『R帝国』中村文則と、民主主義の限界。政治的な「バカ」問題 [広告と民主主義]

 今年の小説読み始めは中村文則の『R帝国』という、近未来ディストピア政治小説。日本版、オーウェルの『1984』というようなものだ。

 その中で、独裁国家の「党」の幹部が、政治哲学を語るところを、長いけれど、引用します。

「私はずっと思ってきた。国を豊かなまま思い通り支配するにために必要なのは、一部のエリートだけを残し、残りの国民達を無数のチンパンジーのように愚かにすることだと。・・・・我々がどこかの国を憎めと言えばキーキー憎み、さらには自分達の生活が上手くいかないのは誰かのせいだとキーキー騒ぎ、私達が何気なくあれが敵だと示せばそのフラストレーションから裏を考えることなくキーキー盛り上がってくれる存在に。」
「まず国民の大半をわかりやすく言えば馬鹿にしなければならない。もうずっと以前から、私がこの国の支配層に入る前からその動きは始まっていた。」
「まず文化全体のレベルを下げていくこと。くだらないものに人々が熱狂するくらい、文化的教養を下げていくこと。本来学歴と教養は関係ないが、たとえ高学歴な人間であったとしても、教養という言葉に虫唾が走るようにすること。馬鹿な者達が上げるネット上の大声に委縮することで、馬鹿によって社会が変わる構図はもうすでにできあがっていた。」
「そもそも正体を隠してネット上で差別や悪口を書き込むことほどみっともないことはあるまい?だがそういったことを恥ずかしげもなくできる者達がすでに大勢いるのは周知の事実だ。そういった者達が増えれば世界はどんどん愚かになる。我々が望んでいる方向に。愚かな言葉は読む側も無自覚なまま感覚として伝染するからだ。」
「0.1%のエリートに99.9%のチンパンジーが理想だが、実際には、我々はまだ20%のチンパンジーしか造りだせていない。」
「残りの50%は自分達の生活が可愛過ぎるため我々“党”を支持しているが、チンパンジーではない。そして30%ほどまともな人間がまだ残っている。だがそれでいい。20%のチンパンジーは声がでかいため、50%の人間達に影響し、まともな30%はそんな国民達と我々“党”を恐れ沈黙している。世界はつまり今、20%のチンパンジーによって動かされている。これは愉快だ。そうじゃないか?」
(世界をよく変えようと説得しようとするような本では)「世界が変わらないという決定的な証拠がある。この世界に、一体どれだけ素晴らしい芸術作品、どれだけ素晴らしい言葉がこれまでに生まれたと思う?なのに世界は未だにこの有様だ。」
「つまり人間は変わらないのだよ。それらの素晴らしい芸術作品、素晴らしい言葉達は、30%のまともな人間達を勇気づけるか、そんな彼らを0.1、2%増やす効果しかない。だが世界は残り70%により永遠に善の名のもとに戦争をし、戦争の後は少しだけ反省し少しだけ賢くなり、だがそれも時間が過ぎると忘れまた戦争をする。我々は繰り返す。リピートする。それが人類史だ。」

 引用終わり。さて。いつも思うが、僕の文章を読んでくれる人は「まともな30%」で、文化的教養への尊敬、学び続けようといういう意思を持つ人たちがほとんどなのだ。しかし、広告というのは、そういう人たちだけを相手にする仕事ではない。なかった。普通の50%の人たちに届かないとだめだ。その人たちも動かさないとダメだ。それだけでなく、政治的、教養的な意味では20%のチンパンジー化している人たち(ヘイトスピーチをしたり差別したりする人たち貧しく苦しんでいる人たちをバッシングしたりするような人たち)も、お客様である限りは動かそうとする。この「普通の50%」「さらにそれより悪質な20%」という全体構造、それを視野に入れた政治論でないと、有効性は無い。

 僕の友人の多くは、知的でリベラルな人たちが多い。本質的に保守的右翼である僕とは、意見が相違することも多いが、「文化的教養に敬意を払う」という共通の基盤があるから、意見を交換することができる。「まともな30%」の中での意見交換なわけだ。

 しかし、民主主義の現実は、「まともな(かなり高度で複雑な知的議論が可能な30%」「善良ではあるが複雑な議論を政治に関してはしない、またはできない50%」そして、「かなり政治的に愚かで悪質な態度になって権力維持に悪用されている20%」この全体構造により決まる。この社会全体を視野にいれない限り、有効な社会変革理論にはならない。正直、この「全体を見てコントロールするノウハウ」において、自民党は圧倒的に優れており、対抗勢力は、「まともな30%」にしか通じない言葉、振る舞いを続けている。何回選挙をしても負けるのはそのせいだ。

 そして、少なくとも「ふつうの50%」を動かすという技法に関して、広告屋は、いちばん真剣に、職業として取り組んでいる人たちだ。だから、民主主義をまともに働かせるには、広告屋が真剣に考える必要がある。「民主主義と広告」というこのマガジンのテーマ、問題意識は、そこをめぐる考察を重ねていきたい、ということなのだ。

 原発や憲法改正の国民投票と広告の関係について本を書き続けている本間龍氏が、元・博報堂の社員というのも、これに類する問題意識を持っているからなのは間違いない。ただし、広告=悪、電通批判、電通悪者論。そして広告は規制されるべき論なのだ。僕はそこのスタンスは賛成できない。ふだん考えない大切なことについて、なんとか普通の50%の人にも考えてほしいならば、広告屋が、広告の中で得たノウハウの限りを尽くして、それぞれの人が考え、選択できるように提供しなくてはならない。広告を規制しても、結局、50%の人はまともに情報を得ることも、それについて適切に考えることもできない。しようとしないだろうから。

 僕がそう思うのは、この前のノートで書いたグループインタビューで「普通の50%の人たち」をたくさん見てきた経験からなのだ。

 この前のノートに対し、「一般人をバカにしすぎ」という意見をくれた友人がいた。それについて、思うことを以下、書いてみたい。

 僕が33年間、広告の仕事をする間、この前のノートで説明したグループインタビューを見た量は、年間平均50グループ×6人×33年=9900人。まあだいたいこれくらいだと思う。顔の無い定量的9900人ではなくて、一人一人の顔を見て、大切にしていることや悩みを聞いて、そしていろいろな素材、コンセプトボードだったり広告案だったり新商品アイデアだったりに対するそれぞれの反応を見ての9,900人。見てきて思うのは。

 情報を一定時間のどの程度理解処理できるか、という知的能力には、当然に個人差がある。でも、グルインという場所に出席してくれている、その二時間、すべての人が、誠実に、一生懸命、問いかけに答えよう、与えられた情報を理解して、なにがしか、きちんと意見を言おうとした。

 この前のノートで言ったのは、そういう人でも、「仕事、家族、趣味関心事」以外のことについては、普段の生活では、ほとんど考えていない、ということなんだよね。

 人は、自分の仕事についてはすごく真剣に考えている。言語化していなくても、それぞれの仕事のプロであろうと、膨大な情報処理を日々している。その意味で「バカ」な人なんて、ほとんどいない。

 家族のことについても、たいていの人はすごく真剣に深く考えたり心配したり気遣ったりしていて、その意味で「バカ」な人も、ほとんどいない。

 それから、自分の趣味とか、凝っていることとかこだわっていることとか、そういうことについては、プロも顔負けていう部分を、多くの人が持っている。その意味でも「バカ」な人は少ない。

 でも、それ以外のことについて、人は、もう考える余裕がほとんどない。脳の情報処理能力も時間も、目いっぱいなんだよね。

 『R帝国』の党の人のような支配者目線で言えば、「仕事のプロであれというプレッシャーをかけて残業もたくさんさせて、そのことに人の能力時間のほとんどを使わせ」「趣味娯楽を適度に与えて、そこに残りの能力時間を使わせ切れば」「政治のことについて深く考える時間も脳の余力もなくなるから、」「高学歴で頭のいい人でも、政治的にはバカにできる」ということだと思う。

 生活が可愛過ぎる50%の普通の人、とR帝国で言われているのは、「知的能力」の話ではなく、「仕事と家族と趣味」を愛しすぎてそれで能力時間を使い切っているために、政治的にバカになっている人間のことだと思う。

 そういう僕も、2011年3月に、福島の原発事故が起きるまで、まさにこの「生活が可愛過ぎるために政治的なことを考えないというバカ」になっていた。

 そしてそこからの8年間というのは、政治的バカをやめたいと思っていろいろ勉強しなおしてはいたものの、まだ子育ても真っ最中で仕事もフルに頑張り続けなければならない中で、葛藤してもがき続けてきた8年間だったと思う。

 僕が「バカ」という言葉を使うのは、全人格的に「バカ」だという意味で使うのではない。知的能力が劣っているという意味で「バカ」だというのでもない。

 ようやく、仕事にも家族にも時間と能力を使い切らずに済むようになった。「さあて、趣味楽しみだけに使うぞ」っと思えるほど、今のこの日本、この世界はOKな状態ではない。
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グループインタビュー調査って、知っていますか?グループインタビューでわかってしまう、広告の不都合な真実。(今日は、政治、選挙の話は、ほぼ無し。) [広告と民主主義]

  僕の仕事人生で、(もともとコピーライターになろうとした僕としては全く本意ではなかったのだけれど)、結局いちばん多くの時間を費やしたのが、グループインタビューという調査を観察分析して、広告主やクリエーターにレポートをする、という仕事だった。そして、おそらく、僕の能力の適性に合っていたのだと思うが、当初は本意ではなかったものの、その面白さを感じるようになっていった。

 過去の仕事の内容については、守秘義務や、調査対象の個人情報保持の点から具体的な事例について語ることはできないけれど、どんな形の調査なのかについては、説明しても問題ないと思う。(広告業界・マーケティング業界の人には常識だと思うけれど、それ以外の読者のために、基本的なことから説明します。)

簡単に言うと、1グループ六人程度の座談会を数グループ連続して行って、観察する調査。

ある商品について、例えば
グループ1「当該商品をこの半年の間に買って、使い続けている30代 フルタイムで働いている既婚女性」
グループ2「当該商品は買わずライバル商品を愛用し続けている30代 フルタイム既婚女性。」
グループ3「購入継続(グループ1同様)で 30代 パートor専業主婦 」
グループ4「ライバル愛用(グループ2同様)で 30代 パートor専業主婦 」
全グループ共通して、「30代料理好き女性」

などというように、条件の違う数グループを作り、連続して行うことが多い。
 どんな人が、どんなふうに商品の価値を理解して、どんな風に買ったり使ったりしているかを見ていく。逆に買わない人は、何が阻害要因で買わなかったり使うのをやめたりするのかを把握する。
 商品によっては、年齢性別の違いを見たり、悩みの種類や深刻さで分けてみたり、商品を愛用している人、やめてしまった人を比較してみたり、「料理ベテラン」と「料理初心者」を比較してみたりと、課題によってグループ分けの仕方を工夫していく。

既存商品(今すでに売っている商品)の課題を発見するためだったり
新商品の開発をするためだったり
新しい広告が受けるか、効きそうかを確かめるためだったり
いろいろな目的で行われる。

 最近は、「エスノグラフィ」だの「ポストモダン」だのといった、消費者の自宅にビデオを設置させてもらって、自然な使用環境で商品がどうしようされているかを観察する「文化人類学の知見を活かしました」などという、もっと手の込んだ調査手法も進化している。

 しかし、生活スタイルや価値観から購買行動からメディア広告への評価から商品コンセプト、商品自体(デザインや味覚まで)を、一度に評価できるという意味では、グループインタビューはとても効率の良い調査手法なので、定性調査の定番としても、いまも広く行われている。

 ちなみに、定性調査というのは質的観点で課題を発見したり、検証する調査。一方、定量調査というのが何パーセントの人がどう評価する、という量的構造を把握するのは定量調査。調査というと定量調査を思い浮かべる人が多いけれど、広告の仕事をする上では、定性調査、グループインタビューの方が重要だと僕は思って仕事をしてきた。

 そのグループインタビュー、たいていの広告クリエーターは大嫌い。
「調査に集められた時には、調査対象者は、気取ってよそ行きの発言しかしないから、こんな調査は信じる価値がない」といって、調査を毛嫌いするクリエーターの人は多い。そういう、調査固有の問題点は考慮した上でこちらは分析する。調査上のバイアスを差し引いても、発見は多い。
それでも、クリエーターはグループインタビューが嫌い。なぜかというと、不愉快だから。腹が立ってしまうから。

①まずは、びっくりするほど広告というのは、見られていない、届いていない、覚えられていないということに愕然とするから。(定量調査で広告認知を取ると、結構高くでる場合でも、グループインタビューをすると、本当になかなか思い出してもらえない。)

②もし見られていたとしても、自分の作った広告の中で、商品について、広告主に、「こう伝わる」とプレゼンしたようには、伝わっていないことが、広告主の面前で明らかになってしまう。

③素人である調査対象者が、遠慮会釈もなく、「ここが嫌い」「ここが不自然」「このタレントが嫌」「狙いすぎ」などなど、言いたい放題に辛口評論家よろしくこき下ろされる。

 なので、クリエーターのほとんどは「原、グルイン、見てきて。レポートして。俺は行かないから」、と言う。(そんな中、グループインタビューに来てくれるクリエーターというのは、すごく誠実で仕事熱心。頭が下がります。)

 架空の商品で、架空のグルインを再現するとこんなかんじ。
(ほんとに架空の商品です。こんな商品、世の中にないし、このカテゴリーの仕事はしたことかありません。)

 グループインタビューでは、はじめに例えば「最近、はまっていることはなんですか」とか「同居のご家族を教えてください」みたいな話をして、リラックスしてもらいつつ、その人の人となりを把握する。

例えば調味料のインタビューだとするとーーー

「お料理で、こだわっていること、なにか、ありますか」
「ご家族の健康を気を付けているんですね」
「できるだけ自然な素材のものをとりたいのですね」
「そのこだわりのために、買ったもの、使っているものって、ありますか」と、だんだん、その商品の方に近づいていくように、話題をふっていく。

そうすると、愛用者なら「××っていうのを買いました」と、やっとテーマとなる商品について言ってくれたりする。

使用の実感、感想をいろいろ話してくれたりする中で

司会者が「そういえば、どこでその商品のことを知ったの?」と質問すると・・・
さあ、いよいよ「テレビCMで見て」と言ってくれるかなあ、と一同期待するが、相当に広告がうまく効いた場合以外は、まずなかなか出てこない。

「店頭で見かけて、なんだろうと思って」という人がほとんど。「店頭でみかけてパッケージにこう書いてあって」と、なかなか広告の話にはならない。

「TVCM」って、思い出せません?

「うーん、思い出せないなあ」

直前に何億円もかけて、大量にTV広告を出したばかりだったりすると、調査を聞いているクリエーターだけでなく、広告代理店営業の人間も冷や汗が出る。いや、広告主企業の「広告担当」と「商品担当」と「もうすこし偉い人」が一緒に調査を見ていたりすると、「広告主企業の広告担当者」も立場がない。

「あ、思い出した」、と一人が言うので

クリエーターも広告主も、やった!!と思うと

「××が出てる、あれでしょ」

最近リニューアルはしたものの、もともとロングセラー商品なので、5年も前に流した、昔のCMの話をしてくれる。しかも、他の代理店がやっていた時代のものなので、最悪だ。

 1グループ6人の参加者のうち、だれか一人が「あ、あれじゃない」と、ようやく最新作を思い出してくれる。と、他の人の中にも、「あー、あれかー、見た見た、知ってる。そうか、あれ、この商品の広告かあ」なんていう。

 そう、広告は、ものすごくヒットしたCM以外は、まあ、こうして「言われればかろうじて思い出す」くらいの届き方しかしないのだ。こうして「言われれば思い出してもらえる」のは、まあまあ成功した部類なのだ。ヒントを出しても、どうしても思い出してもらえないTVCMもけっこうある。

 司会者「じゃあ、そのTVCM、一回、見もらいましょうか」
座談会室にセットしてあるTVで、そのTVCMを一回だけ見てもらう。

「あー、これだあ。」「この××っていうタレントさんが好き」「この△△っていうのが耳に残るのよね」って、一回見せると、すごく盛り上がるのに、ヒントなしだと、最近見たばかりでも、なかなかTVCMというのは思い出してもらえないのだ。

ふと気づくと、一人だけ、全然反応しない人がいる。「○○さんは、見たことないのかしら」と聞くと

「あたし、テレビは観ません」なんていう人もいれば、最近だと「見たいドラマを録画して、TVCMは飛ばしてしまうので、TVCMは最近、見ていない」なんていう人もいる。

司会者「さて、じゃあ、今、見てもらったTVCMで、印象に残っていること、覚えていることを挙げてもらえるかしら」

タレントさんが何をしていた、どんな音楽がかかっていた、食べ物がおいしそうだった、。決め台詞で「なんとか」と言っていた。おお、いいところまできたぞ、と思っていると

「あのタレントのあのしぐさが気に食わないわざとらしい」というネガティブな意見が。おお、ネガティブなことも言っていいんだ、とその場の雰囲気が変わってしまう。
「食べ方がさ、なんかいや」
「△△なんて、ほんとは料理しないぽくない?」
「ほんとだったら、××さんが食べてくれたら、もっといいのにねー」
いかん、タレントへの不満が出てきてしまった。本当はタレントの適合度は重要な情報なのだが、タレントはそう簡単に変えることできない(年間契約でまだまだ契約期間が長かったり、いろいろな事情がある。)から、不満が出ても、困ってしまうことが多い。

司会者が「商品については、どんなことが分かった?」とすこし話を戻そうとすると

「まろやかな味」っていうこと。

うん。そう。まろやかなんだね。良かった。伝わっていた。

「自然のだしが濃いから、塩分0でも、味がまろやかで味わい深くて体にやさしい」という伝えたいことのうち、「味がまろやか」だけが伝わったようだ。

司会「ところでね、本当は、この商品、こういういいところがあるのだけれど、どう思う」と、言いたいことを全部書いたボード(コンセプトボードという)を見せると、

健康を気にしているから、ここがいいとか、味だけの話じゃなかったんだ、とか、自然のだしなのね、といろいろ納得してくれる。「こんなにいいところがあるなら、TVCMでも、ちゃんと言ってくれればいいのにー。」「そうよね、そうしたら、買うわよねー」と、なぜかちゃんと言ってくれていないTVCMに文句がどんどん出てくる。

「じゃあ、もう一回、さっきのTVCM見てみましょうか」と見せると

「あれ、ボードに書いてあったこと、全部、ちゃんと言っているわねえ。」

「塩分、ゼローって言ってるわね」「ゼロポーズまでしてる」「だから味もまろやかよー」ってね。言ってるじゃない。「自然のだし」って大きく文字がでてくるわねー。「その下に昆布とカツオがひらひらしているわね」

「なあんだ、全部、ちゃんと言ってるじゃない。全然わからなかった、家で見ているときは。」

TVCMっていうのは、これくらいしか伝わらないものなのです。

お茶の間でテレビを見ている人の、情報処理能力というのは、これくらいのものなのです。

こういうことと33年間、戦ってきたのが、僕の仕事人生でした。

CM総研CMINDEX調査によると、毎月、流れているTVCMの種類は4000作品くらい。そのうち、3000人のモニターのうち、たった一人でも「印象に残った」「好き」といって、思い出して書いてもらえるTVCMは1300本くらい。1/3だけ。

残りの2/3、2700本は、反応0。思い出してもらえない。定量調査で言うと、これがTVCMの現実なのです。

何億円も使って、大量に放送しても、びっくりするほどほとんど覚えていてもらえない。見てもらえても、伝えたいことのうちの、残るのはごくわずかな「印象」だけ。本当に伝えたいことのうち、ひとつだけでも残れば大成功。好感度の高い、契約料も高いタレントさんを使っても、嫌いだ、商品に合わない、という意見が出てくることは避けられない。

 商品のTVCMでもこうなのですから、政治についてのTVCMなんて、もっと何倍も難易度が高い。出演者(おそらくは党首さん)の、印象を「嫌い」にしないように出せただけで大成功。「何を言っていたか」具体的政策内容を残すことなど不可能。党首さん印象をよくさせられる「一言」をどう作れるか、作れたら本当に大成功だと思います。



補足

読んでくださったクリエーターの方から、「一般人をバカにしすぎ」というコメントをFacebookでもらいました。「これから作る表現について、一般の人にも参加してもらってワークショップをする方が有意義だ。できてしまった表現についてグルインで評価を聞いても仕方がない」と。なるほど、と思い、その方に返信した内容をつけておきます。

一般人をバカにしているのではなく、一般人の能力や時間の取り合いを、他の4000本のTVCMと、それだけではなく、スマホなど他の画面の情報やその他もろもろのものと取り合いをしていて、お茶の間では、まず、取れない、という事実について述べているのです。「世の中の人の、脳の中の情報処理能力と時間の奪い合い」が、広告産業の本質です。ワークショップという場なら、一定時間、一般の人の脳の情報処理能力を独占できるのだから、有意義なのは当たり前です。グルインの場でコンセプトボードを見せるという「時間と能力の独占」も同様です。
 これだけ人の脳の情報処理能力と時間が激しく奪い合われている状態で、政治的複雑な課題が入り込む隙間はあるのか、と続く話の枕と理解してもらえるといいかと。与党側戦略としては、むしろ「隙間が無くて、考えない人が増えた方が好都合」ということですから、抵抗勢力側がいかに不利か、と話は続くわけです。



 


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試乗もしないで、クルマを買う人 [広告と民主主義]

年明けからnoteも始めてみたのだけれど。ブログの方にも転載して保存しておきます。

スーパーで、日々の食品を買うとき。ベテラン主婦ならば、どこに何が売っているかは分かっていて、どれを選ぶかもほぼ決まっていて、その棚に近づくと、さっと値段を確認して(いつもより高いか安いか)、高いとやめたり、安いとまとめ買いをしたりするかを瞬時に判断していく。賞味期限を確認したり、周辺に気になる何かがないかをちらと眺めつつ、ひとつの商品を買うための判断に要する時間は5秒くらい。足を止めることもなくカートを押して店内をいつものルートで回りながら「5秒の、瞬間的に高度な選択行動」を続けていく。

 そんな「高度高速情報処理をするお買い物マシン」であるベテラン主婦に、選択肢に入っていない他商品や新商品を買わせるのは、きわめて難しい。

 新商品ならば、視界に入ってくる「何か見かけないが気になるもの=新商品かも」「それが私がわざわざ手に取る価値があるかどうか考えさせる」というチャンスもまだある。

 しかし昔からある商品で、すでに見慣れた風景・背景になってしまっている「買われない他社商品」に、再度買われるようになるチャンスは、ほとんどない。

 お酢で言えば、ミツカン。醤油で言えばキッコーマン。そういう定番かつ圧倒的トップシェアの「ふつうの商品」を買う習慣がついてしまっている人が、わざわざ二番手三番手の「普通の商品」にスイッチする意味はほとんどない。特売がかかって極端に安くなったときくらいしかチャンスはない。

 そもそもお酢について、醤油について、納豆について、たまごについて、人は、生活の中で、どれだけの時間、考えると思う?
 「冷蔵庫にある」「減ってきた」「そろそろ買わなきゃ」以外の、商品の質だとか、機能だとか、成分とか製法とか、そういうすこし「深いこと」を、人はどれだけ考えるか。そう、ほとんど、考えない。良く知っている、おそらくいちばんよく売れている、食べなれた味の、いままで特に問題なかった商品を、売り場への「5秒間」だけ考えて、そして、いつものものを買っていく。

 話が飛ぶが、こんなふうに、選挙の投票をする人が、かなりの比率いるんじゃないのかしら?特に何も考えず、「選挙にはいかなきゃね」と投票所に向かい(そこは真面目だったりする)、地元の選挙区の候補が、いつもの顔ぶれだ、と確認し、いつも投票する候補者に入れる。候補者が変わっていても、いつもの政党に入れる。

 いつもテレビで見る、いちばん売れている、いちばん多数派の、政党にいれておけば間違いない。今の生活に、それほど大きな問題はないから。

こういうと、「地方の、年配の人」の話だと思うかもしれないが、実は、都市部の、20代の、投票には行く真面目な人たちでも、この「一番よく知っている、今の多数派の、特に問題ない今の状況を作ってくれている(就職状況も悪くない)、与党に投票する」人が多いことが確認されている。

 と言われると、「いやーそんなことないよ。もっとちゃんと考えている」という人も多いかしら。選挙の投票は、100円200円の食料品を買うほど気軽な選択じゃないよ。少なくとも自分は違うよ。ちゃんと考えている。

 じゃあ、200万円、300万円する、自動車を買うときくらいは、考えたり、検討したりする?20万円の大型テレビやドラム式洗濯機を買うくらいは、比較したり検討したりする?

 ホームページで性能や機能をチェックする。自動車雑誌を読む。口コミサイトで乗っている人の評価をチェックする。その程度のことは、クルマを買うならする。クルマを買うときにする程度の情報収集や分析は、選挙への投票にあたってする。本当に、する?

 そもそもクルマを買うときにさえ、人は、ものをあんまり考えなくなっている。車の購買行動については、もう25年も調査し続けているけれど。メーカーの人もびっくり、事前によく調べもしない、ディーラーに行っても試乗もしないで、他社とも比較もせず、クルマを買ってしまう人が結構いる。増えている。

 スーパーでの食品を買うくらいの情報量で、クルマを買ってしまう人が増えている。いや、好き嫌いはもうすこしあるから、「服を買うくらいの感覚的な好き嫌いで」という方が正しいかもしれない。

 ディーラーの前を通りかかって、なんとなくふらっと入って、色が気に入ったので買いました。

 メーカーの開発の人がこだわっている、安全性も走りの性能も、燃費やなんやかんやも関係なし。デザインが気に入って、特に色が良かった。いまどき、どんな車でも性能にそんなに差はないし。

 クルマを、服を買うくらい感覚的な好き嫌いで選ぶ人が増えている。それと同じくらい、感覚的好き嫌いで、選挙の投票をする人が増えているのではないの。

 そして、クルマを買わない若者が増えているのと同様に、若者は選挙に行きもしない。クルマを買わないから、クルマのことなど知らないし考えない。それと同じくらい、政治のことなど、考えない。

 さてさて、今回がこのマガジンの初回ということで、僕の問題意識をここで一旦まとめておきたい。

 今年は参院選がある。衆参同時選挙の可能性もある。その結果によっては改憲発議から国民投票という流れもありうる。
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