歴史的一日に思うこと その2

 この先の米朝首脳会談の成否を見るまでは、今日の一日の出来事だけで、一喜一憂してもしょうがないと思うのだが、それでも、このニュースを見ながら考えたことあれこれ。
 「歴史的」というのはどういうことかというと、それまで当たり前だと思っていた連続的日常に対し、それとは異なる方向に世界が動くということ。そして、天災など、不可抗力として「起きてしまうこと、動いてしまうこと」も歴史的な事件ではあるのだが。「人間が、政治家が、意志をもって、それまで当たり前だと思っていた連続的日常から、方向を変える、世界を動かす」というのが、政治、外交における「歴史的」な出来事なのだ。そういう意味で、今日のこの一日は歴史的な一日だった。日本人は長いこと、自国の政治家がそのような「歴史的一日」を作り出すことをこの目で見ていないので、なんとなく、うらやましいような、妬ましいような気持になっているのである。
 日本の戦後史の中でも、「沖縄返還」とか「日中国交正常化」というのは、そういう意味では「歴史的」出来事だったと思うのだが、1970年代以降、日本はどのような「連続的日常からの方向転換」を志向して努力してきたのか。何も思考も志向もしてこなかったのではないか。
 米軍基地が沖縄を占拠しているのはもちろん、首都の中心部、首都圏にも米軍が駐留し続けているこの状況を「連続的日常」として当たり前のものと受け入れて、それは考えないことにしてきたのではないか。現政権が考える「歴史的に日本を動かす」方向は、米軍の二軍として自衛隊を世界中で使えるようにするという、「連続する日常」の補完強化計画でしかないのではないか。
 少し視点を変えて、例えば「北方領土返還」ということも、実は米軍が実質的に日本領土内のどこにも基地を作る権利を有する現状の日米の関係が解消しない限り、ロシアが返還するわけないのは、幼稚園児が考えてもわかる理屈だと思うのだが。もし本気で「北方領土返還」を望むなら、米軍と日本の関係を変えることから始めなければ無理だということが、米軍従属保守という不可思議な思想を持つ自民党政権とその支持層にはわからないのだろうか。
 日本の政治に「歴史的」という日がこの先あるとすれば、沖縄からも首都中心からも米軍基地、施設がなくなる日なのではないか。日本が米国の属国ではなく、完全に自立した国として世界から認められる日なのではないか。
 とはいえ、現実にそうなるためには、日本はもしかすると核保有したり、中ロとの政治的距離がより近く緊密になる必要があるのではないか。そのこととの比較でもって、主体的に、米軍基地を、どの程度の規模、日本に置き続けるのがよいか。そのような議論が、タブーなくされるような政治風土に、日本がなる日は来るのかなあ。
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