読書感想 『本物の読書家』 乗代 雄介 (著) [文学中年的、考えすぎ的、]

『本物の読書家』 乗代 雄介 (著)

Amazon内容紹介(って、本の帯に印刷されている内容なのだな。)
「書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖。
群像新人文学賞受賞作『十七八より』で瞠目のデビューを遂げた、新鋭にして究極の読書家、待望の新刊!
傑作中編2作品を収録。
老人ホームに向かう独り身の大叔父に同行しての数時間の旅。大叔父には川端康成からの手紙を持っているという噂があった。同じ車両に乗り合わせた謎の男に、私の心は掻き乱されていく。大変な読書家らしい男にのせられ、大叔父が明かした驚くべき秘密とは。――「本物の読書家」
なりゆきで入った「先生」のゼミで、私は美少女・間村季那と知り合う。サリンジャー、フローベール、宮沢賢治らを巡る先生の文学講義、季那との関係、そして先生には奇妙な噂が……。たくらみに満ちた引用のコラージュとストーリーが交錯する意欲作。――「未熟な同感者」

ここから僕の感想。
昨年末、いくつかの新聞の「今年の文学振り返り」特集で、何人かの選者のベスト3に入っていたので買ってみたのですが、いやまあ、びっくり。大傑作でした。とはいえ、文学や読書を「趣味や娯楽、あるいはなにかの教訓やら感動を得るためのもの」と思う人には全く無縁の、何が書いてあるか理解不能な本に違いない。叙述の半分以上は、小説を書く、読むということに対する文学論的思弁です。それをつなげ合わせながら、小説内の出来事、筋立てを、ドラマチックに組み立てていく、という、稀有な、新しいアプローチをモノにしています。
 物書き修行中の長男と、保坂和志の小説について論ずることがときどきあります。私は、保坂の小説は何も事が起こらないから、退屈で嫌いだ、というと、息子は、現代の純文学の小説はそのような方向に向かっているのだ、その面白さがわからないのは文学が読めていないのだ、と私を批判するわけですが。この乗代雄介という著書は、保坂的な文学的思弁と日々の生活の単調な組み合わせだけでは終わらせず、そこにスリリングな事件の展開を織り込むという曲芸的離れ業を持ち込んでいます。一作ならともかく、この本に収録されている二編ともに、その試みに成功している、というのは、ただものではありません。
 文学に、読書に、人生を絡めとられた人にとっては、身もだえするような内容であること間違いありません。死にそうになりながら、あっという間に読んでしまいました。それにしても、このタイミングで、こういう本に出会ってしまうというのは。

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『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック 著 中村佳子訳 河出文庫   あらすじ ネタバレあり、注意。  人間存在の本質に、特異な手法で迫った極めて特異な小説。

 生命科学と情報科学の進化が重なると、なんらかの意味で人が不死になる。そうすると、宗教の在り方が激変し、人間の価値観も生き方も想像もできないほどに激変する。この周辺をテーマにした小説はSF界隈では多数存在するが、純文学側で本気で取り上げる人はまだ少ない。日本で言えば川上弘美の『大きな鳥にさらわれないように』などが近いだろうか。
 ウェルベックという人が普通の意味での純文学の人かどうか、というのは議論の分かれるところだと思う。世界中で話題、ベストセラーになった『服従』は、フランスでイスラム勢力が選挙で政権を取ったという状況で、大学のイスラム化に伴い、改宗をしないと教職からも追われる状況になった大学教授が、公私さまざまな面からの圧力や懐柔の前に、次第にイスラム化を受け入れていくという小説である。主人公の大学教授の、俗物的動機(経済的社会的待遇や、性的パートナーが得られる得られない、といった)から、イスラム化を自ら受け入れていくさまが、筆者得意の露悪的態度と文体で描かれていく。この点がウェルベック小説の最大の特徴といってよいかと思う。主人公(たいてい、作者の分身的である。)は、、結局、欲望に弱く、普通の人よりやや知的で他者を見下してはいるものの、崇高な理想や信念によって生き方を決めるほどの、真の知的さも高い倫理性も持ち合わせていない。人間とは多かれ少なかれ、本質的にはそういう存在なのだ。そういう人間が、その状況に置かれたら、どうふるまうか。そうした露悪的知的実験性こそ、ウェルベックの真骨頂だ。状況・設定の過激さや、表現の露悪性から、純文学の人なのか、という問いが生じてしまうのだが、そこに人間性の本性を描き出そうという強い意志が存在し、かつ、小説のカギになる要素に「文学」の力への信頼や愛が描きこまれる、という点からすると、この人はまぎれもなく純文学の人だと私は思う。
 SF畑からのアプローチにおける「不老不死の実現」だと、医療技術進化による肉体自体の不老不死化またはDNAからクローン化した肉体を何度でも複製再生でき、そこに、記憶や人格パターンのコンピュータ・サーバー上への保存したものを再アップロードすることであることが多い。が、ウェルベックの考える「不死化」は、文学者が考えたらしく、オリジナル度が高い。
 作品内では、そもそも、不死化の実現はそれほど近い未来には設定されていないが、小説はまずは現代からスタートする。人間の科学技術による不死化を謳う新興宗教が、DNAの保存後の自殺を容認する教義で、勢力を広げる。DNAから「いきなり成人のクローンの再生が短時間で可能になる」技術が完成した、それを教祖自身が自殺し復活することで証明する。が、実は、その時点では嘘である。アクシデントによる教祖の死を隠蔽するための偽装工作であり、その時点では再生技術は完成していない。しかしこの事件を契機に教団は急速に信者を増やし、世界の宗教地図を塗り替える程になっていく。技術的に人の再生が実現するのは、実に数世紀を経てからなのだ。という、時間スケールの非常に大きい小説になっている。その後に起きた核戦争での人類のほとんどが絶滅した世界の中、DNA保存されたその宗教の信者は生き残り、新しい世界を築く。DNA操作で、新しい人類は光合成によるエネルギー・物質合成を可能にする変更を加えられ、食の必要もなくなり、性行為による子を持つことも必要とないネオヒューマンへと改造されている。旧人類の政治的文化的欠陥を克服するために、ネオヒューマンの社会では、個人が完全に孤立した状態で、一人で生活している。何世代も再生を繰り返しながら、仏教的解脱に近い、平穏で刺激の少ない平穏な幸福の中で生活している。元の世代の人格・記憶は、電子的に保存されているのではない。初代信者が死の前に叙述した「人生記」を、再生した新しい肉体が読み、それへの解釈を行うことで個人の記憶、人格が継承される、という、文学者が考えた、きわめてアナログでオリジナルな形式を取る。初代旧人類の持った、人格的欠陥や欲望にまみれた人生、その人格が永遠の生を得ても仕方がない、そうではない、平穏で自立した幸福な新人類が幸福な生を実現できるシステムが、「ビッグシスター」(詳しくは説明されていないが、おそらくは人類の進化と新社会構築を先導したAIの究極形)により作られているのだ。他者とのかかわりはネットワークを介した会話のみで、一切の肉体的交流なしに平穏に生き続ける。肉体は改造されているとはいえ不老不死化はしていないので、各世代の肉体は一定の時間を経て死を迎え、次の世代の肉体へと引き継がれる。
 小説は、現代の、下品で政治的なコメディアンとして成功した主人公ダニエルが、有名人としてこの教団の集会に招かれているうちに、教祖再生偽装事件に関わる。同時に、初老の年齢にさしかかったことで若く美しい恋人(彼女とのセックスだけが、彼にとっての意味のあることだったにも関わらず)から捨てられたことをきっかけに、DNAを保存し、自殺する。その初代主人公の人生記録と、2000年の時を経て、再生を繰り返し平穏に生きている24代目、25代目ダニエルの独白が交互に語られていく構成を取っている。
 未来のダニエルの欲望解脱的ライフスタイルとの対比、そこに至ることの必然性を語るため、という狙いもあって、初代ダニエルが、若い恋人とのセックスに執着、それだけに価値を見出して生きているさまが、これでもかというくらい露骨に描写される。
 露悪的に描かれる初代主人公だが、彼の人生にも3つの愛があったことが、描かれる。同年代の美人編集者だった妻イザベルとの初めの充実した結婚生活。若い恋人との、理想的セックスを中心とした生活も、愛とセックスが究極の結びつきをした形として語られる。そしてもうひとつは、先妻との生活の最後のころに拾って、先妻の死後に引き取り、若い恋人とのつらい別れの後の生活の心の支え手なった愛犬マックスへの愛。
 注目すべきは、子供を持つことへの徹底的な拒絶・嫌悪感が、この小説では貫かれていること。セックスへの執着はあっても、セックスがパートナーとの愛の中心にあっても、子供を持つこと、子供を育てることには一斉の価値を認めていない。その代わりに「自分が永遠に生きること」に価値が置かれる。その宗教も、子供を持つことは全く奨励されていない。「チャイルド・フリー」という言葉さえ出てくる。そんな価値観の人にとって、愛犬の重要さ、というのが、きわめて重たく描かれている、というのも、いろいろと納得させられるものがある。
 子だくさん家庭人として人生の大半を子育てにささげてきた私からすると、「セックスはあるが子作りをしない欲望まみれ人生」と「あらゆる欲望から解脱した、孤立した平穏な生」の間には、全く別の人生の在り方、幸福の在り方が存在すると思うのだが。「子供を育てた後に生じる夫婦の平穏な生活」「そのパートナーの喪失を受け入れる苦しい体験からの、孤独だが死を受容するまでの人生」というような人生全体を、どう幸福なものとして全うするか、ということを漠と考えているだけに、この作者の過激な幸福論は、なかなかに新鮮であった。しかし、子供を持たない人生を選択した人が読めば、より切実な共感を感じるのであろうか。
 小説エピローグにおいて、25代目ダニエルは安全で孤立した環境から、外の世界へ旅立つ。そこで彼が出会った世界は、考えたことは。変わり果てた世界の姿と、そこで原始時代に戻ったように暮らす、旧人類の生き残り「野人」たち。生理的にも思考方法も現在の人類とは大きく変わっているネオヒューマンがその体験の中で考えたことを、作者は想像力の限りを尽くして描く。そこまで外部化、客観化された視点から、現在の人類の本質、愛の本質を容赦なく描き出そうとする執念はすさまじいものがある。
 読んで楽しい小説ではない。理解しやすい小説でもない。(この感想で書いた小説のあらすじや細部理解も、実はあまり自信がない。読み損ね、理解し損ねている点が結構あると思う。)しかし、人間の本質を、世界の本質を理解したいという欲求を持つ人には、必読の小説だと感じた。
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少子化について、年末年始、大暴論を考えてみた。 [文学中年的、考えすぎ的、]

年末年始に見たり聞いたり読んだりしたことをきっかけに、少子化についての「暴論」を書いてみたいな、と思ったので書いてみる。年末年始の真面目な政策論争とかドキュメンタリーとかニュース解説の番組でも少子化をどう止めるかがずいぶん論じられていたけれど、そこで語られていたように常識的な対処では全然止まりそうもない。ので、これは自覚的に、常識人が言わないようなことを書いた暴論です。だから、常識的な、誰でもいいそうな批判は勘弁してほしい。そこは読者の知性とセンスに期待をしたい。広告やマーケティング関係の友達が多いから、これはブレーンストーミングの「拡散フェイズ」の、頭を柔らかくして視野を広げるための意見だと思って読んでほしい。(ブレストの拡散フェイズではネガティブチェック的常識的批判はいったん我慢、がルールですよね。)
 もうひとつ、僕自身は六人の子供を育てた子だくさんお父さんだが、SNSの友達には、子供なしの人のほうが多い。このテーマで文章を書くと、友達の人生にいちゃもんをつけているようになりがちなので、あんまり触れないようにしていた。でも、やっぱり日本の少子化問題は、日本社会の価値観とか制度変更とかの欠点やミスが積み重なった結果としての大問題だと思うので、どうしても論じる必要があると思う。これは、これから大人になる若い人たちが、どうやったら国から強制されたりするのではなく、子供をたくさん持てるようになるかなあ、ということを考えたので、子供を持たなかった友人のみなさんを批判しようという意図で書かれたわけではありません。そこのところも、分かってほしいです。


 きっかけ1
この年末年始、一昨年の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の一挙再放送が、地上波TBSとCSのTBS1でそれぞれあって、全部ではないけれど、けっこうがっつり見てしまった。その中に、朝まで生テレビのパロディで少子化対策、子育てについてみくりちゃん(ガッキー)がお母さんや兄嫁や友人と議論する、というのがあって、みくりちゃんが「高校生のときのほうが時間があって育児しやすいから、高校で子供を産んで高校に託児室を作って、休み時間に授乳をすれば」っというアイデアを出していた。そうなんだよな、本当にそうだ、と思った。
  きっかけ2
今年の新成人、まだかろうじて120万人はいる。昨年末のニュースで昨年の出生数は99万人。これはやばい。この120万人の新成人全員、むりやりくっつけてカップルにすると60万組。ここから人口増やそうとすると、その60万組が全部3人子供を作っても180万人。全員は結婚しないとすると、結婚したカップルは4人、子供作ってもらわないとダメだな。四人子供を持てるようにするにはどうしたらいいだろう。
 きっかけ3
 昨日、全然別のテーマで文章を書いていた時(国立大学の文系学部縮小がいかに間違いであるか、というテーマだつた。)、人間には「生物学的動物」「経済的動物」「社会的政治的動物」「文化的動物」としての側面があり、それらを総合的多面的に考えられるように教育しないと、少子化問題だって解決できない、と書いて、そうだな、生物学的動物としての側面で考えるというのが足りていないんじゃないか。と思った。
 きっかけ4
成人の日にオンエアされた18FESという音楽番組。全国のいろいろな思いを持つ千人の18歳の若者、彼らのためにWANIMAが新しい楽曲を作って、彼らと共演する。(コーラスとブラスセクションを千人の若者たちが演奏する。ちなみに去年はワンオクロックだった。)その参加者の中に、18歳の男の子なんだけど、「妻がWANIMAが好きで、今妻が妊娠中でおなかが大きくて」ってインタビューに答えている子がいた。ヤンキーとかそういう感じではなくて、すごく真面目そうな、18歳のときの僕のような男の子。なんか、お前、えらいなって思った。18歳で妻が妊娠中って堂々としている。
 きっかけ5 から、なし崩しに本題を論じていきます。
 昨年から読み続けているフランスの小説『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック著。この人の小説を人にあまりお勧めできないのが、主人公がものすごく下種で、若くて美人でいいカラダしていないと女じゃない、的な価値観をもっていて、そして、セックス描写がものすごく露骨で下品。この小説だけじゃなく、今まで読んだ『服従』も『地図と領土』でもそうだったような記憶が。(本人名誉のためにいちおう説明すると、どの作品も政治や社会に対するものすごく深い洞察と問題提起をしているのが、この人の小説の本質で、だから現代フランス文学を代表する作家なんだけど。フランスの村上春樹、くらいの人気があると思ってもらって間違いない。)なのに、とにかくセックス描写が露骨で下品。この小説家自身の女性観、セックス観がそうなんじゃないかと思う。しかし、この人の小説、フランスでは特に問題なく受け入れられている。日本ではこんな女性観、セックス描写の小説は女性に全く受けないと思うんだよな。しかしフランスでは大人気作家ということは、フランス人的にこのお下劣セックス描写はきっと「あり」なんだよな。そういえば、フランスって先進国の中では少子化対策が一番うまくいっているんだよな。たいていの真面目な解説では、非正規婚での子どもも全く差別されなず支援される制度とか、子育て支援策の充実なんかが要因と分析されるんだけど、セックスに対するお下劣な本能肯定、という「セックス活動度の高さ」がフランスにはあるんではないか、と思った。つまり、日本だと、夫婦でもセックスレスの人が半分くらいいて、そもそも交際相手がいない単身者がたくさんいて、日常生活の中にセックスがごく自然にある人の比率っていうのが、フランス人と比べるとすごく低いんじゃないだろうか。だから、セックスの本質であるお下劣で本能的で動物的な部分を小説でダイレクトに描くと、日本では、日常的にそういうことをしていない人たちは、拒絶反応を起こすのだろう。小説でも、その辺、お上品に上手に描ける村上春樹(の小説って、実は主人公、ものすごく高頻度にいろんな相手とセックスしまくっているんだけど、そうとは感じさせない上品で素敵でかわいらしい描写をするんだよね。村上春樹作品の主人公、やっていることはウェルベックの主人公に勝るとも劣らぬセックス活動家なのだが、誰もそう思わない。ノルウェィの森が映画化されたとき、原作に忠実に主人公の性生活を描いたら、「原作はこんなに下品にセックスだらけじゃなーい」って女性ファンから不評だったんだけど、あれって原作に極めて忠実なんだけどね。)村上春樹はセックスを無害にきれいに描く天才だから、日本で人気なんだろう。。
 少子化を解決するには、子供を作らなくちゃいけないわけだけど、子供を作るにはセックスをたくさん国民がするようにならないといけないんだよね。というすごく本質的にことを考えたわけだ。
 脱線ついでに、少子化問題を論じようとすると、すぐに「子供が持ちたくても子供ができない人のことを考えたことがあるのか」という突っ込みが入るのが今どきの定番なのだけれど、不妊の問題がこれだけ大きくなっているのは、そもそも「子供を作ろう」と考え始める年齢が高くなっているのが最大の原因のひとつなのは、自明だよね。正常な妊娠をする確率は年齢とともに低くなるから、昔も今も35歳以上は高齢出産と医学的にはなっているわけで。正常にどんどん妊娠できちゃう10代後半から20代前半の人たちが、社会的には「学生だからまだ結婚しちゃだめ、もちろん子供作っちゃダメ」だったり「結婚してもまずは仕事のキャリアを」というのが当たり前だという風になっているのが、少子化のそもそもの原因なのは当然のことだよね。高齢化以外の疾患疾病原因での不妊は、少子化問題が起きる前からずっとあった問題なわけで、(男性のおたふくかぜでの無精子症とか、女性の子宮や卵巣の異常とかは)、少子化問題を論じているときに、「そういう人への配慮」を理由に議論の邪魔をしようとする人の意図、というのが、僕には皆目わからない。
 一子目の出産年齢が高くなれば二人目三人目を持とうとする人、生物学的にできる人が少なくなるから、必然的に子供人数は減る。
 少子化を止めようとしたら、できるだけ若い年齢から子供を産み始めて、できるだけ長い年数、子供を産み続けられる社会通念と、それを後押しするための社会制度を作らなければいけないっていうのは、自明のこと。みくりちゃんの言う、高校で出産して、高校に託児室っていうのは、その視点からは極めてまっとうなアイデアだということがわかってもらえたでしょうか。
 それから、高齢になってから子供を作ろうとするカップルにおいては、「子供を作るためにセックスをする」という、おそろしく不自然なセックス動機と行為が常態になるカップルが結構いるでしょう。これが人類の歴史上、いかに不自然かっていうのは、みなさんわかっていただけるでしょうか。
 高校生のカップルがセックスするとき、そんなこと考えるバカは一人もいないでしょう。セックスするとき、子供を作ろうなんて考えない方が人間という動物としては自然なんだよね、当然。性に興味があって、恋愛に興味があって、目の前に好みの女の子がいて、それが恋なのか愛なのか性欲なのか、そこは定かに分離していない状態で、そこはゴムしなきゃだめでしょうと理性が言っても、その理性の声はどこか遠くで微かに聞こえるだけで、そんなことより、興奮と感動とであれれれれ、中ででてしまった、という結果、子供っていうのは『できてしまう」のが人類の歴史の中では、はるかに自然であって。もうすでに愛も性欲もさほどなくなった状態で、「子供が欲しい」という目的のためにセックスをするなどということは、人類史上、すごく不自然なことです。どうしても跡取りを作らなければいけない殿様くらいしか、そんなこと考えなかったんではないでしょうか。
 本来は「恋と愛と性欲」が未分離の若い情熱、「若く情熱的な夫婦愛と性欲」が自然に両立鼎立している10代後半から20代のうちに、ポコポコっと三人四人の子供を作ってしまい、それは作るのではなく、愛と情熱の、パッションの結果として「できてしまう」のであり、そうやって出来てしまう子供を、若い二人だけではなく、まわりのみんなで寄ってたかって育てていく、という社会システムを目指すべき。(人類の歴史、人類社会の9割以上は、そういうシステムだった。)
そうすれば今年の新成人だって四人五人と子供がいるの当たり前になり、少子化問題は30年後、シンギュラリティの時代くらいにはかなり改善すると思います。
 ここで社会制度的に配慮すべきことはふたつあって、ひとつは若くして子供を持つカップルのうち、子育てがうまくできなくて、子育てを放棄したり、虐待したりしてしまう人たちがかなりの割合出てくることへの対処をするということ。二つ目は、若くしてたくさん子供を持つことの負担を女性にだけ荷重に負担をかけないシステムを作るということ。
 「若い奴らは(若すぎる僕は、私は)まだ能力もないし無責任で子育てできないから、ちゃんとした大人になってから子供は作らなければいけない」という一見非常にもっともらしい考え方こそが、少子化の元凶なんだ、というのがこの論の中心。「まだ仕事で一人前じゃないから、結婚はまだ、子供はまだ」って男女ともに言っているから初婚年齢も出産年齢もどんどん上がるので、この、一見もっともらしい価値観を社会全体で、全力でぶっこわさない限りは少子化なんて絶対止まらない。
 未熟でも、見た目も精神的にも子供みたいでも、子育てをすることで人は一人前になる、というのが、まず第一。おそらく若い奴らでも八割は、こういう風にがんばって大人になれると思う。
 脱落して育児放棄しちゃう二割と、その子供を不幸にしない社会制度を作ることが必要。端的に言うと、30歳以下で出産子育てする人にはベーシックインカムを夫婦+子供分支給。その代わり、基本、子供は「社会の子供」として、0歳時から保育園で無償で一日の半分は見る。その間、若い親二人は学業または職業教育を受けられる。その過程で育児放棄や虐待の兆候が把握されたときは、行政が介入して、里親、養子縁組までを大々的に行う。若い時に子供を持ち損ねた少子化元凶世代の養子里親化も公的大規模に支援する。
 30歳前に4人出産を終え、育児を続けている人の特典がいろいろある社会にする。例えば、選挙でドメイン制度を採用する。(子供の数分の選挙権が親に与えられる制度で、ドイツで何度か採用が検討されたことがある。。) ベーシックインカム支給が子供も満額支給されるようにし、子供の数が多いほうが明らかに生活が楽、にする。(里親養子は一人で二人分、という制度にすることで、里親養子縁組が強く促進される。)
高学歴で高齢化した人を、医療費をかけてなんとか高度医療で妊娠させよう、という制度は、どう考えても不合理だと思う。(すでに不妊治療への年齢上限は議論されているし、制度化されているんじゃなかったっけ。)過渡期的にはそうした人たちへの支援もきちんと行うべきだとは思うが。
 より「人類」の本性に自然なのは
①若くて恋愛と性欲が一体化している若いうちに子供を作ることを支援、奨励する。
②未熟な若い両親が、子育てとともに一人前の大人に育つ社会システムを構築する。(社会が、みんなで子育てをする。)
③そうやって30歳までに4人の子育てをした人が、政治的権利や経済的支援をより手厚く受けるシステムを構築する。
④子供ができない、できにくい人が不利にならないことと、若く未熟な両親の何割かが育児に失敗すること、両者をつないで救済する、里親、養子システム、養子を差別しない社会規範、里親を称賛する社会風潮を後押しする。
⑤正規雇用的職業上のキャリアは四人の子供を持った30歳を正規キャリアの標準的スタートとする。
⑥スポーツ選手や、理科系の天才的才能を持つ人など、10代20代から職業キャリアを優先すべき人は、特殊な天才として、別ルートは作っておく。

本来はいつ結婚し、いつ子供を持ち、あるいは持たないかは個人の自由であることは、私も百も承知です。しかし、「職業上の能力、キャリアとして一人前にならなければ子供を持つべきでない」という社会規範が、きわめてきつく形成されてしまったことが、今の日本社会の少子化問題の根っこにあると私は考えます。「団塊ジュニアが就職氷河期で正規雇用に着けない人が多かったから」「低所得だから結婚も子供を持つこともできなかった」という分析が、年末年始のニュース解説的番組でさんざんされていましたが、非正規だろうと低所得だろうと、愛と性欲で子供を作って、ベーシックインカムもらえれば、子供をどんどん作るメリットが、非正規雇用の人にこそできるでしょう。雇用機会均等法以降、女性の社会進出で、出産育児によりキャリアを中断するのが女性に特に不利だから、出産を断念したり、一子目を持つのが高齢になったり、二人目を断念した人がたくさんいたのは本当のことでしょう。そうだとしたら、男性も含め、キャリアのスタートは子だくさんの30歳からにそろえてしまえばいいでしょう。その代わり定年はどうせ70歳まで伸びるのですから。働くのは60歳過ぎてもできます。大学で勉強するのも60歳になったってできますが、自然に妊娠できるのは、18歳から30歳までが、生物としていちばん向いているのですから、その年齢で産むことが、いちばん得になるように、社会制度を設計しなおすしかないでしょう。生物学的動物の人間に対して、いちばん自然な社会制度を作りましょう。
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文学の価値を現政権の皆さんは当然まったく分かっていないということを、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞への反応を見て思う。 [文学中年的、考えすぎ的、]

(カズオイシグロの小説についてのネタバレありですので、これから読む予定のある方はご注意を。))


 閣僚のほとんどが日本会議に属し、戦前の価値観への回帰を目指し、戦時中の軍部の侵略に伴う非道な行いをなかったことにしようとする歴史修正主義的現政権が、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心からお祝い」などできるのだろうか。できるとしたら、誰も作品を読んでいないからだろう。(読んでいたとしても、読めていないのであろう。)
 デビュー作の『遠い山並みの光』それに次ぐ『浮世の画家』、そして出世作の『日の名残り』の共通設定を、まず理解していないのだろう。三作とも、戦前戦中に、戦争を推進する側に、意識無意識は別にして加担した側の初老の主人公が、戦後、大きく価値観が変わった社会の中で、自分の人生の意味(間違いだったのか、意味がなかったのか、いや、そんなことは、という葛藤)を描く、というものだ。文学だから、単純に「間違いだった」とばっさり切り捨てるのでもない。しかし、一生をかけてやってきたこと、生きてきた価値観が崩れ去ったものは、もう元には戻らないことの痛切さ、悲哀を描く小説なのだ。
 「戦前の美しい日本の価値観を取り戻す」ことを掲げる安倍政権、日本会議の皆さんに、もし文学を受け止める読解力があったなら、カズオ・イシグロの小説についてコメントをすることなどできないと思うのだが。
 最新作の『忘れられた巨人』は、なおさらである。隣り合った民族同士の殺し合いの歴史を、「仲良く暮らし続けるためなら忘れてしまったほうが幸福なのか」「しかし忘れて生きるということは、正しいことなのか、可能なことなのか」という問いをめぐる小説である。中世のイギリスを舞台にしているものの、明らかに、近隣の国、民族で残虐な戦争や殺し合いがあった、その記憶を持つすべての人に向けて書かれている。その中に、当然、日本の、明治から先の大戦までの記憶も含まれている。慰安婦問題や中国での残虐行為の「有無や事実」について、できればなかったことにしよう、あったとしてもできるだけ小さく記憶しようとし続ける現政権、日本会議の人たちに、まともな文学読解力があったならば、『忘れられた巨人』を書いたカズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心から祝福」などはできないと思うのだが。
 現政権の人たちが厚顔無恥にもカズオイシグロのノーベル賞受賞に「心から祝福」とコメントできてしまうというのは、そもそも文学の価値というものが分からない、小説、文学を読むという習慣もない無教養な人たちの集まりだからなんだろうな、と思うのである。
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田中洋先生『ブランド戦略論』感想 [仕事関係]

『ブランド戦略論』田中洋著 有斐閣 2017/12/10

私は仕事関係で読んだ本についてブログを書いたことは今までなかったし、仕事についてもほとんど語ることはなかったのですが、この本について語ることは、私の今までとこれからについて語ることになると思うので、少し長くなりますが、書いてみようと思います。(実際とんでもなく長くなってしまいました。)
 私は、今やブラック企業の代表のようになってしまいましたが、日本最大の広告代理店、電通を入社三年で辞めた後も、99%は電通と仕事をしてきました。電通在籍時はクリエーティブ局でコピーライターとして配属されていたのですが全く才能もやる気も、様々な意味で適性がなかったので、独立後は、プレゼンテーションの前段、「戦略」、まあ、なんというか前説というか屁理屈というか、そういうものだけを書いてはプレゼンするという仕事を。かれこれもう三十年も続けてきたのです。
 私のやってきたことといえば、マーケティング戦略とか、ブランド戦略とか、名前は立派ですが、プレゼンのその都度、私の話の後に提案されるクリエーティブのプラン、TVCMの案や新聞広告の案が、あなたの企業の、この商品の課題(たくさん売れるとか、いい学生が集まるとか、なんとなく世の中からよく思われるとか)に、最適なものであると 応援する、納得させるというものです。提案するクリエーティブが、あまり面白くない時も、面白すぎるときも、広告主というのは不安になるものです。面白くなくて不安になるのは当然ですが、面白すぎるときも、「広告だけが話題になって商品が売れないんじゃないか」とか「このクリエーターが賞を取りたいだけじゃないか」とか、「わが社がふざけた面白企業だとおもわれてしまうんじゃないか」とか、いろいろと不安になるものなのです。また、広告主の広告担当の方というのは、自分が受けた提案を、プレゼンを聞いていない、役員や社長に報告しないといけない、という難しい役目を負っています。役員や社長に、その広告が面白いかどうかだけではなく、それでどう課題が解決されるのかを論理的に説明しないといけないわけで、そのためのお手伝いをする、というのが私の仕事であったのです。 
 はじめは行き当たりばったりにそうした仕事をしていたのですが、やはりきちんとした論理的、あるいは方法論的裏付けがないと、説得力というのはなかなか出てこない。そんな中で、私がものすごく頼った、使わせてもらった参考書というのが、三冊あって、その一冊目というのが、当時はまだ電通におられた田中洋先生と、丸岡吉人さんの共著『新広告心理』だったのです。広告において必要とされる理論と方法論が「体系的・網羅的」にまとまっているという意味では、いまだにこれ以上の本は無いと断言できます。特にお二人が開発されたラダリングという手法については、開発直後から実務で大活用させてもらい、膨大なデプスインタビューをしたり、駆け出しの私の修業時代の基礎となったのです。
 (ちなみにあと二冊は、電通同期の有賀君がIMCという概念を日本に初めて導入したドン・E. シュルツ ロバート・F. ロータボーン 『広告革命 米国に吹き荒れるIMC旋風』と、電通の5年ほど後輩で、今や執行役員にまでなっている石田茂氏と一橋大学の阿久津聡先生の共著『ブランド戦略シナリオ―コンテクスト・ブランディング 』です。広告屋が実務で使う上では、いまだに最強のメソッドはこの文脈(コンテクスト)ブランディングだと思っています。実はこの構造はラダリングの縦の梯子を横に寝かせたうえで、テクノロジーの進化やメディアの多様化に合わせて精緻化したものとも言えますので、『新広告心理』内のラダリング理論の直系の発展形が『コンテクスブランディング』だと私は勝手に考えています。)
丸岡さんとは具体的な実務の中でご一緒することがあり、面識もあったのですが、田中先生とは、私の人生の恩人(電通をやめてブラブラしていた私を拾って、救ってくれた)株式会社シナリオワークの創業者、故・岩崎さんの一周忌パーティで言葉を交わしたのが初めだったと記憶しています。昨年、ある企業の受付で、偶然ご一緒になり、ご挨拶したのが、二度目です。(私が日々、広告の仕事で通っている企業のブランド担当部長に、田中先生がヒアリングのため訪問されていたのでした。)
 リアル空間では、その程度しか言葉を交わしたことはないのですが、数年前から、Facebook上で「友だち」に なっていただいて、先生の投稿を拝見し、私の投稿にもコメントをいただく、という、Facebook上の交流では毎日のように言葉を交わしているという、いまどきな関係性に田中先生とはあります。Facebook上のやりとりのあり方というのが、私のこの『ブランド戦略論』への感想と深くリンクしてくるのです。
 私は守秘義務の関係からも、また私自身の関心の重心からも、仕事関係のつぶやき、投稿はほとんどしません。主に文学、思想、政治、スポーツ、音楽、テレビ番組などへの感想がほとんどです。そして、田中先生投稿も、硬軟とりまぜ非常に幅広い関心テーマについて投稿をされています。田中先生が、Facebook上で私の投稿に反応をいただけるのも、視野の広い、柔軟な関心からであろうと拝察しています。そして、このことこそが、この『ブランド戦略論』の最大の特質だと私は感じました。
 単に「関心の幅が広い」というのも、正確ではありません。ある年齢になってから私も特にその傾向が強くなっているのですが、狭い特定の専門分野を知りたい、極めたいという欲求よりも、「この世界全体の成り立ち」を理解したい、という欲求が日々強くなっています。死ぬ前に、世界全体について(時間空間のすべてのひろがりを、人間というものの全体を)理解したいという思いが強くなり、そういう問題意識で書かれた本に強く惹かれるようになっています。
 とはいえ、人間はある専門性を深めるように、仕事の、人生のキャリアを積むものです。その専門性が人格の一部になってきます。その専門性の方法論で世界を理解するようになっていきます。私で言えば、広告の実務で前説を書いてはプレゼンするという日々の仕事の中で、その専門性に適した「人格」が形成されています。その専門性から世界を理解するようになっていきます。
 田中先生は『ブランド戦略論』で、体系化を企図したと「序」で書かれています。「ブランド戦略」を体系的に語るということは、ブランド戦略という専門性内部で言えば、その全体を、論理的に網羅しつくそうという意図だと理解できますし、それはまさに成功されているわけですが。しかしまた。それを超える何かがこの本にあると感じました。それは、「ブランド戦略」という専門性を通して、この世界全体を理解したい、叙述したいという隠された意図、試みとしてもこの本は読める、ということです。
 私は実務家として今も細々として働いており、昨年末、ある企業から相談を受けました。さっそく、この本をお持ちして、「この本の中には、ブランド戦略を社内で立ち上げようとしたときに起きるであろう問題が完璧に網羅されています。部門間や立場によるブランドということへの定義や意義理解の違いにより、同じ「ブランド」という言葉を使っていても、話が通じないことが必ず起きますが、その症状は、この本の中でもれなく原因については解説されています」と紹介しました。ただし、その解決のための手法も、あまりに幅広く紹介されているので、抱えている課題に対して、どの手法で、具体的にどう解決するかについては、手法を割り切って絞り込む必要があります、と説明し、石田氏・阿久津氏の『コンテクストブランディング』の本も併せて紹介しました。
 この本のp163で紹介されているシュワルツの価値モデルにもあるように「博識」と「達成」というのは対極にある価値なので、体系化を極めたもの(全体をわかりきる)というものは、実務での課題解決への単純さとは相反するのです。(実務家で、この本の中から、今、自分が抱えている問題解決のための「ヒント」は得られても、その先、本当にどう解決するかは、それはまた別に、より具体的な手法を自分で探していかなければいけないのです。当然のことながら。)
 ブランド戦略を網羅的に分かり切りたい、語り切りたいという田中先生の狙いはまさに達成されていると感じましたし。さらに その先に、ブランド戦略を語りながら、この世界の構造や、人間というもののありようを理解しつくしたい、という驚くべき知的試みとしても成功していると感じました。
 個人的追記
 「交換」について語るということは、表面的には柄谷、ということですが、つまりはマルクスということだったりするわけで。最先端の脳科学認知科学の知見から、今は知的には流行遅れになりつつあるとみなされている記号論や、マルクスの視点までが、ブランド論を通じて語りなおされるというのは、読書の知的体験として大変にスリリングなものでした。
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