『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック 著 中村佳子訳 河出文庫   あらすじ ネタバレあり、注意。  人間存在の本質に、特異な手法で迫った極めて特異な小説。

 生命科学と情報科学の進化が重なると、なんらかの意味で人が不死になる。そうすると、宗教の在り方が激変し、人間の価値観も生き方も想像もできないほどに激変する。この周辺をテーマにした小説はSF界隈では多数存在するが、純文学側で本気で取り上げる人はまだ少ない。日本で言えば川上弘美の『大きな鳥にさらわれないように』などが近いだろうか。
 ウェルベックという人が普通の意味での純文学の人かどうか、というのは議論の分かれるところだと思う。世界中で話題、ベストセラーになった『服従』は、フランスでイスラム勢力が選挙で政権を取ったという状況で、大学のイスラム化に伴い、改宗をしないと教職からも追われる状況になった大学教授が、公私さまざまな面からの圧力や懐柔の前に、次第にイスラム化を受け入れていくという小説である。主人公の大学教授の、俗物的動機(経済的社会的待遇や、性的パートナーが得られる得られない、といった)から、イスラム化を自ら受け入れていくさまが、筆者得意の露悪的態度と文体で描かれていく。この点がウェルベック小説の最大の特徴といってよいかと思う。主人公(たいてい、作者の分身的である。)は、、結局、欲望に弱く、普通の人よりやや知的で他者を見下してはいるものの、崇高な理想や信念によって生き方を決めるほどの、真の知的さも高い倫理性も持ち合わせていない。人間とは多かれ少なかれ、本質的にはそういう存在なのだ。そういう人間が、その状況に置かれたら、どうふるまうか。そうした露悪的知的実験性こそ、ウェルベックの真骨頂だ。状況・設定の過激さや、表現の露悪性から、純文学の人なのか、という問いが生じてしまうのだが、そこに人間性の本性を描き出そうという強い意志が存在し、かつ、小説のカギになる要素に「文学」の力への信頼や愛が描きこまれる、という点からすると、この人はまぎれもなく純文学の人だと私は思う。
 SF畑からのアプローチにおける「不老不死の実現」だと、医療技術進化による肉体自体の不老不死化またはDNAからクローン化した肉体を何度でも複製再生でき、そこに、記憶や人格パターンのコンピュータ・サーバー上への保存したものを再アップロードすることであることが多い。が、ウェルベックの考える「不死化」は、文学者が考えたらしく、オリジナル度が高い。
 作品内では、そもそも、不死化の実現はそれほど近い未来には設定されていないが、小説はまずは現代からスタートする。人間の科学技術による不死化を謳う新興宗教が、DNAの保存後の自殺を容認する教義で、勢力を広げる。DNAから「いきなり成人のクローンの再生が短時間で可能になる」技術が完成した、それを教祖自身が自殺し復活することで証明する。が、実は、その時点では嘘である。アクシデントによる教祖の死を隠蔽するための偽装工作であり、その時点では再生技術は完成していない。しかしこの事件を契機に教団は急速に信者を増やし、世界の宗教地図を塗り替える程になっていく。技術的に人の再生が実現するのは、実に数世紀を経てからなのだ。という、時間スケールの非常に大きい小説になっている。その後に起きた核戦争での人類のほとんどが絶滅した世界の中、DNA保存されたその宗教の信者は生き残り、新しい世界を築く。DNA操作で、新しい人類は光合成によるエネルギー・物質合成を可能にする変更を加えられ、食の必要もなくなり、性行為による子を持つことも必要とないネオヒューマンへと改造されている。旧人類の政治的文化的欠陥を克服するために、ネオヒューマンの社会では、個人が完全に孤立した状態で、一人で生活している。何世代も再生を繰り返しながら、仏教的解脱に近い、平穏で刺激の少ない平穏な幸福の中で生活している。元の世代の人格・記憶は、電子的に保存されているのではない。初代信者が死の前に叙述した「人生記」を、再生した新しい肉体が読み、それへの解釈を行うことで個人の記憶、人格が継承される、という、文学者が考えた、きわめてアナログでオリジナルな形式を取る。初代旧人類の持った、人格的欠陥や欲望にまみれた人生、その人格が永遠の生を得ても仕方がない、そうではない、平穏で自立した幸福な新人類が幸福な生を実現できるシステムが、「ビッグシスター」(詳しくは説明されていないが、おそらくは人類の進化と新社会構築を先導したAIの究極形)により作られているのだ。他者とのかかわりはネットワークを介した会話のみで、一切の肉体的交流なしに平穏に生き続ける。肉体は改造されているとはいえ不老不死化はしていないので、各世代の肉体は一定の時間を経て死を迎え、次の世代の肉体へと引き継がれる。
 小説は、現代の、下品で政治的なコメディアンとして成功した主人公ダニエルが、有名人としてこの教団の集会に招かれているうちに、教祖再生偽装事件に関わる。同時に、初老の年齢にさしかかったことで若く美しい恋人(彼女とのセックスだけが、彼にとっての意味のあることだったにも関わらず)から捨てられたことをきっかけに、DNAを保存し、自殺する。その初代主人公の人生記録と、2000年の時を経て、再生を繰り返し平穏に生きている24代目、25代目ダニエルの独白が交互に語られていく構成を取っている。
 未来のダニエルの欲望解脱的ライフスタイルとの対比、そこに至ることの必然性を語るため、という狙いもあって、初代ダニエルが、若い恋人とのセックスに執着、それだけに価値を見出して生きているさまが、これでもかというくらい露骨に描写される。
 露悪的に描かれる初代主人公だが、彼の人生にも3つの愛があったことが、描かれる。同年代の美人編集者だった妻イザベルとの初めの充実した結婚生活。若い恋人との、理想的セックスを中心とした生活も、愛とセックスが究極の結びつきをした形として語られる。そしてもうひとつは、先妻との生活の最後のころに拾って、先妻の死後に引き取り、若い恋人とのつらい別れの後の生活の心の支え手なった愛犬マックスへの愛。
 注目すべきは、子供を持つことへの徹底的な拒絶・嫌悪感が、この小説では貫かれていること。セックスへの執着はあっても、セックスがパートナーとの愛の中心にあっても、子供を持つこと、子供を育てることには一斉の価値を認めていない。その代わりに「自分が永遠に生きること」に価値が置かれる。その宗教も、子供を持つことは全く奨励されていない。「チャイルド・フリー」という言葉さえ出てくる。そんな価値観の人にとって、愛犬の重要さ、というのが、きわめて重たく描かれている、というのも、いろいろと納得させられるものがある。
 子だくさん家庭人として人生の大半を子育てにささげてきた私からすると、「セックスはあるが子作りをしない欲望まみれ人生」と「あらゆる欲望から解脱した、孤立した平穏な生」の間には、全く別の人生の在り方、幸福の在り方が存在すると思うのだが。「子供を育てた後に生じる夫婦の平穏な生活」「そのパートナーの喪失を受け入れる苦しい体験からの、孤独だが死を受容するまでの人生」というような人生全体を、どう幸福なものとして全うするか、ということを漠と考えているだけに、この作者の過激な幸福論は、なかなかに新鮮であった。しかし、子供を持たない人生を選択した人が読めば、より切実な共感を感じるのであろうか。
 小説エピローグにおいて、25代目ダニエルは安全で孤立した環境から、外の世界へ旅立つ。そこで彼が出会った世界は、考えたことは。変わり果てた世界の姿と、そこで原始時代に戻ったように暮らす、旧人類の生き残り「野人」たち。生理的にも思考方法も現在の人類とは大きく変わっているネオヒューマンがその体験の中で考えたことを、作者は想像力の限りを尽くして描く。そこまで外部化、客観化された視点から、現在の人類の本質、愛の本質を容赦なく描き出そうとする執念はすさまじいものがある。
 読んで楽しい小説ではない。理解しやすい小説でもない。(この感想で書いた小説のあらすじや細部理解も、実はあまり自信がない。読み損ね、理解し損ねている点が結構あると思う。)しかし、人間の本質を、世界の本質を理解したいという欲求を持つ人には、必読の小説だと感じた。
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