文学中年的、考えすぎ的、 ブログトップ
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映画『ジュリエッタ』と小説『ジュリエット』。どちらを先に。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ノーベル賞作家、カナダのアリス・マンローの『ジュリエット』という短編集の中の、連作となっているものを、スペインの映画監督(『オール・アバウト・マイ・マザー』の)ペドロ・アルモドバルが、舞台をスペインに移して映画化したのが『ジュリエッタ』。映画の方から観てしまった。
 小説・本の方のAmazonの内容紹介が(すごいネタバレあり、注意)「海で死んだ夫。突然姿を消した二十歳の娘。届かない互いの思いを描く連作短篇を巨匠アルモドバル監督が映画化! ジュリエットという一人の女を主人公に、行きずりの出会い、妊娠と結婚、夫の死、そして母娘の愛と確執を描く連作三篇を中心に、人生の不可解をそのまま投げだすような、ビターでサスペンスフルなマンロー円熟期 の短篇集。傑作揃いのマンロー作品のなかでも特筆すべき連作を、長年の愛読者であるアルモドバルがつい に映画化。」と、なぜか半分、映画の紹介のようになっている。本の方、読んでいる途中で、本をなくしてしまって(家の中で行方不明)、どうしようかなあ、と思っていて。そうしたら、WOWOWで映画をやっていたので録画してしまい。小説読みかけなのに、映画を見るべきか見ざるべきか悩んでいたのだが、見てしまった。面白かった。作家がすごいのか、監督がすごいのか、というと、どっちもすごかった。
 女性の心理描写のすごさがアリスマンローの小説の特徴というか、男性作家では、もう、絶対無理という感じがするんだよな。映画だとポンポンとテンポよく筋が進んでしまって、たくさんいる女性登場人物たちそれぞれについては、わりとサラっと描かれてしまうのだけれど、これ、小説だと、それぞれの人生の重みからくる、微妙な心理の動きが、なんか読んでいていちいち動揺してしまうくらいの感じで表現されていきます。ということで、読みかけの小説の方をなんとかしたくなったのだが。しかし。映画の冒頭でのセリフに「本の二度買いはしたくないのよ」というのがあり。そうなんだよな。いろいろ悩む。
 映画の方も、女性を描かせたら世界一というか、女性を描く映画しか撮っていないんじゃないのというアルモドロ監督で、この監督の映画の女優さん、とにかく美人。すさまじい美人。そういえば、ペネロペ・クルスが国際的に有名になったのは「オール・アバウト・マイマザー」だった。(この映画には出ていません)。若き日のジャリエッタを演じるアドリアーノ・ウガルデもきれいだけれど、現在の、50代かな、のジュリエッタを演じるエマ・スアレスさんのきれいなこと、まあ。あと、家の中の装飾とか美術とかの色彩が、とてもきれいな映画です。
 カナダの小説を、スペイン舞台に移したために???になっているのが、主人公と夫が出会う長距離列車が、雪原の中を走り、窓からヘラジカが並走しているのを見る、というシーン。スペインにこんな大雪原はあるの?ピレネー山脈ふもとならあるのかな・でもヘラジカはいないんじゃないの。あれ、ヘラジカじゃないのかな。あんな大きいシカ、スペインにいるのかな。まあ、気にしなくてもいいけれど。



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『ホモ・デウス』と、アルゴリズム内蔵家電、ネオレスト君・ホットクック君・ルンバ君 [文学中年的、考えすぎ的、]

 家をリフォームして(妻が仕事に復帰して5年が経ち、家事の主担当が私になったので、私が家事をしやすいようにと、妻がリフォームをしてくれて、というのが正確な事情)、トイレがTOTOネオレスト最新型になった。トイレに入るたびにフタが自動でばかーんと開いて、用を足す前に汚れがつきにくいように、水がシャワっと噴霧される。用を足して立ち上がると、数秒後、自動で水を流し(座っていた時間で大か小かも自動で判断する。)、そのあとにウォシュレットのノズル部分を自動でシャパシャバと洗い、最後にきれい除菌水でノズルも便器も除菌する。あまりにおりこうさんなので、トイレに入るたびに、「おはよー」とか「こんばんわ」とかトイレに挨拶してしまう。なんといっても、ほとんどトイレ掃除をする必要がなくなった。(あ、もちろんときどきトイレクイックルでサラーとは拭くけど。ほとんど汚れてない。)
 
 リフォーム前後で妻が家の不要物整理をバッサリしてくれたおかげで、これまで床の上に散乱していたものがだいぶなくなった。ので、今まで「走る場所無いよね」と諦めていた自動掃除機ルンバを導入した。これが、もう、すごい。毎日13時になると、一人で掃除を始めてくれる。ダイニングテーブルの下にも器用に入って、椅子の足いっぽんずつのまわりも丁寧に掃除してくれる。階段からも落ちないし、もぐりこめないソファーの下も、なんとか掃除しようと体当たりし続けてくける。予想をはるかに上回る丁寧さと完璧主義的動作で掃除するだけではない。お掃除した後、お掃除したエリアの地図を自動作成してスマホに報告してくれる。地図は、私が部屋の間取りを入力したわけではなく、自動で掃除したエリアを地図にして報告するのである。完璧な議事録を自動作成してくれる優秀なスタッフ、みたいな感じである。妻も私も、「ルンバ君」と呼んで、もう愛してしまっている。
 
 調理家具も、シャープのヘルシオ・ホットクックという自動調理・圧力電気鍋みたいなものを導入した。食材を切って並べて、調味料をいれて、ふたをして、料理メニューを選択して、スタートボタンを押すと、料理ができる。内ブタに、「自動かきまぜ棒」的なアタッチメントがついているのと、料理種類によって、加熱時間や加熱強度を細かに設定してあるので、見事に作る。最後にひと手間必要な時も、音声で指示してくれる。例えばクリームシューのときは、できあがり5分前に「食材をとうにゅうしてください。」(牛乳を200ccc加える)と、ペッパー君的な声で指示してくれる。「もうすぐ出来上がりですよ」的なことも、かわいい声で言ってくれる。カレー、シチュー、鶏肉のカシューナッツ炒め、里芋の煮っころがしを作った(食材を気って並べたのは、私ではなく、妻ですが)が、今のところ全く失敗がない。あまりに失敗しないので、初め、妻はなんとなくご機嫌斜めだった。調味料を入れる順番とか、細かな下ごしらえとか、何十年も工夫学習してきた微妙な料理のノウハウを全部無視して「食材を切って調味料入れてスイッチオン」だけで、そこそこまあまあ文句ない料理になるのでは、私の今までの料理にかけてきた人生の時間をどうしてくれる、みたいに感じたようだった。妻はルンバ君とネオレスト君のことはすぐに溺愛するようになったが、ホットクック君のことを愛するには少し時間がかかった。いや、当初は少し憎んでいたように感じられた。「これで料理すると、コンロ周りが汚れなくていいいよね」という美点に気が付いて、ようやくかわいく思えてきたようだった。

 最近読んだ、話題のベストセラー『ホモ・デウス』ユヴァル・ノア・ハラリ著 では、人間というものは、あるいは、(生き物全般そうだが、)生命活動というのは、アルゴリズムであって、意識というのも、つまるところ生存のための行動選択をするためのアルゴリズムだという。上で述べた、最新の家電製品たちは、かなり高度なアルゴリズムを内蔵している。「トイレを清潔に保つ」とか「床を清掃する」とか「料理を作る」という特定の目的に対しては、(少なくとも素人の)人間を上回るアルゴリズムが内臓されている。もちろん、現段階ではそのアルゴリズムは、誰か人間がブログラミングしたものだが、近い将来、(囲碁ソフトなんかはすでにそうなっているが、)アルゴリズム自体を自己生成するようにAIは進化する。目的の設定だけ人間がすると、解決実行の手段はAIが勝手に作り出すようになる。

 今回、言いたかったのは、アルゴリズムを内蔵した家電製品に対して、私や妻は、「人格あるものに対するような態度や感情を持ってしまう」という発見についてなのだ。ヘルシオホットクックのようにしゃべるものだけではなく、無言でアルゴリズムによって複雑にふるまうネオレストに対しても、挨拶してしまったり、愛したりする、ルンバ君がエラーを起こして迷子になると、本当に子供が迷子になった時のように心配して、大声で「ルンバくーん、どこー」と家じゅう探し回ったりする。ヘルシオがあまりに上手に料理すると、嫉妬や憎しみさえ抱いたりする。

 アルゴリズム内蔵家電に対して、人格的に反応してしまうということは、やはり、「生命や意識の本質というのはアルゴリズムだ」という、ハラリ氏の言うことは、本当なのかもしれんなあ。そんなこと思いました。

 そういえば、ちょうど1年前に読んだ神林長平著『フォマルハウトの三つの燭台』という小説が、意識を持った家電たちとのトラブルをめぐるSFだった。読んだときはかなり先の未来のSF、絵空事だと思っていたけれど、もうすぐ、現実になりそうな気がしてきました。「自意識はもたなくても、アルゴリズムが高度化するだけで、人間側が勝手に機械・家電機器を人格として扱うようになる」という事態は、すでに世の中で広く起き始めているに違いない。
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CCSの圧入地点深度は3000m、地震の震源は37キロ、水平距離的にも20キロくらい離れている、だからデマなのか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

CCSと苫小牧地震の関連について、真面目な人たちが
「胆振東部地震北海道大地震を人為だと言っているモノへ
CCSは地下3000mで行うものです。
地下3000mには泥の層が有るのみで、断層はありません。
都市伝説を信じるのはやめましょう。
今回の地震は地下30kmが震源と発表されたのを思い出しましょう。」
「2〜3kmと37kmじゃ全然違うし、その間に泥岩の遮蔽層まであるのに、どうやってCO2が浸透すんねん!しかも気体が液体と混合したからってすぐさま地下に向かうんか!地球物理学なめんなよ!!アホ抜かしやがって!!」
とツイートして、デマ、都市伝説だ、と警告するツイートをしていますが、
さらに真面目な私は、五年前に警告していた石井昭氏の著書
『「地震学」と「火山学」―ここが間違っている 「地震」も「火山」も「マグマ」が引き起こす爆発だ! 』単行本 – 2014/12/17石田 昭 (著)をAmazonでポチって、すでに読んでみたのである。(もう何冊か注文したが、まだ来ていない。)
 地下で圧がかかった地下水は、上から押されるとトコロテン式に移動するので、注入する地点そのものが震源になるわけではない。というのが著者の理論。長岡市のCCSは1100m、わずか1キロのところに注入して、震源の深さは、中越地震が深さ13キロ、中越沖地震が深さ17キロ、水平距離でも20キロ離れた地点で地震が起きています。
 秋田雄勝の実験場と、宮城岩手内陸地震の震源の距離も27キロ離れています。
CCSを進めている「RITE(地球環境産業技術研究機構)」の責任者と著者は直接議論していますが、担当者は、圧入している層は不透過層(気体も液体も通さない)に上下を挟まれているので、地下水をトコロテン式に押ない、という立場をとっており、だから安全という主張ですが、筆者は、注入したCO2に対して、回収率される地下水の量が少ない=回収率が低いことから、どこかにトコロテン式に深部まで圧がかかって地下水が移動していく、と考えています。
 そして、「海外ではCCSは安全」というのは、火山国でないところでは、地下マグマの深度が十分深いので、地下に圧がかかって移動した水が、解離(水素・酸素に分離イオン化)するリスクが低いが、日本のような火山国では、たいてい活火山がすぐ近くにあり(苫小牧ではすぐ近くに樽前山がある。)解離水爆発が生じやすい、ということです。

 著者はまた、「断層に水がしみ込むから地震が起きる」などと主張しているのではなく、これは因果関係が逆だと主張しています。解離ガス爆発で地震が起きた結果として断層が生じる、という主張です。(爆発の方向により、断層の種類が変わる)。よって「地下3000mに断層なんて無いから、デマ」という反論は、まるでピント外れ、ということになります。

 くりかえしになりますが、科学的正しさについては、私には分からないです。が、状況証拠的に、CCS実験をした付近で、実験開始から1~4年程度の間に、加速度が非常に大きい地震がもれなく生じている。 (岩手宮城内陸地震は4022ガルでギネス記録に認定されたそうです。中越も中越沖も、苫小牧の地震も、1500ガル前後という加速度。ちなみに阪神淡路大地震が800ガル程度。) ということを考えると、メカニズムがすべてこの著者の言う通りかどうかはわからないが、なんらかの因果関係を疑って、CSS事業は一度見直す、いったん停止するのが良いというのが、私の意見です。
実験地点と震源地の距離や深さ関係も、深さ、水平距離とも20~30キロ程度離れているパターンのようなので、これは、地下水の解離は、注入地点から、その程度の距離までトコロテン式におされたところで起きる、ということのようです。
 むきになって否定する人は、「メカニズム、因果関係が解明されていない」ことと、「因果関係が無いこと」の区別がついていないようで、その方が非科学的態度です。相手の主張や、共通の現象を調べもしらないで、自分の狭い知識や先入観で、「都市伝説」「デマ」と決めつける態度、原発推進派の、原発事故直後の「ストロンチウムやプルトニウムは重たいから飛ばない」を思い出させますね。(後に横浜の中学校屋上で福島由来のストロンチウムが高濃度で発見されている。)
 セシウムボールと原発事故直後の鼻血、内部被ばくの関係も、事故後何年もたってからわかってきたことで、当時は薄らバカな放射線専門家や医師たちが、「福島事故程度の放射性物質の拡散と線量で鼻血なんか出るわけがない(骨髄造血作用被爆影響からの鼻血しか連想できなかった)と」と、鼻血が出たことを不安視した人たちの声をデマ扱いしたことを思い出させます。
 追記
直接利害関係ないのに、いきなり信じる人も、いきなりデマだと決めつける人も、おんなじくらいおバカだと思う。調べる学習する、科学的議論だけでなく、賛成反対の人の、政治的経済的利害関係を読む。それから、学会の主導権争い、権威主義というようなことも、考慮に入れた方が良い。学会傍流であるがゆえに、一部真実を含んでいるのに弾圧されて、社会にとっては不利益になること、がよく起きる。(医学の世界での丸山ワクチンとか)、 そうした検討の後に、態度を決めた方が良い。経験的に「視野の狭い理系専門家」は、たいていいきなりデマだと否定する。それから、現政権や経済界と利益を共通にする人も、「デマ」と否定する。反政権的傾向を持つ人は、割と信じやすい。しかし、結局、こういうことは「科学的真実は、当分はわからない」。その議論をしている間も。事態は進む。やるべきことは「態度を決める」こと。科学的真実はわからないけれど、「やめた方がいいんじゃないか」というのが僕の今のところの判断かな。もう少し考える。

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米朝会談「中止⇒再開」の流れの中で、安倍さんは本当に「蚊帳の外」だったのか。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ツイッターから。「澤田愛子 @aiko33151709 NHKの報道番組で安倍べったり政治部岩田明子がとんでもない「解説」をしたと。急速に進む朝鮮半島の平和と対話路線。米朝首脳会談も実現の見通し。これを岩田氏は扇の要に安倍氏を置いて安倍首相の功績だと宣伝した模様。安倍氏が蚊帳の外である事は今晩BBCも報道。こんな嘘は視聴者への詐欺になる。」
 この岩田解説員という人は、おそらくNHKの解説員史上、最低の政権べったり丸出し解説員なわけですが。解説内容もむごいですが、(記者→解説員なのでアナウンサーのようにしゃべれないのは仕方ないとして)、日本語としての話し方が、美しくない、聞き苦しい。前の文章の末尾語尾の母音を伸ばして次の文頭につなげてしまう。頭よさそうに聞こえるとでも思っているなら、直してほしい。聞き苦しいだけ。

 それはさておき、米朝会談の「中止→再開」の流れの中で、安倍さんの果たした役割というのは、ニュースの流れをきちんと見ていれば、この岩田さんが言うような「全部、安倍さんの手柄、影で安倍さんが動いたおかげ」であるはずもないわけですが、一方、野党や批判メディアが言うような「完全な蚊帳の外」でもないことは想像ができる。以下、長くなるが僕の考えを書いておきます。長いです。

 まず、安倍さんの政治的立場の特徴としての、「戦後政治家史上、最も露骨に戦争経済を推進する人」(軍事産業の輸出産業化をしたい人)である、という点から確認。そのうえで、(本当は国産化、国内軍事関連企業を助けたいなら、アメリカの軍事産業からの輸入には抵抗したらよさそうなものなのだが)、アメリカに対して媚を売る手段として、アメリカからの武器購入をどんどん推進する人である、という点も押さえておく。というわけで、安倍政権がしっぽを振っている「アメリカ」というのは、アメリカの中でも「戦争経済を推進するネオコン勢力」とのつながりが強い。ここまで確認。

 ここで問題なのは、トランプ大統領は、大統領選→政権発足当初は戦争経済・ネオコン勢力とは仲が悪かった、ということ。「アメリカ・ファースト」という内向き政策は、世界の警察やーめた、路線であったわけで、戦争経済屋にとっては、都合が悪い。実は民主党政権というのは、歴史を見てみても、わりとよく戦争をするので、ヒラリーが勝ってくれた方がありがたい。ということで、ヒラリーが勝つことを前提に、日米とも戦争経済屋は動いていた。のに、トランプが勝っちゃった、というのがいろいろな混乱のもとになっている。

 日本の外務省も安倍政権も、ヒラリーにしっぽふる気まんまんでいたのに、(そういう発言を選挙前にしてしまっていたのに)、トランプが勝っちゃってパニックになり、一転、世界にさきがけでトランプにしっぽふりに行ったというのが、トランプタワー訪問だった。

 政権発足後、紆余曲折あった中で、現国務長官マイク・ポンペオと、大統領補佐官ジョン・ボルトンと、右派戦争経済屋勢力が要職について、トランプと戦争経済屋の融和問題も、なんとか落ち着いたように見えたが、今、この二人、ポンペオとボルトンの立場が異なることが鮮明になったのが、この「米朝会談中止→一転再開」の事件だと思われる。

 端的に言うと、ポンペオは右派の中でも「現実主義者」で、ボルトンは「原理主義者」的傾向が強い。この二人の、対北朝鮮をめぐる主張の対立は、ポンペオは「段階的非核化でいい。とりあえず会談をして、前に進めたい」なのに対し、ボルトンは」CVID=検証可能で不可逆的な非核化をすぐやらないんであれば、戦争するぞ、」だ。

 ここで思い出してほしいのは、トランプは初め、「とにかく米朝会談をやろう」と言っていたのに、安倍さん訪米時の共同記者会見で「CVID」に言及した、ということ。トランプ大統領に「北朝鮮と非核化を話し合うならCVIDを呑ませないとダメだ」と吹き込んだのは安倍さん、日本だということは間違いない。そして、それを吹き込む協力相手は、おそらく、ボルトンさんだったのだろうということ。一時、その日本の工作が奏功したのは事実なのだと思う。

 トランプさんのこの態度変更で、北朝鮮も中国も、米朝階段に後ろ向きになる。梯子を外されたポンペオは立場がなくなる。調子にのってボルトン氏は米朝会談に逆向きな発言を繰り返す。北朝鮮としても、せっかく作った核をそう簡単に手放すことはできないわけで、どれだけたくさんの条件をアメリカから引き出せるか、じっくり時間をかけて交渉をしたいので、ボルトンの立場は容認できなかった。ので北朝鮮も過激な発言を繰り返すようになる。

 というわけで、(日本が頼る)ボルトン主導なら、北朝鮮は会談しないぞ、となり、トランプも書簡で、一度は「やめとこうか」となった。
 しかしポンペオの巻き返しで、トランプも「このままでは外交的成果ゼロになってしまいまずい」と判断。最終的にポンペオの敷いた路線でやっぱり会談はしよう、となった。

 ここ数日の、日本だけが浮いちゃっている状態と言うのは、(小野寺防衛相の「北朝鮮は信じるな」発言が、総スカン食っていることや、トランプが「最大限の圧力、もういいたくない」発言)、ポンペオ、ボルトンの、この件における主導権争いで、ポンペオが勝ったということ。そして、ボルトンに頼って「CVID、強硬路線」を主張した日本が、梯子を外されて、本当に孤立したということ。

 日本がこのプロセス全体の中で「ずっと蚊帳の外」だったという野党、批判メディアの主張もまちがっているけれど、「安倍さんの手柄」という与党、御用メディアの主張も全く的外れ。というのはこういうこと。

 私は国際政治や外交の専門家では当然ないのだが、ニュースをきちんと見聞きしていれば、この程度のことは普通、わかると思う。メディアは日大アメフトにさく時間があったら、こういうことをちゃんと伝えた方が良いと思います。
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ガルシア・マルケス『百年の孤独』 我が家のウルスラのリフォーム計画とともに発見される。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ガルシア・マルケス『百年の孤独』、今、売っている本より、装丁がかっこいいでしょう。33995359_1802130029852314_646007671668867072_n.jpg妻が、近々、家をリフォームをする計画をしていて、「本棚を、整理せよ」指令が出て、一生懸命片づけをしていたら、2004年に買ったこの本を発見して、読みました。
 この前のオーウェルの『1984』もそうだったけれど、ものすごく有名な小説で、買ったはいいものの、読みにくくて、ちょっとだけ読んでそのまんま未読、(なのになんとなく読んだふり)という本がものすごくたくさんあって、そういう本を、ちゃんと読もうモードに今、入っています。この本、「死ぬまでに読むべき小説ベスト100」とか、「世界のベスト小説ランキング」で、だれが選んでもたいてい、間違いなくトップ10にはいっている、トップ3入りもけっこうある、ものすごく有名な小説なのですが、買った当時は、なんだか読みづらかった。しかし、今、読んで、よかった。今、人生のこの時期、この年齢になってから読んだから、本当に面白かった。もう死ぬかと思うくらい面白かった。
 物書き修行をしている長男が、何年か前に借りていって、読み終わって返してくれる時に、「父ちゃん、絶対、読むべき。ウルスラウルスラ」と謎の呪文を唱えていたのも納得いった。コロンビアの奥地、19世紀前半から20世紀前半にまたがる100年以上にわたって、ある架空の村を築いた一族の、7代にわたる歴史が、現実と不思議、政治と愛と性と、錬金術と文学と、もうあらゆる要素が混然一体となって、いつまでもその中に浸って読み続けたくなる、見事な文体でつづられていきます。
 普通、文学論的には、この作品はマジックリアリズム(現実にあるものと、現実ではないものが融合して描かれる芸術形態)の、文学における代表作、と言われるのだけれど。今、読んで、本当によかったと思うのは・・・。ウルスラっていうのは、その一族の、いちばんはじめのお母さん、一族の始祖、太母グレートマザーのような人なんだけれど、読んでいると、どうしても妻に似ている、妻を思い浮かべざるを得ない。長男が「ウルスラウルスラ」と呪文を唱えていたのも、「母ちゃんだあ母ちゃんだあ」と思って読んだからだと思うのだよな。で、マジックリアリズムっていうのは現実に存在しない、死者が家の中をうろうろ普通にしていたり、その女の人が歩き回ると、やたらと子供が生まれたり家畜が増えたり木々が茂ったりという、そんな巫女とか地母神にしか起こせないようなことがどんどん普通に起きてしまうのだけれど、実は、うちの妻というのは、存在自体がマジックリアリズムなのだよね、おそろしい話だけれど。具体的に書くと私や妻の頭がおかしいと思われそうなので、細かくは書かないけれど。「現実と非現実の共存」が、我が家ではある種の常態なので、この作品の世界観というのは、私や長男にとっては、ものすごく「あ、これ、知ってる」という感覚があったのですよ。
 そして、この一族の男性の、繰り返し何代にもわたり同じ名前で現れる男の子供たち、行動的で破天荒なアルカディオ、内向的で、政治的や文学やさまざま活動しても内向的で繊細なアウレリャノ、そうした登場人物に、私自身や、私の男子たちを重ねてしまう。家族の物語というのは、サリンジャーのグラース家サーガ連作でもそうだけれど、どうしても他人事とは思えないのだよなあ。たとえ、南米の、想像もつかないほど異なる文化伝統の中を生きている一族家族の物語だとしても。
 ウルスラ以外の、多くの女性たちも、それぞれ際立って個性的で、「こんな極端な人など普通はいない」と思うと同時に「女性の本質のある部分が極端化した存在だからこそ、誰かにすごく似ている」と思わせる、魅力的な人物だらけ。
 この一族が暮らす屋敷は、100年の歴史の中で、何度も、リフォームを施されながら、家族の歴史の舞台になっていく。我が家のウルスラが企てたリフォームを機会に、この本が発見されたのも、何かの因縁かもしれないなあ、と思いながら、ここ一週間ほど、この傑作を楽しんだのでした。

 リフォーム計画を立てていると、妻がリフォーム屋さんに「我が家の大黒柱だけは、そのまま残してくださいね。これは夫が、ときどきこの柱に抱き着いて、家と一体化しては心を癒す柱なので。」大黒柱.jpgとお願いしていました。これもね、この本を読むと、ウルスラの夫、初代ホセ・アルカディオが、晩年、自らの意志で、庭の木と一体化する人になっていくというのと、ものすごく似ているのですよ。本当にね、家族と、家と、そういうものの歴史ということの蓄積というものをある程度実感できるこの年齢になってから読んだのが、本当によかったなあ。大江健三郎の後期作品群も、あきらかにこの小説に触発されたものだったんだ、と改めて納得した次第。それくらい、影響力というか伝染力というか、力の強い作品でした。
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歴史的な一日に考えたこと その1 [文学中年的、考えすぎ的、]

 「韓国、北朝鮮」という、ひとつの民族の、分断国家統一の悲願という、情緒的側面で見るならば、両首脳の態度表情や言葉には嘘は無い、韓国民の反応を見るに、この一日というのが、「歴史的一日」であったことは間違いないと思う。(そのことにまで否定的態度を取るのは、分断の原因を作った日本の国民、政治家やメディアの態度としてよろしくないと思う。)
その一方での、国際政治の冷徹な現実から考えると、最終的には米朝会談で、CVID「完全、検証可能、不可逆的な方法による核・ミサイルの廃棄」(Complete, Verifiable and Irreversible Dismantlement)を北朝鮮が呑むかどうか、呑まないと思われるので、そのとき関係各国がどう動くかまで見届けないと、評価は難しい。CVIDというのは、平たく言うと、「核開発、核保有が疑われる国に対し、核廃棄させる際、IAEAによるひと通りの査察がすんだ後も「まだどこかに核を隠し持っているはずだ。あそこが怪しい。こっちも怪しい」と無限に査察を要求する」(田中宇氏「米朝会談で北の核廃棄と在韓米軍撤退に向かう」より一部変更して引用)こと。イラクのフセインはこれをやられた後に、いちゃもんをつけられて米国に攻撃されて政権打倒された。カダフィはそうなるのが嫌で、CVIDを受け入れ、米国との関係を修復して政権維持をいったんは手に入れたが、アラブの春の余波で国内の反対勢力により倒された。
 北朝鮮、金正恩は、フセインにもカダフィにもならないためには、CVIDを受け入れないで、非核化をCVIDほどの厳密さでは行わせないけれど、いちおうポーズだけ取るあたりで納めて、隠して核保有を続けるのではないか、と見られている。トランプ、米国も、「まあ、そこを厳密にすると事がうまく運ばないから、形の上での核査察、一部核ミサイルの廃棄」あたりで手を打とう、と考えていたのではないか。そんな中、CVIDを執拗に強硬に要求しているのは、実は、日本の安倍政権である。先の日米首脳会談後の成果として、「CVID」をやるとアメリカに言わせている。(それが唯一最大の成果であろう。)
 「CVID」と「在韓米軍撤退」という最も難易度の高いふたつの実現、それをめぐる交渉カードとして米国側からは、経済支援、北朝鮮側からは拉致されている米国市民の解放というカードが使われる。日本がそこにどう絡んでくるかというと、「拉致されている米国市民の解放」の話が出た時に、「日本人の解放の話も一緒にしてね」とお願いをすること。それと引き換えに、米国が約束する経済支援を、日本がそのかなりの部分を一緒に負担する、というお財布になる、ということなのである。
ここで、韓国が「在韓米軍の撤退」と「CVID」をどう考えているか。これが正直、よくわからない。現在の韓国の安全保障視点と、「統一の実現」への道筋という視点と、「統一後にどの陣営の、どのような国になるか(米中ロとの政治的距離と、核保有国になるかどうか)」という視点で、答えがいくつもありそうなのである。
 政治的には中国に近い核保有国、民主政体と資本主義を維持した国家として統一する。東アジアの政治軍事バランスの中で「大国・強国」となるにはそれがいちばん。という選択肢が有力なのではないかと思うので、「在韓米軍は撤退、核は一部残して南北で共同管理」というのが、本当は韓国も望んでいることなのではないか、などという邪推もしてしまうのである。(この前紹介した韓国映画は、この筋立てに近かった。)

ちなみにその映画はこちら
ツイッターから。「@h_hyonee
核実験の中止が発表されたタイミングでアップされました。激動する情勢とシンクロした興味深い作品かと。見るなら南北首脳会談を前にした今!拙稿が参考になれば幸いです。 『鋼鉄の雨』は韓国版『シン・ゴジラ』か? 韓国映画に通底する“未完の近代”としての自画像」
http://realsound.jp/movie/2018/04/post-182974.html

というわけで、ここから私の感想。Netflixで、今、見ました、この映画。北の軍と党の関係とか、南北と中国の関係、韓国から見ての日米同盟とか、日本のことをどう見ているか、とか、いろいろ新鮮というか、なるほどというか。「シン・ゴジラ」に例えられるということは、韓国の人から見ても、全くのフィクションとはいえ、なにがしかの真実を感じる内容なのかと。純粋にエンターテイメントとしても良くできていました。
 
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介護人工子宮アイデアについて。NHKスペシャル人体で、タモリさんが子宮に入ったのを見て考えたこと。 [文学中年的、考えすぎ的、]

Facebookで書いたもの転載します。そもそもは、日経新聞の『16年の出生数、初の100万人割れ 出産適齢期の人口減 』という記事を読んで考えたこと。

時々、暴論シリーズ。思考実験だから、非常識なことを書きます。
 
団塊世代以降の、これから介護が必要になっていく近未来・老人世代は、人間に介護してもらうのをあきらめた方がいい。だって、介護を必要とする人数の方が、介護に従事できる人間より、ずっと多くなるんだから。
 それに、これから生まれてくる未来有為な人たちのほとんどを介護産業に従事させるわけにいかないでしょう。この前生まれたうちの孫を、私や私の妻や、その他老人たちを介護するためだけの人生にしたいか、というと、全然したくない。今、介護職に就いている人を誹謗中傷するつもりは全くなく、そこに本当に生きがいを感じてやってくださっている方には感謝するけれど。今、自分の老親や妻、夫を介護している方のこと、その介護の日々の中で、感じていらっしゃる様々な思いや感情を軽んじるつもりは全くないれど。しかしやはり、老人の介護というのは、社会全体の仕組みでも、個人の人生の中でみても、いろいろな意味の負担が重すぎる難しい仕事だと思う。
 これから貧しくなる日本に、外国人労働者を介護分野に来てもらおうと思ったって、誰も、どこの国からも来てくれないですよ。外国人労働者に頼るという発想もNG。
 そうしたら、人間に介護してもらわなくていいような技術を、今後10年以内に開発する必要がある。「介護ロボット」よりも、何かもうすこし大胆な発想の「介護テクノロジー」を。
 うちの奥さんは、自分が介護が必要な老人になった後は「トイレに住みたい」と言っている。(この前書いたように、妻はリハビリ科医師、患者さんのほとんどはかなりの高齢。週一回は、リハビリ科に勤務する前に、初めに勤務した、寝たきり老人多数の内科病院に勤務。高齢者、寝たきりの患者さんの様々な状態をお医者さんとして診てきた。その経験から思うことのようだ)。病院にも、病院に来る医療機器メーカーの人にもいつも言っているみたいだが、「トイレと風呂とベッドが一体になったようなもの」「体位転換や入浴、排泄が人間の介助なしで行えるようなもの」があれば、その方が自分が介護される側になった時にも、体も心理的にも楽だ。と言っている。
 排泄と食事と入浴が介護なしでできなくなった状態は、生理的側面で言うと、乳児状態に退行していくこと。ただし乳児と違うって厄介なのが)①赤ちゃんよりサイズがでかい。排泄物も量も多いし臭いし。風呂に入れるのも大変。服を着せかえるのも大変。床ずれ防止に体位を変えるのも大変。介護労働者はみんな腰を痛める。なので、寝たきりの人の栄養管理をする場合、体重が増えすぎないようにしないといけない。、②頭脳、知性、人格、記憶が、基本スタートラインが大人成人。そこから、知性・人格のどの部分がどれだけ退行しているか、していくかは人により大きく違う。(言い方を変えると、どういうめんどくさい老人になるかは人によって違う)③その「退行しつつも保持されている人格と知性」、プライドやできるはず、できないことが悲しい腹立たしいという気持ちについて、本人も葛藤するし、その葛藤を、介護する人にぶつけると摩擦が起きる。(介護する人にとっても、される人にとっても難しい問題)④意識が無い、喋れない、意思疎通コミュニケーションが取れない場合、介護する人は「赤ちゃんだと、だんだん成長し人間になっていく」希望を感じられるが、「人間的反応がない、コミュニケーションが取れない、回復の見込みがない」存在を世話し続けることに、意味を見出せずに精神的に追い詰められる人も出てきてしまう。(③と④は原因は異なるけれど、介護施設でときおり起きる虐待や、ひどい場合殺人事件の原因となる。川崎での介護士による投げ落とし殺人事件は③、老人ではないけれど、相模原の養護施設での大量殺人は、④が犯行動機の中心と思われる。)
 この暴論を書こうと思ったのは、実は、昨日のNHKスペシャル人体の、「赤ちゃん」の回。大きなサイズの子宮の模型を作って、そこに、胎盤とそこから伸びたへその緒をつけたタモリさんに入ってもらう、という演出をしていた。
 食事、排泄、入浴すべてにフルに介護が必要になった人が住む空間、妻が「トイレに住みたい」と言っている空間というのは、つまり「胎児が胎盤をつけてお母さんの子宮に収まっている状態」というのを、寝たきり老人向けに人工的に作ってあげるということなんじゃないのかな。と思ったわけ。タモリさんは、「なんか落ち着く」「子宮バーっていうのを作って、チューってウイスキーが吸えればもっといい」なんて言っていたけれど。羊水に浮いている状態、排泄の心配がない状態、栄養摂取が心配ない状態、そして映像デバイスが視聴覚か脳神経に直結していて、読書とか音楽を聴くとかテレビや映画を見るとかが、いつでも自由にできる。羊水内で弾ける楽器とか、羊水内でも絵が描けるとか、そういう技術も並行して開発する。
 胎児って、お母さんが音楽を聴けば、一緒に暴れるし、お母さんの声は聞こえるし。寝たきり状態になったら、胎児状態になって外界とぼんやりとコミュニケーションしながら、だんだん意識が覚醒している状態よりうつらうつらと寝ている、夢見ている時間が長くなって、老衰で死ぬっていうふうになれないかなあ。人工子宮に入って、そこから奥さんとコミュニケーション取ったら、なんとなく、奥さんの子宮にはいったみたいで、安心なんじゃないかなあ。他人に押し付ける気はないけれど、僕はそれがいいなあ。時間をゆっくりかけた安楽死、のようでもあるけれど。西部邁氏も、自分で自裁死しようとしても、体が不自由になった、誰かに手助けしてもらわなければ実行できず、その誰かを「自殺ほう助罪」に巻き込んでしまうという悲劇になりそうでしょう。そういうことなく、できるだけ人の手を煩わせずに赤ちゃんに戻って、死ねないかなあ。
 もう、あとはどうやって死ぬか、だけだもん、僕の人生でほんとうに重要なこと。
(追記 ここで書いた人工子宮回帰が、今いろいろ問題になっている「胃ろう」の発展形なんではないか、という感じもしてくる。胃ろう問題を「胃ろうをやめる」方向で解決するのではなく、「老人にとって幸せ、生きている満足、QOLが増大する方向に大幅進化させる、という発想なのかも、と思う。)
↓子宮に入ったタモリさんはこちら。まさに、トイレに住んでいるように見えません?
タモリさん子宮.jpg 追記2 Facebook上友人にも、今、リアルタイムで親御さんを介護している人もたくさんいるし、大変な介護を体験してきた方もたくさんいるし、中学同級生友人には、つい最近、介護士の資格をとって介護の仕事を始めた人もいる。現場でリアルに今、介護の真っただ中にいる方たちからご批判くるのでは、とは思いつつ書きました。何より一番身近な、たくさんの、何十人の担当老人入院患者を抱えている妻から、今朝一読後、いろいろ「現実はこういうこともこういうこともこういうこともある、単純すぎる、甘い」という厳しい意見たくさんもらったのですが、それでもあえてブログにアップしたのは。  あらゆることに対する僕のスタンスが、(コンサルタントって、現場の人の声は聴いたり、視察したりするけれど、その会社の人ではない、という立場だから自由に考えられることを自由に考える、ということなので、) 今、当事者でないがゆえの暴論の中に、何か、今は現実的ではないけれど、もうすこし先の、解決へのヒントはないか、誰か、トイレメーカーの人でも、医療機器開発の人でも、ばかばかしいと思わずに、読んでくれる人が出てこないかなあ、と思って、書きました。
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読書感想 『本物の読書家』 乗代 雄介 (著) [文学中年的、考えすぎ的、]

『本物の読書家』 乗代 雄介 (著)

Amazon内容紹介(って、本の帯に印刷されている内容なのだな。)
「書物への耽溺、言葉の探求、読むことへの畏怖。
群像新人文学賞受賞作『十七八より』で瞠目のデビューを遂げた、新鋭にして究極の読書家、待望の新刊!
傑作中編2作品を収録。
老人ホームに向かう独り身の大叔父に同行しての数時間の旅。大叔父には川端康成からの手紙を持っているという噂があった。同じ車両に乗り合わせた謎の男に、私の心は掻き乱されていく。大変な読書家らしい男にのせられ、大叔父が明かした驚くべき秘密とは。――「本物の読書家」
なりゆきで入った「先生」のゼミで、私は美少女・間村季那と知り合う。サリンジャー、フローベール、宮沢賢治らを巡る先生の文学講義、季那との関係、そして先生には奇妙な噂が……。たくらみに満ちた引用のコラージュとストーリーが交錯する意欲作。――「未熟な同感者」

ここから僕の感想。
昨年末、いくつかの新聞の「今年の文学振り返り」特集で、何人かの選者のベスト3に入っていたので買ってみたのですが、いやまあ、びっくり。大傑作でした。とはいえ、文学や読書を「趣味や娯楽、あるいはなにかの教訓やら感動を得るためのもの」と思う人には全く無縁の、何が書いてあるか理解不能な本に違いない。叙述の半分以上は、小説を書く、読むということに対する文学論的思弁です。それをつなげ合わせながら、小説内の出来事、筋立てを、ドラマチックに組み立てていく、という、稀有な、新しいアプローチをモノにしています。
 物書き修行中の長男と、保坂和志の小説について論ずることがときどきあります。私は、保坂の小説は何も事が起こらないから、退屈で嫌いだ、というと、息子は、現代の純文学の小説はそのような方向に向かっているのだ、その面白さがわからないのは文学が読めていないのだ、と私を批判するわけですが。この乗代雄介という著書は、保坂的な文学的思弁と日々の生活の単調な組み合わせだけでは終わらせず、そこにスリリングな事件の展開を織り込むという曲芸的離れ業を持ち込んでいます。一作ならともかく、この本に収録されている二編ともに、その試みに成功している、というのは、ただものではありません。
 文学に、読書に、人生を絡めとられた人にとっては、身もだえするような内容であること間違いありません。死にそうになりながら、あっという間に読んでしまいました。それにしても、このタイミングで、こういう本に出会ってしまうというのは。

http://amzn.asia/9Llbzye
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少子化について、年末年始、大暴論を考えてみた。 [文学中年的、考えすぎ的、]

年末年始に見たり聞いたり読んだりしたことをきっかけに、少子化についての「暴論」を書いてみたいな、と思ったので書いてみる。年末年始の真面目な政策論争とかドキュメンタリーとかニュース解説の番組でも少子化をどう止めるかがずいぶん論じられていたけれど、そこで語られていたように常識的な対処では全然止まりそうもない。ので、これは自覚的に、常識人が言わないようなことを書いた暴論です。だから、常識的な、誰でもいいそうな批判は勘弁してほしい。そこは読者の知性とセンスに期待をしたい。広告やマーケティング関係の友達が多いから、これはブレーンストーミングの「拡散フェイズ」の、頭を柔らかくして視野を広げるための意見だと思って読んでほしい。(ブレストの拡散フェイズではネガティブチェック的常識的批判はいったん我慢、がルールですよね。)
 もうひとつ、僕自身は六人の子供を育てた子だくさんお父さんだが、SNSの友達には、子供なしの人のほうが多い。このテーマで文章を書くと、友達の人生にいちゃもんをつけているようになりがちなので、あんまり触れないようにしていた。でも、やっぱり日本の少子化問題は、日本社会の価値観とか制度変更とかの欠点やミスが積み重なった結果としての大問題だと思うので、どうしても論じる必要があると思う。これは、これから大人になる若い人たちが、どうやったら国から強制されたりするのではなく、子供をたくさん持てるようになるかなあ、ということを考えたので、子供を持たなかった友人のみなさんを批判しようという意図で書かれたわけではありません。そこのところも、分かってほしいです。


 きっかけ1
この年末年始、一昨年の人気ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」の一挙再放送が、地上波TBSとCSのTBS1でそれぞれあって、全部ではないけれど、けっこうがっつり見てしまった。その中に、朝まで生テレビのパロディで少子化対策、子育てについてみくりちゃん(ガッキー)がお母さんや兄嫁や友人と議論する、というのがあって、みくりちゃんが「高校生のときのほうが時間があって育児しやすいから、高校で子供を産んで高校に託児室を作って、休み時間に授乳をすれば」っというアイデアを出していた。そうなんだよな、本当にそうだ、と思った。
  きっかけ2
今年の新成人、まだかろうじて120万人はいる。昨年末のニュースで昨年の出生数は99万人。これはやばい。この120万人の新成人全員、むりやりくっつけてカップルにすると60万組。ここから人口増やそうとすると、その60万組が全部3人子供を作っても180万人。全員は結婚しないとすると、結婚したカップルは4人、子供作ってもらわないとダメだな。四人子供を持てるようにするにはどうしたらいいだろう。
 きっかけ3
 昨日、全然別のテーマで文章を書いていた時(国立大学の文系学部縮小がいかに間違いであるか、というテーマだつた。)、人間には「生物学的動物」「経済的動物」「社会的政治的動物」「文化的動物」としての側面があり、それらを総合的多面的に考えられるように教育しないと、少子化問題だって解決できない、と書いて、そうだな、生物学的動物としての側面で考えるというのが足りていないんじゃないか。と思った。
 きっかけ4
成人の日にオンエアされた18FESという音楽番組。全国のいろいろな思いを持つ千人の18歳の若者、彼らのためにWANIMAが新しい楽曲を作って、彼らと共演する。(コーラスとブラスセクションを千人の若者たちが演奏する。ちなみに去年はワンオクロックだった。)その参加者の中に、18歳の男の子なんだけど、「妻がWANIMAが好きで、今妻が妊娠中でおなかが大きくて」ってインタビューに答えている子がいた。ヤンキーとかそういう感じではなくて、すごく真面目そうな、18歳のときの僕のような男の子。なんか、お前、えらいなって思った。18歳で妻が妊娠中って堂々としている。
 きっかけ5 から、なし崩しに本題を論じていきます。
 昨年から読み続けているフランスの小説『ある島の可能性』ミシェル・ウェルベック著。この人の小説を人にあまりお勧めできないのが、主人公がものすごく下種で、若くて美人でいいカラダしていないと女じゃない、的な価値観をもっていて、そして、セックス描写がものすごく露骨で下品。この小説だけじゃなく、今まで読んだ『服従』も『地図と領土』でもそうだったような記憶が。(本人名誉のためにいちおう説明すると、どの作品も政治や社会に対するものすごく深い洞察と問題提起をしているのが、この人の小説の本質で、だから現代フランス文学を代表する作家なんだけど。フランスの村上春樹、くらいの人気があると思ってもらって間違いない。)なのに、とにかくセックス描写が露骨で下品。この小説家自身の女性観、セックス観がそうなんじゃないかと思う。しかし、この人の小説、フランスでは特に問題なく受け入れられている。日本ではこんな女性観、セックス描写の小説は女性に全く受けないと思うんだよな。しかしフランスでは大人気作家ということは、フランス人的にこのお下劣セックス描写はきっと「あり」なんだよな。そういえば、フランスって先進国の中では少子化対策が一番うまくいっているんだよな。たいていの真面目な解説では、非正規婚での子どもも全く差別されなず支援される制度とか、子育て支援策の充実なんかが要因と分析されるんだけど、セックスに対するお下劣な本能肯定、という「セックス活動度の高さ」がフランスにはあるんではないか、と思った。つまり、日本だと、夫婦でもセックスレスの人が半分くらいいて、そもそも交際相手がいない単身者がたくさんいて、日常生活の中にセックスがごく自然にある人の比率っていうのが、フランス人と比べるとすごく低いんじゃないだろうか。だから、セックスの本質であるお下劣で本能的で動物的な部分を小説でダイレクトに描くと、日本では、日常的にそういうことをしていない人たちは、拒絶反応を起こすのだろう。小説でも、その辺、お上品に上手に描ける村上春樹(の小説って、実は主人公、ものすごく高頻度にいろんな相手とセックスしまくっているんだけど、そうとは感じさせない上品で素敵でかわいらしい描写をするんだよね。村上春樹作品の主人公、やっていることはウェルベックの主人公に勝るとも劣らぬセックス活動家なのだが、誰もそう思わない。ノルウェィの森が映画化されたとき、原作に忠実に主人公の性生活を描いたら、「原作はこんなに下品にセックスだらけじゃなーい」って女性ファンから不評だったんだけど、あれって原作に極めて忠実なんだけどね。)村上春樹はセックスを無害にきれいに描く天才だから、日本で人気なんだろう。。
 少子化を解決するには、子供を作らなくちゃいけないわけだけど、子供を作るにはセックスをたくさん国民がするようにならないといけないんだよね。というすごく本質的にことを考えたわけだ。
 脱線ついでに、少子化問題を論じようとすると、すぐに「子供が持ちたくても子供ができない人のことを考えたことがあるのか」という突っ込みが入るのが今どきの定番なのだけれど、不妊の問題がこれだけ大きくなっているのは、そもそも「子供を作ろう」と考え始める年齢が高くなっているのが最大の原因のひとつなのは、自明だよね。正常な妊娠をする確率は年齢とともに低くなるから、昔も今も35歳以上は高齢出産と医学的にはなっているわけで。正常にどんどん妊娠できちゃう10代後半から20代前半の人たちが、社会的には「学生だからまだ結婚しちゃだめ、もちろん子供作っちゃダメ」だったり「結婚してもまずは仕事のキャリアを」というのが当たり前だという風になっているのが、少子化のそもそもの原因なのは当然のことだよね。高齢化以外の疾患疾病原因での不妊は、少子化問題が起きる前からずっとあった問題なわけで、(男性のおたふくかぜでの無精子症とか、女性の子宮や卵巣の異常とかは)、少子化問題を論じているときに、「そういう人への配慮」を理由に議論の邪魔をしようとする人の意図、というのが、僕には皆目わからない。
 一子目の出産年齢が高くなれば二人目三人目を持とうとする人、生物学的にできる人が少なくなるから、必然的に子供人数は減る。
 少子化を止めようとしたら、できるだけ若い年齢から子供を産み始めて、できるだけ長い年数、子供を産み続けられる社会通念と、それを後押しするための社会制度を作らなければいけないっていうのは、自明のこと。みくりちゃんの言う、高校で出産して、高校に託児室っていうのは、その視点からは極めてまっとうなアイデアだということがわかってもらえたでしょうか。
 それから、高齢になってから子供を作ろうとするカップルにおいては、「子供を作るためにセックスをする」という、おそろしく不自然なセックス動機と行為が常態になるカップルが結構いるでしょう。これが人類の歴史上、いかに不自然かっていうのは、みなさんわかっていただけるでしょうか。
 高校生のカップルがセックスするとき、そんなこと考えるバカは一人もいないでしょう。セックスするとき、子供を作ろうなんて考えない方が人間という動物としては自然なんだよね、当然。性に興味があって、恋愛に興味があって、目の前に好みの女の子がいて、それが恋なのか愛なのか性欲なのか、そこは定かに分離していない状態で、そこはゴムしなきゃだめでしょうと理性が言っても、その理性の声はどこか遠くで微かに聞こえるだけで、そんなことより、興奮と感動とであれれれれ、中ででてしまった、という結果、子供っていうのは『できてしまう」のが人類の歴史の中では、はるかに自然であって。もうすでに愛も性欲もさほどなくなった状態で、「子供が欲しい」という目的のためにセックスをするなどということは、人類史上、すごく不自然なことです。どうしても跡取りを作らなければいけない殿様くらいしか、そんなこと考えなかったんではないでしょうか。
 本来は「恋と愛と性欲」が未分離の若い情熱、「若く情熱的な夫婦愛と性欲」が自然に両立鼎立している10代後半から20代のうちに、ポコポコっと三人四人の子供を作ってしまい、それは作るのではなく、愛と情熱の、パッションの結果として「できてしまう」のであり、そうやって出来てしまう子供を、若い二人だけではなく、まわりのみんなで寄ってたかって育てていく、という社会システムを目指すべき。(人類の歴史、人類社会の9割以上は、そういうシステムだった。)
そうすれば今年の新成人だって四人五人と子供がいるの当たり前になり、少子化問題は30年後、シンギュラリティの時代くらいにはかなり改善すると思います。
 ここで社会制度的に配慮すべきことはふたつあって、ひとつは若くして子供を持つカップルのうち、子育てがうまくできなくて、子育てを放棄したり、虐待したりしてしまう人たちがかなりの割合出てくることへの対処をするということ。二つ目は、若くしてたくさん子供を持つことの負担を女性にだけ荷重に負担をかけないシステムを作るということ。
 「若い奴らは(若すぎる僕は、私は)まだ能力もないし無責任で子育てできないから、ちゃんとした大人になってから子供は作らなければいけない」という一見非常にもっともらしい考え方こそが、少子化の元凶なんだ、というのがこの論の中心。「まだ仕事で一人前じゃないから、結婚はまだ、子供はまだ」って男女ともに言っているから初婚年齢も出産年齢もどんどん上がるので、この、一見もっともらしい価値観を社会全体で、全力でぶっこわさない限りは少子化なんて絶対止まらない。
 未熟でも、見た目も精神的にも子供みたいでも、子育てをすることで人は一人前になる、というのが、まず第一。おそらく若い奴らでも八割は、こういう風にがんばって大人になれると思う。
 脱落して育児放棄しちゃう二割と、その子供を不幸にしない社会制度を作ることが必要。端的に言うと、30歳以下で出産子育てする人にはベーシックインカムを夫婦+子供分支給。その代わり、基本、子供は「社会の子供」として、0歳時から保育園で無償で一日の半分は見る。その間、若い親二人は学業または職業教育を受けられる。その過程で育児放棄や虐待の兆候が把握されたときは、行政が介入して、里親、養子縁組までを大々的に行う。若い時に子供を持ち損ねた少子化元凶世代の養子里親化も公的大規模に支援する。
 30歳前に4人出産を終え、育児を続けている人の特典がいろいろある社会にする。例えば、選挙でドメイン制度を採用する。(子供の数分の選挙権が親に与えられる制度で、ドイツで何度か採用が検討されたことがある。。) ベーシックインカム支給が子供も満額支給されるようにし、子供の数が多いほうが明らかに生活が楽、にする。(里親養子は一人で二人分、という制度にすることで、里親養子縁組が強く促進される。)
高学歴で高齢化した人を、医療費をかけてなんとか高度医療で妊娠させよう、という制度は、どう考えても不合理だと思う。(すでに不妊治療への年齢上限は議論されているし、制度化されているんじゃなかったっけ。)過渡期的にはそうした人たちへの支援もきちんと行うべきだとは思うが。
 より「人類」の本性に自然なのは
①若くて恋愛と性欲が一体化している若いうちに子供を作ることを支援、奨励する。
②未熟な若い両親が、子育てとともに一人前の大人に育つ社会システムを構築する。(社会が、みんなで子育てをする。)
③そうやって30歳までに4人の子育てをした人が、政治的権利や経済的支援をより手厚く受けるシステムを構築する。
④子供ができない、できにくい人が不利にならないことと、若く未熟な両親の何割かが育児に失敗すること、両者をつないで救済する、里親、養子システム、養子を差別しない社会規範、里親を称賛する社会風潮を後押しする。
⑤正規雇用的職業上のキャリアは四人の子供を持った30歳を正規キャリアの標準的スタートとする。
⑥スポーツ選手や、理科系の天才的才能を持つ人など、10代20代から職業キャリアを優先すべき人は、特殊な天才として、別ルートは作っておく。

本来はいつ結婚し、いつ子供を持ち、あるいは持たないかは個人の自由であることは、私も百も承知です。しかし、「職業上の能力、キャリアとして一人前にならなければ子供を持つべきでない」という社会規範が、きわめてきつく形成されてしまったことが、今の日本社会の少子化問題の根っこにあると私は考えます。「団塊ジュニアが就職氷河期で正規雇用に着けない人が多かったから」「低所得だから結婚も子供を持つこともできなかった」という分析が、年末年始のニュース解説的番組でさんざんされていましたが、非正規だろうと低所得だろうと、愛と性欲で子供を作って、ベーシックインカムもらえれば、子供をどんどん作るメリットが、非正規雇用の人にこそできるでしょう。雇用機会均等法以降、女性の社会進出で、出産育児によりキャリアを中断するのが女性に特に不利だから、出産を断念したり、一子目を持つのが高齢になったり、二人目を断念した人がたくさんいたのは本当のことでしょう。そうだとしたら、男性も含め、キャリアのスタートは子だくさんの30歳からにそろえてしまえばいいでしょう。その代わり定年はどうせ70歳まで伸びるのですから。働くのは60歳過ぎてもできます。大学で勉強するのも60歳になったってできますが、自然に妊娠できるのは、18歳から30歳までが、生物としていちばん向いているのですから、その年齢で産むことが、いちばん得になるように、社会制度を設計しなおすしかないでしょう。生物学的動物の人間に対して、いちばん自然な社会制度を作りましょう。
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文学の価値を現政権の皆さんは当然まったく分かっていないということを、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞への反応を見て思う。 [文学中年的、考えすぎ的、]

(カズオイシグロの小説についてのネタバレありですので、これから読む予定のある方はご注意を。))


 閣僚のほとんどが日本会議に属し、戦前の価値観への回帰を目指し、戦時中の軍部の侵略に伴う非道な行いをなかったことにしようとする歴史修正主義的現政権が、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心からお祝い」などできるのだろうか。できるとしたら、誰も作品を読んでいないからだろう。(読んでいたとしても、読めていないのであろう。)
 デビュー作の『遠い山並みの光』それに次ぐ『浮世の画家』、そして出世作の『日の名残り』の共通設定を、まず理解していないのだろう。三作とも、戦前戦中に、戦争を推進する側に、意識無意識は別にして加担した側の初老の主人公が、戦後、大きく価値観が変わった社会の中で、自分の人生の意味(間違いだったのか、意味がなかったのか、いや、そんなことは、という葛藤)を描く、というものだ。文学だから、単純に「間違いだった」とばっさり切り捨てるのでもない。しかし、一生をかけてやってきたこと、生きてきた価値観が崩れ去ったものは、もう元には戻らないことの痛切さ、悲哀を描く小説なのだ。
 「戦前の美しい日本の価値観を取り戻す」ことを掲げる安倍政権、日本会議の皆さんに、もし文学を受け止める読解力があったなら、カズオ・イシグロの小説についてコメントをすることなどできないと思うのだが。
 最新作の『忘れられた巨人』は、なおさらである。隣り合った民族同士の殺し合いの歴史を、「仲良く暮らし続けるためなら忘れてしまったほうが幸福なのか」「しかし忘れて生きるということは、正しいことなのか、可能なことなのか」という問いをめぐる小説である。中世のイギリスを舞台にしているものの、明らかに、近隣の国、民族で残虐な戦争や殺し合いがあった、その記憶を持つすべての人に向けて書かれている。その中に、当然、日本の、明治から先の大戦までの記憶も含まれている。慰安婦問題や中国での残虐行為の「有無や事実」について、できればなかったことにしよう、あったとしてもできるだけ小さく記憶しようとし続ける現政権、日本会議の人たちに、まともな文学読解力があったならば、『忘れられた巨人』を書いたカズオ・イシグロのノーベル賞受賞を「心から祝福」などはできないと思うのだが。
 現政権の人たちが厚顔無恥にもカズオイシグロのノーベル賞受賞に「心から祝福」とコメントできてしまうというのは、そもそも文学の価値というものが分からない、小説、文学を読むという習慣もない無教養な人たちの集まりだからなんだろうな、と思うのである。
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