水戸黄門とジャックバウアー。に見る。日本的政治風土。 [文学中年的、考えすぎ的、]

 まず、はじめに、水戸黄門とジャックバウアーの共通点。これは、わかりやすいですね。正義とは、権威に裏付けられた暴力性である、を体現している二人が、水戸黄門様と、ジャックバウアーさんです。もし、もしも、水戸黄門様と助さん格さんが、「自分は副将軍だと妄想している老人と、それにくっついている暴力的青年」だとすると、かれらのやっていることは、善行ではあるけれど、暴行でもあるわけです。困っている人を、勝手な暴力で助けてしまう。かれらのふるう暴力が正当化されるのは、葵のご紋のついた印籠=実は天下の副将軍だからで、もし普通の老人と付き人があんなことやったら、正規の奉行様が放っておかないでしょう。
 ジャックバウアーも、彼はもちろんCTUという政府組織の一員なわけですが、たいてい、彼はCTUの指揮系統からすら外れて、勝手に正義の暴力をふるいまくるわけですが、彼は特権的に、「大統領から個人的に信頼されている」ということで、組織の命令系統を超えて、大統領と電話したりなんかして、その行動を承認される、という構造になっています。もちろん「24」では、そうした逸脱的行為を、後で査問委員会みたいなもので裁かれたりするわけですが、少なくとも事件進行中の24時間内においては、かれは、大統領からの個人的信任を背景に、かなり、やりたい放題にその場の決断をしまくるわけです。最高権力にお墨付きをもらいながら、その場の自分の判断で、悪と自由に戦う、というヒーローは、「融通のきかない権力」と「反社会的悪」の間にあって、理想的存在にかんじられるわけですね。これは洋の東西を問わない、絶対的ヒーローの条件のようです。
 水戸黄門やジャックバウアーが大人気なのは、現実の政治権力がなしえない「まと゜ろっこしい手続きを省略して、ピンチに間に合う決断をする」という決断速度性にある、と私は考えています。現実の「実力組織」である警察はじめ国家権力組織というのは、「起きてしまった違法行為」について捜査するのが基本で、運よく犯行現場に居合わせた時以外は、被害者がひどいことになっちゃったあとに、捜査、逮捕、という力をふるってくれるわけです。
 ことが起きちゃう前に犯罪行為を防止できないか、というのは、庶民感情からすると、極めて切実なわけですが、じっさいにはなかなかそうはならない。それは、恣意的運用をしないように、手続きが厳格に決められているからですね。映画「マイノリティレポート」は、殺人事件を予知する超能力者の存在によって、殺人事件を未然に防げるようになった未来社会、というのが舞台になっていますが、そういう超能力者でもいないかぎり、犯罪が起きる現場に、国家権力実力組織が居合わせて、犯罪を防止してくれる、などということは現実には起こり得ないのです。

 さて、では、水戸黄門とジャックバウアーの決定的違いは何か。今日、本当に書きたいのは、こっちのテーマです。このテーマは、「日本の政治家は総理大臣になるまではそこそこ優秀そうに見えるのに、総理になったとたん、無能になってしまうように思えるのはなぜか」という、日本人政治権力特徴と深く関係していると、私は考えています。

 水戸黄門になくて、ジャックバウアーにあるもの。それは、正義の遂行のためには、「悪くない人、善意の第三者を傷つけ、時には殺してしまうことも引き受ける覚悟がある」ということです。

 マイケル・サンデル教授の命題に似ています。5人の命を助けるためなら、罪のない1人の命を奪うことは正当化されるか。ジャックバウアーは、「正当化されるかどうかはわからないが、そうするしかないなら、悪と思われてもおれはやる」という決意があるということです。そして、こういう決意を水戸黄門様はじめ、日本のヒーローたちは持ち合わせていないように思えます。

 ここからはネタバレ注意です。まだ24を見ていなくて、これから見ようと思う人は読まないで。

 ジャックバウアーは、かつて、テロリストから、多くの一般人の命を救うために、CTUの上司を自らの手で射殺したことがあります。この上司、そうとういやな奴で、ジャックと折り合いが悪かったことはたしかですが、職務には忠実で有能でした。別にテロリストに通じていた裏切り者、というわけではなく、単にいやなやつだっただけです。だから、ジャックは、彼を殺さなければならなくなったとき、ものすごく苦しみますが、それでも、多くの市民の命を助けるために、罪のない上司を射殺します。

 日本のテレビドラマでは、このような選択を主人公がすることは、まずないと思います。日本の権力者は、「敵を殺す」ことはあっても、「悪くはない人を、正義の遂行のために殺してしまう」覚悟、というのを持つことに慣れていない。あるいは、国民が、権力者はときにそういう決断をしなければならない、ということを理解していないのではないかと思います。

 さて、ここで「殺す」という恐ろしい言葉を使いましたが、政治の場においては、「本当に直接命をうばう」というだけでなく、「生活の場や、生業を、人から奪う」ということも、ある意味、部分的に、「人を殺す」として、ここでは話を進めたいと思います。これを「広義の意味での殺人」として、論を進めたいと思います。

 たとえば、有明海諫早湾の干拓事業について考えてみます。「開発の思想と龍の子太郎」を読んでいただいた方はご理解いただけると思いますが、あの事業が、発端から、「巨大利権に結び付いた自然破壊事業」という巨悪としてスタートしたというのは、ものの見方として公正ではないと思います。企画された当初は「食糧増産」が正義であった時代があり、ただ、その正義が時代環境の変化の中で失われる中で「利水」とか「防災」という理屈づけが追加され、「一度動き出すと止まらない、利権と結びついた典型的公共事業」として進行実現してしまったのではないかと私は考えています。少なくとも、あの干拓地に営農にはいった農家のみなさんは、公共事業を進めた「利権の構造」の外におり、人生を賭けて、幾多の困難と闘いながら、新しい農地での稲作はじめ農業に取り組んでこられたことと思います。
 一方で、あの干拓事業が、有明海の生態系を決定的に破壊したことは、もう否定もしようもない事実であると私は思うわけですが、少なくとも裁判でも結論が出た通り、開門実験をして検証しなければならないことは明らかなわけです。
 「野党」の立場で批判するときは、「利権型開発・自然破壊」をする巨悪を糾弾していれば、すごく恰好がよかったわけですが、いざ政権を取り、水門を開けるという決断をすると、「開発利権に群がった巨悪」ではなく、「人生をかけて農業に取り組んだ農家のみなさん」を、「広義の意味で、殺す=土地と生業とそれまでの人生の成果を奪う」という、「殺人者」にならなければいけない。という現実に直面するわけです。八ツ場ダムでも同じですね。脱ダム、というのは理念として正しいと私は思いますが、理念として正しい脱ダムを、権力者となって推進しようとすると、「巨悪」でない、普通の人たちを、「広義の意味で殺す」決断をしないといけない。

 最近の政治家にかけているのは何か。自分が正しいと思うことを推進するときに、結果として「広義の殺人を行うのだ」という覚悟が欠けている、と私は思うわけです。飯館村の、住民や子供の命・健康を守るために、「村を捨てさせる」という決断を政治家がするとき、「ここまで村の産業を育ててきた、という村民の生活基盤を奪う」という「広義の殺人」を決断しなければならないわけです。こういう議論をすると、日本人はきまって「どっちも殺さない道があるはずだ」という、なんとか人を殺さずにすむ道を探して、途方にくれて、決断ができなくなるわけですが。ここで、日本人に固有の、弱点がでてくるわけです。「あってはならないことだから、ないことにする。」です。水戸黄門のドラマの中には、このようなジレンマはほとんど存在しません。それは、日本人が、そのような事態を見ることを好まないからです。一方、24では、ジャックバウアーは、常にこうした事態に直面します。大きな正義を行うために、善意の第三者を巻き込み、時に彼らを死に至らしめ、時には先に述べたように、自らの手にかけて、罪のない人を殺すことすらあります。アメリカ人の考える正義とは、単に「悪を懲らしめて殺す」だけではなく、大きな正義のためには「善意の第三者さえ犠牲にしなければいけない」「行為としての悪を包含した正義」という認識が、アメリカ人にはあるのでしょう。
 私は典型的日本人ですから、できれば、みんなが幸せになる第三の道があったらいいな、と一庶民としておもうわけですが、政治家、特に国の最高権力まで上り詰めようという人は、「善人ではいられない」という覚悟をもつべきではないか。その覚悟がなく「みんなにいい人だと思われたい」だけの人は、そもそも政治家を目指すべきではない、とすら思うのです。

 悪い奴を批判するのは簡単です。子供でもできます。政治家とは、正しいと思うことを実現するためには、「悪くない人をも、部分的に、広義の意味で殺す覚悟」を持つ人だ。そのことについての「お前は悪人だ」という批判を受ける覚悟のある人だけが、最高権力をめざすべきではないかと思うのです。鳩山さんも、菅さんも、あまりに「みんなに好かれたい、善人でありたい」という気持ちが強い人のように思われます。「いい人だから総理大臣」に選んでも、何もできずに終わってしまうのです。
 日本人も、いまどきの若い世代は、水戸黄門より、24、ジャックバウアーの方か好きな人は多いのではないかと思うのですが。もしそうであるならば、政治家に「みんなに好かれる善人」ではなく、「あえて悪になれる強さ」を持つ人を、選ぶよう、意識は変わっていくのでしょうか。

 誰かの命を助けるために、他の誰かを「広義の意味で殺す」というのが、政治的決断の本質だ。それをする覚悟があるものだけが、政治家として、最高権力につくことができる。ジャックバウアー(と、彼を信頼する大統領)にはその覚悟があるが、水戸黄門様には、残念ながらそこまでの覚悟も決意もない。そういう政治風土、国民の政治家理解の中からは、今のような、就任一年で成果も残せず次々交代する首相しか生まれない。というのが、本稿の結論でした。

追加補訂です。なぜ生活基盤・生業を奪うことも「広義の殺人」という刺激的な言葉使いをしたか、について。
開発をめぐる考察や、今回の原発をめぐる多くの対立が、英語で言えば「LIFE」というひとつの単語に対するふたつの和訳、「生物学的生命」と「社会経済的生活」をめぐる対立として展開されている、と考えたからです。「殺人」=英語にすると「Life」を殺すこと、と考えた時に、生物学的生命を殺す殺「人命」と、生活基盤を奪う殺「人生・生活」、というものをめぐる悲しい対立が方々に起きている、と感じたからです。妊婦や幼児、小学生の命や健康を重視する「人命」ライフ主義と、その土地に根差した生活、その土地での仕事に根差した「人生・生活」ライフ主義。どちらも大切なのに、それぞれを大切にしようとする人が、もう一方の立場の人を「悪」として批判し合う、という事態が、ものすごくたくさん起きていると思うのです。で、そのうえで、「どっちも大切だから決断できない」というのは、いかんなあ、と思った。この決断は、どんなに批判されても、どちらかの立場で、有効な速度をもって、最高権力者が、「悪だ」と批判されても、するべきだ。そして、私の個人的立場は、「ライフ=生物学的いのち優先」です。いのち優先の決断をするということは、生活基盤・生業に対しては、全然悪くない、罪のない人に対して、広義の殺人を行ってしまうという「覚悟」が必要だ、ということを理解しつつも。そのことが残酷な決断だとわかっているとしても。
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LamonZak

このお題を読んで次の近代史を思い出しました。恐らく日本では教えていない世界史です。第二次世界大戦のときに、日系収容所に入れられた日系1世、2世はアメリカに忠誠を誓うかという岐路に立たされた、それを誓った2世は422部隊としてヨーロッパ戦線へ、そこでドイツ軍に包囲されて半年もかけも救えなかった200数十人の米兵をこの日系部隊は一週間で救出。しかし800人もの日系兵の犠牲者をだした。800人の犠牲の上に200人の(白人)命。。。理解できないのですが、、当時の大統領/戦争の最高指導者としての判断であったわけです。/話は変わって日本の教育で一番大切な近代史を時間がないからとすっ飛ばすのは(受験には出ないとか。。)いまの原発の真実を隠すのと同じレベルのだと思う。根底に流れているものは変っていない。
by LamonZak (2011-05-01 10:09) 

うぉたぷらねっと

LamonZakさん。コメントありがとうございます。おっしゃる通り、政治的決断というのは、「善を志向しても悪を内包する」し、ある立場からは「悪の側面が濃く見える」ものであるわけで、そう考えると「判断停止」になりそうになるものです。が、政治家というのは、そこで判断停止思考停止にならずに、「決断」を重ねていかねばならない存在だと思うのです。そして、前回のどらえもんの話につながるわけですが、ある決断=善悪両面の価値を含まざるを得ない=を下すときの、その政治家の「原理原則=究極の選択に立たされた時に、何を守り、何を殺す人なのか」を見極めて、選挙というのは投票しなければならない。と私は思うわけです。
by うぉたぷらねっと (2011-05-01 10:49) 

nippo225

とてもわかりやすい内容で、僕でも理解できました。
「『政治家の覚悟』を見極める手間を厭わない覚悟」を国民(選挙で投票する人)が持たなければいけないということになると、僕のような並の人間には負担が大きいです。負担を軽減するため、カンタンに政治家の覚悟を見極める3つの方法とか、誰か発明してくれないですかね。でも、カンタンな見極め方法が出回ったら、対策マニュアルを作る政治家も出てきますね。
by nippo225 (2011-05-01 16:30) 

うぉたぷらねっと

nippo225さん、いつも関心を持ち、読んでくださって、ありがとうございます。ブログを書くことの心の支えとして、nippo225さんはじめ、的確に読んでくださり、温かくかつ鋭いコメントを寄せてくださる、信頼できる読者のみなさんの存在は、大きな心の支えです。私の書いているものは、なんというか、具体的な事象・現実に対しては距離があって、「現実に対して無力」な遠吠えだなあと、書いてしまうと思えるのですが、それでも、どういうわけか、文章の形にして、誰かに読んでもらいたいという思いが、いい歳をして、抑えられなくなっています。nippoさんご指摘の「はしか」状態なのでしょう。中年おやじの「はしか」を看病してくださるみなさんに、本当に感謝です。
by うぉたぷらねっと (2011-05-01 21:39) 

45

どうして、日本の政治家には覚悟が欠けているのでしょうか?
失敗してもせいぜい辞任するだけで、資産没収とかましてや
国外追放、処刑などはないのに・・・。

by 45 (2011-05-02 13:47) 

うぉたぷらねっと

ええと、45くんの質問については、また書きます。ちょっと予告すると、「まちがえたらやりなおす」ということを、国民が許さない、だからまちがえたくない、だからまちがえないことにする・・・という悪循環構造です。
 官僚主導政治なので、官僚の無謬性原則に政治家が冒される(ぜったい間違えない)、それにならされた国民、政治家のちょっとした間違いもゆるさない。その尻馬に乗る野党、ちよっとした間違いで政権を攻撃、間違いを含むかもしれない決断などできない、という誰も決断できない日本的政治風土・三位一体仮説です。
by うぉたぷらねっと (2011-05-02 16:38) 

45

ありがとうございます。
更新、お待ちしています(笑)

覚悟という意味では、あの国にホントに行って
連れて帰ってきた小泉さんや言動は一応ぶれない
石原さんのような人しか支持されなくなっちゃう。
なんか、ああゆう感じじゃないんだよね~
僕らが欲しいのは・・・。でも他の人よりよさそうだしなあ。
by 45 (2011-05-02 17:27) 

ともこ

はじめまして。
Twitterからきました。
もう、いてもたってもいられない気持ちなんですが
どうしていいのかわからない、いい年の人間です。
政治のことはあまりよくわからない、勉強もしてない、まさにそんな情けない大人です。
本当に民主党が勝ったときは、うれしかったです。
枝野さんのことも震災後しばらくはすばらしいと思っていました。

でも石原さんが当選しちゃったので、がっかりです。

なんとなく、わかり始めてきているような気がします。

とりとめのないコメントでごめんなさい。
更新、楽しみにしています。
相模原は故郷です。
by ともこ (2011-05-03 00:01) 

Eva in Spain

こんにちは!

ビンラディンが葬られて、タイミング的にもナイスな問題提起ですね。

日本には死刑制度があって先進国から非難を受けていますよね?でも、私は死刑制度には賛成で、もちろん、冤罪を防ぐ方策は必要ですけれども。。。
この死刑制度においては、日本は唯一、「正義を行うためには犠牲は必要」と覚悟を決めているように見えます。
でも、これは、日本には「死んでお詫びする」という風習・思想が定着しているからで、「正義を行うために痛みは伴う」という覚悟があるわけではないんですよね。

完全に脱線しました。

私も日本の外で、日本独自の思想・文化・風習とその常識が通じない国で生活するようになってから、黄門さまと24の主人公ですか(私は存じませんでした)の違いを見せつけられています。
ただ、ジャックバウアーが毎回悩むと言うのは、たぶん、悩まずに犠牲をもろともしないような人が沢山存在するからではないでしょうか?そういう風潮への警鐘でもあるのでしょう。

兎に角、日本人は有事に弱いですよね。それは仰る通り、判断にスピードがなさすぎる。

実は、私は変な人になりつつあるのですが、面識もないのに私が信頼している、日本では影響力のある方にメールを送りました。読んでもらえるかどうかは疑問なのですが、「原発を運用する会社の責任者にはせめて国会で『事故が起こった時に重大な事態に発展する可能性が○%以上あるとが考えられる場合には安全を優先し廃炉に至る措置も迷わず行う』という旨の宣誓をしてもらうのはどうでしょうか」というような提案をしました。
これによって、責任者は利害関係者からの攻撃の呪縛から逃れられて安全を優先した断固とした判断が行えると思うのです。そうじゃないと幾らハード的に安全装置があっても、「安全スイッチ」を恐くて押せないのでは日本の原発は安全じゃないですよね。

日本は「お墨付き」が必要な国ですからね。いきなりジャックバウアーでは受け入れられない、いくらジャックバウアーでも潰されてしまうのではないかというのが私の懸念です。

頭も日本語も錆びついているので、真面目なお題に対応できないのですが、変な人になっても、微力でも、間違っていても自分の考えを表明してゆくことに意義があると思って、思いつくままにカキコさせて頂きました。

さぁ、今日はUEFAチャンピオンズのバルサ-マドリードです。モウは言いすぎ。作戦かもですが、やっぱり黄門さまを信望する私にはちょっとついて行けない。まぁ、見ていらっしゃい。コテンパンにしてやる~



by Eva in Spain (2011-05-03 19:49) 

kenrisa

今回のブログもすごくタメになりました。わかりやすくて
「そうか、そうだったんだー、そうだよね」という感じです。
4/23の孫さんのプレゼンの質疑応答での「今の民主党
政権に欠けているものは何ですか」に対する孫さんの
コメントをきいたときには、そんなに深く考えなかったの
ですが、うぉたぷらねっとさんの方がずっと突き詰めて
深く考えているんだなあと思いました。
このブログを読んで、最近、僕が判断停止している問題に
ちゃんと向き合って判断しようと思いました。(たいした
ことではないんだけど)
これからも期待してます。

by kenrisa (2011-05-03 22:07) 

うぉたぷらねっと

ともこさん、別のブログでは、相模原のこと、「無個性な郊外都市」って書いたけど、もうすぐ住み始めて23年、人生のほぼ半分を相模原で過ごしていて、実はすごく気に入っているんです。若い人が多いし、武道やスポーツの盛んな学校が多くて、なんていうか、「武士の郷」みたいなかんじがして、派手でもおしゃれでもないところも自分らしいかんじがして、好きです。政治やいろんなことを考える時も、相模原と東京の距離感というのは、私にとって大切な気がします。
Evaさん、このブログ書いた直後のビンラディンのこと、僕もすごくショックを受けました。覚悟と決断力といっても、こういうことではないのだが、という気持ちが、やはり日本人である私には強くあります。45くんが書いていた、「覚悟ある政治家というと小泉さんや石原さんのことになるの?なんか違う」という違和感と通じるものたと思いました。それがなんなのか、さらに考えてみます。話は飛んで、この前のメッシの2ゴール、ものすごかったですね。見ながら2点とも絶叫していました。リカルドカリバーリョ欠場ペペ退場では、モウリーニョのサッカーができませんでした。今晩はどうなるのでしょう。本当に、「どっちもがんばれーーー」という気持ちでTV観戦です。
kenrisaさん、こどものいのちと健康のことについては、判断停止すべきでない、と私は思っています。臆病と言われても卑怯と言われても変人と言われても、逃げる時は逃げるし、避けるものは避ける。心配しすぎの失敗なら喜んでする。法制化される10年以上も前から、馬鹿じゃないのと言われてもチャイルドシートや後席シートベルトを絶対に装着していたように、今回のことにも対応しています。
by うぉたぷらねっと (2011-05-04 00:54) 

45

小泉さんや石原さんって、亀田父、つまり
不良性&硬派の肯定になりそうなんだよね・・・。
ま、僕的にも、また、日本人的にも嫌いじゃない
スタイルではあるのだけど・・・。
スポーツや芸能ではOK!!
でも、それ、政治ではアカンものねえ・・・。

by 45 (2011-05-04 21:50) 

水滴

はじめまして、こんにちは。二ヶ所のブログ、とても刺激をいただいてます。
いままで無言の読者の一人でしたが、勇気を出して書きます。


ひとりを殺して多くのひとを生かす、「一殺多生」という言葉があります。
私はある意味での、「一殺」の立場に置かれた土地に生まれ育ちました。

生まれ育った地(山口県岩国市です)に何故米軍基地があるのか。
これもまた過去の政治家が、覚悟して決断したからなのでしょう。

この決断がどんな風に必要だったのか、少しは理解できても、
やっぱり自分が「一殺」側に割り振られると、
不条理だと感じてしまうし、とても重苦しいです。

しかし、ひとたび故郷を出て生活し、
「一殺」側から出てしまうと、「一殺」側のとき感じていた
重苦しさや問題意識が薄れてしまい、自分の鈍さ・ずるさも感じています。



今、仕事をして普通に生活しています。
問題意識が鈍くならないうちに、継続できる何かを少しプラスして、
良い方向へ変化させていきたいと考えてます。
あきらめず探り続けたいです。
つたない文章で失礼しました。

by 水滴 (2011-05-05 17:47) 

うぉたぷらねっと

水滴さん、コメントありがとうございます。私の住む相模原も米軍施設がすぐ近くにあり、神奈川全体では厚木基地、横須賀基地だけでなく、瀬谷に通信基地があったりと、本土の中では米軍施設の多い県のひとつです。国際情勢が不穏になると、私の家の上も、米軍機が頻繁にとびまわるようになります。米軍基地をどの地域かが受け入れる、という選択をしないのであれば、それに代わる国防プランの負担が国民全体に生じる覚悟が必要ですし、日米関係変化のリスクを受け入れる必要がある。今、どちらの立場かは明らかにしませんが、男子5人の子供を育てている身として、国防問題についても、真剣に考えざるをえないです。

自分と自分の家族のこととして、いまあるいろいろな課題について、これからも考えて文章をか書いていきたいです。
by うぉたぷらねっと (2011-05-05 22:48) 

OKAR

太陽光発電・燃料電池導入のお話ももちろん読んでますが、こちらのブログがすごく充実していますね!!

私自身、今までまったく立ち入って来なかった思索領域Wで、使ってなかった脳みそを刺激されている気持ちです。
いえいえ、わかりにくいという意味ではなく、とても知的好奇心をかきたてられています。
政治というものの本質について、全然考えようともしていなかったから。

津波で広い範囲が「住めない」地域になってしまって、それでも「ここに住みたい、ここでなきゃ住めない」と語る住人の声をテレビで聞くと、「いや、住めないんだから…どこか高い土地に行かないと」って考えちゃう。

これが相手を殺すということですね…

でも、ほんとに政治が「ここは危険。あっちに住むべし」というところを早く示してあげないと、まさに生殺しですよね(_ _;;

ところで、うぉたぷらねっとさんと私は、同い年みたいですね、いよいよ親近感です♪


by OKAR (2011-05-13 13:11) 

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