的な裏付けがない」と暴力になって、法的な裏付けがあると、「実力行使」になるんですね。学校の中で、先生が、暴力的生徒に対してこういうことをすることは、法律の範囲および社会通念として認められているので、「実力行使」にはなるけれど、「暴力」だとか゜体罰」だとかいうことにはならないはずですね。ただ、どこまでが「実力行使」で、どこからが「体罰や暴力行為」になるかは、微妙なので、ジャイアンのお母さんが、もしモンスターぺアレントだと、面倒なことになりますね。話がそれました。

 さて、権力というのは、最終的には、社会秩序の維持のために、それに反するものに対して、「実力行使」ができる、唯一の存在ということですね。私の暴力と政治、国家についての思索の師匠と私淑する茅野稔人さんの「国家とはなにか」の中で、さらに茅野さんが引用しているマックスウェーバーによると、「国家とは、ある一定の領域内で、--この「領域」という点が重要なのだが---正当な物理的暴力行為の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。」あーーー、難しいですね。根性のある人は、茅野先生の著作を直接読むのがいいですね。根性のない方は、我慢して私の駄文を読み続ける方が、すこしは楽だと思います。
 
 学校という一定の範囲の中において、先生は暴力というか、実力行使を正当に独占しているんですね。「先生がやると実力行使」で生徒がやると「暴力」なんですね。先生が見ていないところでジャイアンがのびたに恐喝行為をしようとしたのを、出木杉くんがとめたとします。「やめろよ」「やめないよ」「やめろ、えいっ」出木杉君は、喧嘩も実は強かったりするんですね。ジャイアンに大外刈りをかけて、頭部強打させてしまったりするわけです。すると、いかに出木杉くんで、いきさつはあるにせよ、出木杉くん、暴力行為で謹慎処分、になったりするわけです。正当防衛の成立要件というのはなかなかに厳しくて、この場合、こういういきさつなのに、けがをさせた出木杉君は、おそらく傷害罪になってしまうんですね。出木杉君のやったことは、法律の範囲を超えた部分については「暴力」になっちゃうんですね。
 
 さて、「先生と生徒」という、あきらかに年齢発達段階上下関係があり、しかも体力筋力的にも強弱関係がはっきりしている小学校くらいだと、このどっちが「権力=実力」で、どっちが「暴力」かっていうのは、自然自明にわかりやすいので、あんまり問題はないわけですが。フラットに大人同士の社会の中で、ジャイアンみたいな人がいたとします。体が大きくて、威圧的で、言うことをきかないやつには暴力をふるう、というような人ですね。この人を、一対一でおさえつける「実力」をもった人がひとりもいないとします。そうすると、原始状態では、この人が「王様」になるんですね。この人の言うことが、法律になるんです。ジャイアン王国です。いやですね。住みたくないですね。ジャイアンの言うことを聞かないと、殴られるし、ジャイアンに殴られたくないために、食べ物やいろいろをジャイアンに渡さないといけないんですね。私的暴力団体がやると、「みかじめ料」ですが、なんといってもジャイアンは王様ですから、これは「税」なんですね。そのかわり、ジャイアンは、ほかのところから攻めてくる乱暴者とは戦ってくれるんですね。守ってくれもするわけです。この国が、住みやすい、いいかんじにの国になるか、すごくいやな感じになるかは、ひとえに「喧嘩の強いジャイアン」が、人格的にいい人かどうかにかかってくるわけです。通常オンエアされるTV放送版ジャイアンだと、そうとう住みづらいんです、でも、劇場映画版ジャイアンくらいいいやつだと、その国はかなり暮らしやすい国になるはずなんですね。
 
 で、話が飛びますが、「誰なら暴力振るっても、その人なら実力ってことにしていいか」ということについて、みんなで選ぼうっていうのが、民主主義、民主選挙っていう仕組みだと考えると、わかりやすいよね、という話なんですね。ジャイアンだといやだ。出木杉くんが「柔道の実力」を出して、みんなを守ったり、ジャイアンを取り締まったりしてくれるのがいい。だから、ジャイアンじゃなくて、出木杉君を権力者にしようっていうことを決めるのが選挙。
できすぎくんなら、いいひとだし、普段は暴力ふるわないけど、いざっていうとき強い。そういう人に権力者になってもらおう。これが為政者、行政の長を選ぶ選挙ですね。国政なら大統領。地方なら知事を選ぶ選挙です。
 で、現実には、「国家が実力をふるう装置」っていうのは、警察とか、軍とか、徴税組織とか、いくつかあって、一人の人間ではなく、より強力に組織されて、非合法な暴力や、外からの暴力から国民を守るようになっているわけですね。おまわりさんと自衛隊のおかげで、みんな安心して暮らせるし、国税のみなさんのおかげで、税金払わない悪い人から、無理やり資産差し押さえたりできるわけです。でも、そういう実力組織が「どういうときに、どれくらい実力だしちゃっていいか」ということが、恣意的に運用されちゃうと、ものすごく怖いですよね。誰がそういう人たちに命令できるか、というのが、為政者を決める選挙です。

 一方、立法者、議員を決める選挙というのは何かを考えるためには、まず、法律って本質的に、何、っていうことについて考えないとわからないわけてす。
 法律っていうのは、普通の人の感覚だと、国民に対して、「こういうことをしていい、わるい」ということを決めたもの、という理解が普通だと思うのですが、これだと、政治構造の本質理解から遠くなってしまう、というのが、私の基本的考えですね。そうではなくて、「為政者権力者が、どういうときにはどれくらい実力出しちゃっていいか」を決めるのが法律だ。と考えた方が、すっきりするとおもうわけてす。
 すると、議員を選ぶということは、「為政者が、どういうときにどれくらい実力ふるっちゃうっていいか」を決められる人を選ぶわけですから、選挙っていうのは大事っていうことですね。

 ここまで説明してくると、大統領制と、議院内閣制の制度上の違いの本質が見えてきますよね。大統領制の場合は、「実力ふるう本人を選ぶ」選挙と「どういうときにどの程度実力ふるっちゃっていいかのルールを決める人=議員」を選ぶ選挙が別々に行われる、ということですね。だから、三権のうち二権について、完全に選挙として分離しているので、より強くけん制し合える制度だということがわかります。
 これに対して、議院内閣制というのは、「どういうときに実力ふるえるかを決められる議員さん」というのを選ぶ選挙を国民がして、「実力ふるう本人」は、その議員さんの中から選ぶ、という仕組みですね。こうすると、「決めた法律」にしたがって「その多数派の代表が実力ふるう」わけですから、本来は効率重視システムなはずですよね。そのかわり、二権の間の相互けん制作用が働きにくいですよね。政治についてあんまり考えたことがない人にとって、「立法の人 国会議員」と「行政の長 総理大臣」の関係が、どっちも「政治家じゃん」ということで、なにがなんだかわからなくなって、とにかく政治家=なんか偉い人ってなってしまうのは、議院内閣制度というもののもつ、わかりにくさに原因があるような気がします。

 まとめます。みんなを守るために、他の人がやったら暴力になるはずの「実力行使」をできる、唯一の人を選ぶ、というのが、主長・大統領を選ぶ選挙の本質です。゜あんたなら、悪い奴、やっつけてくれるよね。あんたいい人だよね。だから、信頼して、「わるいやつ殴る権利」まかせるよ。」というのが選挙の一票ということです。人気投票ではありません。もしまちがって、悪い人にこの権利をわたしてしまったら、いい人、悪くない人をぶん殴り始めます。大変なことが起きます。だから、選挙って、すごく大切なんです。・

 次に、議員を選ぶ選挙について。議員というのは、法律を決める人なのですが、法律というのものの本質は「権力者がどういうときには、どの程度、どういう人をぶん殴っていいか、実力をふるっていいか」のルールを決める、ということです。いい人だと思って選んだ大統領や主長さんでも、自由に実力をふるったら大変なので、議員さんに、ちゃんと「実力ふるいかたルール」を決めてもらうわけです。これも人気投票ではありませんし、単純な「どっちが税金安くしてくれるか」とか「どっちがばらまいてくれるか」という政党選びでもありません。「この人は、どういうときなら、権力者が、いうこと聞かない人を実力でおさえつけていいと考えているか」について、よーく考えて判断しないとまずいわけです。

 政治家、というと、何してる人かよくわからなくなるわけですが、基本的には「何か国民のためにいいことをしたい」人がなるわけですが、それを実行する力というのは、具体的には、いいことを推進する力というよりも、「いいことをするのに反対する人を、押さえつける実力」として与えられてしまう、というのが、政治権力の不思議、なわけですね。
 善意でスタートした人が、権力まで上り詰めるが、最終的に過ちを犯し、裁かれる立場に立つ。というのが、政治にかかわった人のたどりやすい道筋なのは、以上述べたような道筋によるもので、政治家がもともと悪い人なわけではありません。「いいことをしたい意志」の実現のために与えられる政治権力とは「自分の考えるいいことの実現に反対する人を押さえつける力」だ。という政治というものの持つ本質構造によるのです。

 ああ、また難しい話になってしまった。

次回は、日本人が水戸黄門が好きで、アメリカ人も日本人もジャックバウアーが好きな理由。について考えながら、権力と実力行使と暴力の関係について、さらに考えていきたいと思います。
 
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うぉたぷらねっと

nippo225さん、いつも読んでくれてありがとう。実は今回のも、ものすごく長く考えていたことで、自信作だったんだけど、なんとなく、反応がうすくて、「やっぱりむずかしかったのかな」「いや、いまの原発とかの問題から離れすぎたのかな」「じつは、なぜ孫さんはいさぎよくかっこいいのに、政治家がグズに見えてしまうかの、解説になっているのだけれど、わかってもらえなかったかな」などいろいろ考えていました。それだけに、niceもらってうれしいです。いつも愛読してくれてありがとう。くじけず、続編に進みます。
by うぉたぷらねっと (2011-04-24 09:55) 

kagayataku

僕らの世代はノンポリ世代の子として育ってきて、
「右」か「左」か「ノンポリ」か、という選択肢はおろか
「政治」という選択肢があることすら意識したことがない、
という世代なんだと、拝読して改めて感じました。
世代の対立はじめ、これから更に
「なんでもかんでも欲しい。は甘え。どっかで選ばなくちゃいけない」事態が
起こってくることを考えると、
政治に対して、今から酸いも甘いもウォーミングアップしておかないと、
おそろしく感情的ないざこざが起こってくるような気がします。
いい年こいて、いまから準備運動かい、という気もしますが、、、
またブログでいろいろ教えていただけるとうれしいです。
by kagayataku (2011-04-24 10:13) 

うぉたぷらねっと

かがやたくさんのような、いろんな活動をしていて、頭もよくて、相撲も強くて、いい人、というのが政治家になるのがいちばんいいですね。頭がよくて行動力があって、きもちのやさしい、ジャイアン。今度から、会ったとき、ジャイアンて読んでいいですか。
by うぉたぷらねっと (2011-04-24 12:55) 

kenrisa

メッセージを3通送ってしまってから、これを読みました。
「いいことをするのに反対する人を、押さえつける実力」として与えられてしまう、というのが、政治権力の不思議」、「いいことをしたい意志」の実現のために与えられる政治権力とは「自分の考えるいいことの実現に反対する人を押さえつける力」だ。という政治というものの持つ本質構造による」といった話でしめくくられていますが、暴力性とか実力行使ということはさておき、選挙を含む今の制度が、このような状況を生むことにならざる得ないのかなあ。何で「みんなが思ういいこと」と「自分(権力者)が思ういいこと」に乖離ができてしまうのか、というのが僕は不思議でした。もちろん、人によって、「いいこと」の定義や内容が違うんだろうけど、今回の件に関しては、あまりにも孫さん(普通の人が考えるいいこと)と政治家(や東電)のそれぞれの「いいこと」がズレている感じがします。もちろん、選挙で投票した自分にも責任があるので、あまり言えないのですが、政治の世界ではいろんな事情があって、そうならざるを得ないということを、これを読んで感じました。


by kenrisa (2011-04-24 15:35) 

nippo225

難しいです。書きたいことを書くことは大切だという気もするし、あっちのブログに興味を持っている人が、こっちを読んで引いてしまう可能性もあるし、もうちょっとわかりやすく書けるかもという気もするし。現時点では判断不能です。
とりあえず、ブログを2つに分けたのは、正解だと思います。
by nippo225 (2011-04-24 17:05) 

45

次回のジャック・バウアー楽しみだなあ。

ドラマの中では・・・、
核燃料棒が盗まれているのに、大統領は
国民に発表しなかったからな。
だから今回も・・・、
国はホントのこと発表しないんだよと、言ったら
会社で笑われた。僕も、冗談さ!!という体で
いたのだけどそういう事もあり得ると、実は10%くらい
思ってた。

ジャック!!クロエ!!
何とかしてくれ!!




by 45 (2011-04-25 14:58) 

kenrisa

強行採決とか機動隊導入とか、暴力的手法でもフツーの人が使うと犯罪だけど、権力が使うと実力行使になっちゃったりするのかも。じゃあ、為政者何をどこまでやっていいの、っていうのが曖昧ですよね。今のシステムが何でこうなっているか、高校時代に野球部バカ3人にやさしく教えてくれたようにもっと教えてくださいね。高度資本主義において、議院内閣制において、(もともとは善意の人だった)一部の人たちの悪意らしきものの集合体なのか、ミスを隠したいとか身分を守りたいという自己保身本能か、パニックを起こしたくないという優しい思いやりなのか、はたまた、(鼠が道連れにした)権力を操る羊の仕業か、遠いところからのモノリスの意思(思念)で動かされているのか、などなど。日本人は権威(印籠)に弱くて平和的になあなあ的に解決するけど、アメリカ人は論破好きだし正義のために暴力で悪をやっつけるのが好きなのかなあ。正義の人が暴力的手法でモノゴトを解決するのをみると、実は爽快感をかんじちゃったりするのかもしれない。でも力道山を応援していた昔の日本人もそう? 次回を楽しみにしてます。
by kenrisa (2011-04-25 22:32) 

45

1ヶ月以上になるのに、いまだに硬い床の体育館で寝ている
おじいちゃんやおばあちゃんがいる。

孫さんなら、もうとっくにあたたかいベッドを用意している。
でも、それは平等ではない。たぶん。いろんな意味で。

平等という概念さえ無視すれば、出来ることがたくさんある。

でも、平等を無視できないのが政治家ですね。建前上。
建前を無視すれば80%くらいは幸せになれる。
100%に近づく事を目指し、いつまでも体育館で
過ごしてもらうのだろうか?

つか、そもそも100%なんて無いのにね。
でも100%だと言わなきゃ政治にならんしな。

やはりギブアップ。(いつもすいません)

あれ、すいません、なんか本題から外れたかも。

















by 45 (2011-04-27 23:44) 

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