今年の読書記録 『奥のほそ道』 リチャード・フラナガン (著), 本当の文学の力 [文学中年的、考えすぎ的、]

『奥のほそ道』 単行本 – 2018/5/26
リチャード・フラナガン (著), 渡辺 佐智江 (翻訳)
Amazon内容紹介
「ブッカー賞受賞作品
 1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。
 本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇だ。
 作家は、「泰緬鉄道」から生還した父親の捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書き上げたという。東西の詩人の言葉を刻みながら、人間性の複雑さ、戦争や世界の多層性を織り上げていく。時と場所を交差させ、登場人物の心情を丹念にたどり、読者の胸に強く迫ってくる。
 「戦争小説の最高傑作。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』以来、こんなに心揺さぶられた作品はない」(『ワシントン・ポスト』)と、世界の主要メディアも「傑作のなかの傑作」と激賞している。」

しむちょーん、読んだよー。本物の小説です。本物の文学です。としか、言いようがない。
こういうすごい小説は、Amazon内容紹介を読んでしまったとしても、まったくネタバレの心配がないのだよな。あらゆる細部が、あらゆる人物が、どのエピソードのひとつもが、息詰まるような切実さ、真実に満ちています。戦争を舞台にし、それを軸にたしかに小説は進みますが、それにとどまらない、何人もの異なる人生のまるごとが、驚くべき多様さをもって描きこまれています。

 話はかなりズレるのだけれど、先日、大学の教養課程のときのクラス会というのがあった。中にはずいぶん偉くなっている人もいるけれど、多くはそろそろ「社会人キャリアの終わり方」、ひいては「人生の畳み方」に悩むお年頃なわけで。私もフリーランスだから、年とともに仕事はどんどん減っているので、近いうちに仕事は自然消滅になるだろうから、ここから先は、良い本、文学思想の本当に優れた本を読んでは、モノを考える、という本当にやりたかったことを、頭が働くうちにやっていきたいものだなあ、というような希望を語ったりしたのだが。そうすると、「原は悠々自適だね。奥さんがお医者さんでうらやましい」というようなツッコミが入ったりする。
 文学を読む=趣味=悠々自適、ゆとりがあってうらやましい、という理解のようなのだが、違うのだよなあ。そういえば、電通同期の友人と話していても、同様のつっこみを食らうことが多いので、世の中一般での「文学」って、そういうふうにしか思っていない人が大半なんだろうなあ。
 お金になる=仕事。お金にならない=趣味、というとらえ方なのかな。読書という読むだけ体験=お金にならない=趣味、ひまつぶし、という捉え方なのかな。

 文学は娯楽ではない。文学は趣味とは違う。僕らの大学のクラスの半数以上は「文学部」を出ているはずなのだが、文学にその程度の価値しか見出していなかったのかなあ、と正直、非常にさみしく思う。
 まあ文学部と言っても「社会心理」あたりを実学として学んで、広告マスコミ業界で仕事をしてきた秀才の皆さんからすると、「いつまでも文学なんて青臭いこと言ってんの」と思うのかもしれんがなあ。

 本当に優れた文学においては、一冊の本には、人生全体や世界全体というサイズの何かが詰まっていて、その本を読む前と後では、自分というものが深いところで変わる。そういう体験を通じて、世界のとらえ方、人生の意味を自分の中に広げていくか、というのが、文学を通して生きる、ということなのだけれど。

 というように本を読む人には、ものすごくお勧めの本です。包含されている世界と人生の奥行きが、とてつもなく大きな本です。

 この本で言えば。先の戦争のときの、日本軍士官、教育も教養もある人たちが、どのような「思想と思い」でもって、捕虜虐待をしていたのかしら、ということについて。この作者は、虐待されたオーストラリア捕虜を描くだけでなく、虐待した方の人間も、なんとか理解して描こうとする。それは、私がこれまで読んだ日本人小説家、日本文学で描かれてきたものとは、けっこう異なる。初めて読む、日本軍人の姿と思想であったりする。特定の政治的立場からステロタイプ的批判的に描く、というようなことがない。理解不能な日本人の行動と思想を、なんとか、納得できるものとして把握し、描こうとするその文学的な想像力と筆力には驚かされる。階級の異なる何人かの日本人士官、兵士、朝鮮人軍属、どの人物についても、生きた人物として描かれていく。単に収容所のシーンだけでなく、その前後のそれぞれの人生までもが深く描かれていく。
 もし、例えば、現代の、イスラム原理主義者が日本人ジャーナリストを拉致し拷問する、という設定の小説が日本人の手によって書かれるとして、その拉致拷問を行うイスラム原理主義者の、「現場の若者」「現場指揮官」「指導者」それぞれの人物像、思想と動機、宗教理解の深さの違い、背景を、細かに文学として納得できるように、しかもイスラム教徒側が読んでも納得できるように書くとしたら、それがどれくらいの難易度の高いことかは想像できると思う。
 たまたま取り上げた日本軍人の描き方、というのも、この本の中に包含されている、ごく一部でしかなくて、戦争文学ということで人が普通想像する範囲を、はるかに超えた様々な人物とエピソードが、どの一部をとっても、身もだえしたり、ため息がでたり、激しい生理的嫌悪感を催したりするような見事さで描き出されています。

 途中、「ここで終われば感動的」というところを超えて、小説がなかなか終わりません。「欲張りすぎて失敗したかな」と思いつつ読み進むと、響きがどんどん複雑になって広がっていきます。伏線の収拾のような小手先的技巧を超えて、小説が膨らんでいきます。大作ですし、長いし、複雑だし、ですが、もし読み始めたならば、ぜひとも、最後まで、読んでください。
 



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