玉置浩二「GOLD」とカズオ・イシグロ『忘れらた巨人』。老夫婦の愛について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

昨夜、玉置浩二のシンフォニックコンサート 上野 東京文化会館に、妻と聞きに行って。

 カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』という小説は、英国、円卓の騎士の時代を舞台に、主人公老夫婦が、行方不明になった息子を探しに、おそらくは人生最後になるであろう覚悟をして、二人で旅に出る話です。
玉置浩二さんの「GOLD」という歌もまた、老夫婦(おそらくは玉置浩二青田典子夫人)が、人生の最後の旅に旅立つ情景を描いた、この上もなく美しい曲です。

 というわけで、私は『忘れられた巨人』を読むと、「GOLD」が頭に流れ、「GOLD」を聴くと、『忘れられた巨人』のラストシーンの情景が頭の中に浮かび上がるのです。このふたつは、私の頭の中で深く結びついています。

 ある明け方、私は、ベッドの中でひそかにスマホのYouTubeで、玉置浩二さんのライブでの「GOLD」を聴きながら、感極まって一人でボロボロと泣いていると、妻が気がついて起きてしまい、「どうしたの?」というので、
 『忘れられた巨人』のあらすじを話して聞かせたうえで、「GOLD」を再生して、妻に聴かせました。すると、まあ、素直な妻は
「玉置さん、きっと、その小説を読んで、それでこの曲、書いたんだよねえ」と、そんなわけないやん、という感想を宣いました。しかし、妻がそう思うくらい、この小説とこの曲は、人生最後の旅に出る老夫婦の愛について、同じ情景、同じ情緒が、深く深く描かれた美しい作品なのです。

 その日、仕事から帰ってきた妻に、『忘れられた巨人』を、私の説明のあらすじではなく、最後の章だけでも、小説そのものを読んだ方がいいよ、と本を、ではなく、kindleの入ったパソコン画面を差し出すと、

 これまた素直な妻は、静かに読み始めるか、と思いきや
子供に本を読み聞かせるように、音読をし始めました。
「いや、眠いから、黙読していると寝ちゃいそうだから」
ということで、妻は、『忘れられた巨人』最終章を、まるまる、音読して、私に読み聞かせてくれました。私は、何度も何度もその部分は読んでいるのですが、妻に読み聞かせてもらうと、これはまた違う気持ちがするもので、胸がつぶれるような感動を覚えたのでした。

 昨日、上野の東京文化会館で、玉置浩二さんと東京フィルハーモニー交響楽団(指揮円光寺雅彦)のシンフォニックコンサートがあり、妻と二人で出かけました。
 この形式のコンサートはもう妻と一緒に4回目なので、目玉となる曲はだいたい予想がついていて、後半に代表曲を畳みかける展開になるのはわかっていたのですが、前半、どのような立ち上がり方をするかの予備知識はなく、コンサートは始まりました。
 コンサート、冒頭から三曲目(一曲目はオーケストラのみでしたので、玉置さん歌った二曲目)に、(私にとっては)不意打ちのように「GOLD」が始まりました。ここ最近、カズオ・イシグロについてずっと考えていた中で、妻と二人で出かけたコンサートで、生で聞く「GOLD」は、予想以上に深く私の心を揺さぶりました。玉置さんの歌声は、私の中の深い部分を直撃して、目を開けたまま涙がとめどなく流れ出し、からだが、ガタガタと、(誇張でなくガタガタと)震えだして、「どうしよう、まだ二曲目なのに、」と、自分のあまりの感動・反応の激しさに動揺していました。

 ところが。
「GOLD」が終わり、次の曲が始まると、妻が、急に「エヘン虫」に襲われたらしく、小さな声で咳をし始め、止まらなくなりました。
 玉置浩二さんのコンサートは、観客年齢が高く、だいたい私たち夫婦くらいの年齢が多く、さらにそうした年齢の娘が、80代とおぼしき母親を連れてくる、というパターンのお客さんもけっこういて、コンサート前には「補聴器のハウリング注意」アナウンスが何度も流れるし、曲前には「エヘン虫」にやられて咳こむ老人がたくさんいて、「高齢者が多いとしょうがないよねえ」と思っていたのが、なんと、わが妻が「エヘン虫」にやられて周囲にご迷惑!!と、私もすっかり動転してしまいました。が、妻はバッグからのど飴かガムかを、なんとかひっぱりだし口に入れて、静かになりました。

 この妻のエヘン虫騒動で、さきほどの「GOLD」での「身体に変調をきたすほどの異常な感動」は、どこかにすっ飛んで行き、そこからは、いつものように、「玉置さんの調子はどうかな、PAのバランスはどうかな、指揮者と玉置さんの関係はどうかな、」というようなことも観察しながら、コンサートを楽しむことになりました。もちろん、素晴らしいコンサートでした。

聴きどころ、盛り上がった曲が多数あるコンサートでしたが、「GOLD」にあそこまで感動したのは、数千人いた観客の中でも、私だけだったのではないかなあ、と思います。

 コンサート後は、ファンクラブ抽選に外れたときの予備のために一般予約でとっておいた三階席の券を、大学院生の娘とその友人に譲って、聴きに来てもらっていたので、彼女たちと一緒に上野で食事をする約束をしていました。上野公園から駅反対側に渡る歩道の上から、出待ちのファンの中を玉置さん夫婦の乗ったバンが出ていくのが見えました。空には、舞台の書割のような巨大な満月がかかっていて、GOLDの感動がまた蘇ってきました。

玉置さんの「GOLD」とカズオ・イシグロの『忘れられた巨人』、どちらか一方だけしか知らない方、もう片方を、ちらとでも覗いてみてください。
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『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版 メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳)を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

『書記バートルビー/漂流船』 (光文社古典新訳文庫) Kindle版
メルヴィル (著), 牧野 有通 (翻訳)

 しむちょーん、読んだよー。
読書人生の師匠先達、しむちょんが教えてくれた、メルヴィルの中編小説二つを収めた本です。実は僕、『白鯨』を読んでいないのだ。初メルヴィルです。

 『書記バートルビー』は、法律事務所を営む語り手が雇った、謎の書記との交流を描いた小説。『漂流船』は、アザラシの毛皮貿易をするアメリカ船の船長が、チリ沿岸の小島沖で、遭難しかけたスペインの奴隷貿易船を救助しようとした顛末を描いたもの。状況は、著しく異なるが、基本的に同じテーマをめぐって書かれている。

 いやー、面白かった。①他者は、まずは理解不能である。これら小説においては、特に理解不能な人物や状況が設定される。②理解不能な人物と状況に対し、人間は警戒をする。警戒は敵意にまで育ちそうになる。③語り手主人公は、理解不能な相手の行動言動を、なんとか理解し、受容し、善意で解釈しようとする。ここが面白いところで、主人公の人格は、善意において他者を理解受容しようとするものと設定される。④ 主人公語り手は、警戒と善意理解の間で葛藤する。 ⑤葛藤しつつも、ある時間の長さを過ごすうちに、その理解不能な他者に影響を受けて、自分自身の気持ちや言動行動に変化が起きてくる。 ⑥いずれにせよ、他者との関係は単なる「理解する・理解できない」という意識認識の問題にのみはとどまりえず、具体的行為行動・態度を示さざるを得ない。それを「警戒・敵意」モードで行うか「善意・信頼」モードで行うか。そこに行動上の葛藤が生まれる。小説としてのダイナミズムが生まれる。

 二編の小説は、いずれも、この構図の上に成立している。

 これら小説は、ともに、善意の人である主人公の前に、極端に理解不能で、極端に「警戒せざるを得ない」人物や状況が現れる。その人物と交流を続けざるを得ない、逃れようのない状況が設定される。これは、作者の考える、人生の在り方を、凝縮したものであると思われる。

 考えてみれば、家庭生活においても、妻も子供も、常に「理解不能な他者」として、日々、立ち現われ続けるのである。そして、基本的には、逃れようもないのである。それに対し「警戒モード」これはそのまま容易に敵意まで育ってしまう。この警戒→敵意に、対人関係を進ませず、なんとか、理解、信頼、愛に基づく関係に転化していかなければならない。そこの葛藤。

 スケール大きく、文化人類学的に見てみても同じだ。隣の部族集落。突如現れる知らない集団に対しては、人間は当然まずは「警戒」モードであたる。しかし「警戒→敵意」にいきなり進んで、戦争モードにすぐに突入しないための、コミュニケーションの知恵を、人類は育んできた。とはいえ、他者は理解不能であり、食事の饗応をしようが、モノの交換・交易をしようが、他者との間に「信頼」や、ましてや「愛」はそう簡単に築けるものではない。

 もしかして、『白鯨』っていうのは、この他者が、人間ではなくて。巨大なクジラという究極の「他者」として現れるっていうことなのかな。敵意モード丸出しのはずなんだけど、戦っているうちに、信頼とはいかずとも、ある種の尊敬というか、意志のやりとりが生まれてくるのかな。しかしやっぱりクジラだから、理解不能なんだろうなあ。なあんていうことを考えましたが、今、読みたい本が山のようにたまっているから、すぐに『白鯨』にはいけないなあ。だって、あまりに大長編だし。

 他者との関係のとらえ方と、主人公の基本的態度の倫理観に、当時のアメリカなのか、この作者なのか、どちらにより大きく関係しているのかはわかりませんが、非常に明確な特徴が感じられた。そして、筆力。読者の興味を惹きつけながら、状況と人物がいきいきと伝わる小説として書き上げる筆力は、間違いなく、超一級でした。


追記。しむちょんに。バートルビーという人物を理解・解釈するのは無理だと思うんです。『漂流』の方は、最後に答え合わせが用意されていますが。バートルビーは善意が届かないし、悪意があるわけでもない絶対的他者を人物として造形したということだと思うんですよね。それを、小説の登場人物として、なんというか、いるかもしれない人物として描いた、ということが、凄いところだと思うのです。

しむちょんに・その②。バートルビーがカフカ的不条理を、状況ではなく、人物として、しかも「しないほうがいいと思います」という鮮烈に印象的な言葉とともに定着した、というのは、これはたしかに文学的大事件で、種明かしが無い分、その影響が永続的なのだと思います。前に読んだシャーウッド・アンダソンの中にも、ニューヨークだっけ、大都会の狭い一室に引きこもり続ける話があったような記憶があるのだけれど、農村ー地方都市ーに対してニューヨークという本当の大都市がそういう存在を作り出す。カフカの場合は、どちらかというと都市というだけでなく「官僚組織」が、非人間性が不条理を生み出す。状況自体の非人間性みたいなものが際立つのだけれど、バートルビーの場合、アメリカ社会の「人は自由」で、「しかも基本的に、建前的には善意」が「大都会」に集積している、そのはざまに現れる「人間存在側が不条理」になっちゃう、ということを小説・人物にしているから、より現代的、というか、現代の僕ら日本人にも、より自分のことのような感じがするんだと思うなあ。「しないほうがいいと思います」っていうのは、人の、自分の自由に関する意志表明なわけだけれど、それが、徹底的な孤独と、最終的にはあらゆる「働く/他者のためになにかすることの拒絶」、その先には「食欲の否定」という、自己保存、生存自体の否定に向かっても、宣言されてしまっているわけで。と書いてきた。なんか、なかなかうまく分析できたような気がするぞ。うん。なんかバートルビーについて語っていると楽しくなってくる。
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『波』 ソナーリ・デラニヤガラ 著 佐藤澄子 訳 を読んで [文学中年的、考えすぎ的、]

 大学の学部学科(国文学科近現代専攻)以来の友人、佐藤澄子さんが、初めて翻訳した本なので、読んだ。出版当日に買って、できるだけ早く読んで、感想を伝えようと思ったのだが、なかなか、そうそう、すいすいと読める本ではなかった。私にとっては。

 読み進まなかった理由は、翻訳が、どうこうということでは全くない。佐藤澄子の翻訳、どんなかな、という意識は初めの2,3ページを読むうちに消えた。
 
 2004年のインドネシア大地震の津波で、二人の幼い子供と夫と両親を一度に失い、自分だけが生き残ったスリランカ人の女性、経済学者の、回想録なのだが。

 私は、本を、「自分に引き寄せて」読むタイプの人間だ。自分の外側にある「エンターテイメント」とか「有用な情報」というような意識で本を読むことができない。自分の中にある何か、問題意識とか価値観とか記憶とか、そういうものと本を響き合わせて読む。そういう読み方しかできない。自分と隔絶した体験や世界について書かれた本も、自分の中の何かと響きあう、それに意識が向いてしまう。

 この本を、「津波で愛する人を失うという、自分にない、普通にない経験をした人の回想録である」というふうに(だけ)、私は読むことができなかった。

 子育ての幸福な記憶と、子供を失うことの間の関係の話、として読んでしまう。それは、私の中の様々な記憶と体験を呼び起こし、1ページごとに立ちどまり、心を彷徨わせてしまう。なかなか本を読み進めないのである。

 あ、誤解されそうだが、私は子供を幸運なことに失ってはいない。六人全員、健在である。

それどころか、もうすぐ56歳になろうとしているのに、愛する身近な血縁の死、というものを未だ体験していない。妻も六人の子供も両親も、姉と妹も健在だ。
 祖父母はもちろん全員亡くなっているが、私は東京で、核家族で育ち、祖父母は二組とも遠い北海道にいた。祖父母とは年に1回、ほんの数日顔を合わせるだけの関係だったから、どの祖父母とも深い感情的つながりをもつほどの交流は無かった。「父母」の悲しみを通して祖父母の死を感じる、という体験・記憶しか残っていない。祖父母を失ったことが、ダイレクトに悲しい、という体験ではなかった。父が寂しそうだな。母が悲しんでいるな。そういう体験だった。

姉の夫が早くにがんで亡くなったが、あくまで姉の配偶者である。姉の悲しみ、甥っ子たちの悲しみは見てきたが、私と義理の兄の間に、「深い人間的交流」があったわけではない。妻の母親も亡くなっているが、その体験というのは、「母を失った妻の悲しみ」を夫として見守ってきた体験、というのが正しく、私と義理の母の間に、深い心の交流があったことはない。義理の母を失ってダイレクトに私が悲しい、という体験ではなかった。
(思い返しても、仕事人生で私を助け導いてくれた恩人の死、というのが、いままで生きてきた中の死の体験では、いちばんショックが大きかった。血縁での死で言えば、母の弟、叔父の死のショックがいちばん大きい。それはしかし「愛する人の死」というよりは「尊敬したり、人生の志の先を歩む人の死」という種類のショックなのだ。やはり人生56年も生きてきて、愛する近親者の死を、私は体験していないのである。それは本当に幸運なことなのだと思うし、また「愛する者、と感じられる深い心のつながり」を、ものすごく近い家族=妻・こども、両親、姉・妹としか築かずに生きてきた、ということなのだ、と改めて、わかる。)

 私には、妻とともに、六人の子供を育ててきたことの記憶が、ものすごい量、蓄積している。六人という子供の数もあるが、私は、仕事よりも子供とともに過ごすことを何より優先して人生を送ってきた。
(善き父だったというつもりはない。むしろ私の子育ては「星一徹が星飛雄馬をしごき鍛える」ように子供たちに接してきた。全く誇張ではなく、私の子育てはまさに星一徹の星飛雄馬育てそのものだった。大リーグボール養成ギブスを子供たちに着せて、卓袱台をひっくり返して、子育てをした。鍛えたのは、野球ではなく、勉強と柔道と音楽と文学、という、自分が愛し、かつ夢をかなえられなかった領域において。そしてその子育ては、今の価値観で言えば、間違いなくひどい虐待であった。無関心や憎しみで虐待するのではなく、過剰な一体化と期待とで子供たちを傷つけたことは、私の人生のいちばん大きな傷なのだ。そういう子育てをしたからこそ、私の記憶のほとんどは、濃く子供たちの記憶で塗りこめられている)

 そんな私でも、子供が本当に幼い時、というのは、そのような星一徹的葛藤とはまだ無縁の、ただひたすらに子供をかわいがる、子供との時をただひたすら愛おしむ、そういう時間があった。子育てには、そういう「夢のように幸福な時期・時間」というものがある。

「波」の著者は、その「夢のように幸福な子育ての時期の真っただ中」で、津波に遭遇し、すべてを奪われる。

ちょうどこの本を読み始める前日、地元のJR横浜線の電車に乗っていたときのこと。隣の席に、二歳から三歳になろうとするくらいの幼い男の子と、まだ30歳になっていないだろう若い父親が座っていた。男の子は電車のアナウンスがだいすきらしく「次はコブチ、コブチ、有楽町線、日比谷線ご利用の方はお乗り換えです。」などと、ふだんは都内で地下鉄にのっているらしく聞き覚えた乗り換えアナウンスを、かわいらしい声で、ずいぶんと流ちょうに繰り返しては、楽しそうに笑っていた。父親は、いつも子供の世話を細やかにやいているのだろう。それは子供が父親と二人で外出していても、リラックスして、安心して、イキイキとしている様子から、わかる。「ねえ、どっちのドアから降りるの」などと言いながら、親子は手をつないで降りていった。

 私は心の中で「今が人生でいちばん幸せな時なんだよ。大事にしろ。本当に大事に心に刻んでおけよー」と、その若いお父さんに声をかけた。小さな息子の小さな手を握って歩くこと。息子が、お父さんのことを100%信頼して、安心して楽しそうにしていること。その声の響き。握った掌の小ささ、温かさ、柔らかさ。そういうものは、ほんの数年もすると、失われていく。本当に限られた時期の,貴いものなのだ。
もうすこし大きくなり、勉強だの習い事だの、勝ち負けのある何かに、子を参加させていく。勝たせようとする。そういう関わりをする中で、だんだん「ただただ、かわいがる」だけではないものに親子の関係も変わっていく。そういう親に、子も反抗する。やがて、思春期が来て、親の期待とは違う方向に、子は自分の道を見つけ、自立していく。愛する人を見つけ、結婚し、別の家庭を構える。
年に数回しか顔を合わせなくなる。そうなっても、もちろん、子供はかわいい。しかし、あの、幼い時の、あの小さな温かい掌の、きんきんした声の、あの小さな子供は、大人になった我が子の中に面影として残っているだけになる。もう、触ることはできない。

 家の中には、子供たちそれぞれの育った過程の記憶のしみついた、いろいろなものが残っている。小さかった子供はいなくなり、家の中に、一人でいる時間が増える。何を見ても、ふと、小さかった時の子供のことが思い返される。

妻との記憶は、そういう子供の記憶と絡まりあって出てくる分量が多い。私たち夫婦は高校の同級生なので、子供ができる前の、付き合い始めから結婚初めの期間というのも、それなりの記憶の分量があるはずなのだが。「妻と一対一で向き合っている」記憶よりも、「ともに子供たちを見つめ、育てている同志」としての記憶の方が、圧倒的に分量として多いし濃いし重たい。

この本の中でも、記述されている分量で言うと、「子供の記憶」>「子供と絡まった夫の記憶」>かなり少なく「両親の記憶」として記述されている。これは、なんというか、本当にそういうものだと思う。(夫とのなれそめは、本の最後の方に、一章をさいて書かれている。他の章が、現在の特定の場所や具体的なモノから自然に思い出されるエピソードなのだが、子供が登場する前の、夫とのなれそめ章は、「本にするのだから、夫とのなれそめも
ちゃんとまとめておいてあげないとね」というような書かれ方をしている。子供、夫、両親、同時に失った大切な家族であっても、それは人の自然な感情として、質の違いがあるのだということを、私は当然の、むしろ好ましいこととして感じる。この本にはそういう正直さがある。)


 我が家の場合、まだ中学生一人、大学生一人が同居しているし、妻もフルタイムで働きはじめ顔を合わせる時間も子育て時期よりは短くなったとはいえ、ちゃんと毎日一緒に仲良く暮らしている。私は全然独りぼっちではない。ようやく「いまどきの標準サイズの家庭」になっただけなので、実はまだそんな思い出ばかりに浸っているわけではないのだが。

 しかしこの『波』を読んでいると、この世にきちんと生きているのだが、我が家、私の生活圏からは旅立ってしまった子供たちの、幼い日のことが、胸を突いて呼び起こされてくる。

 そして、「もし、あの幸せの真っただ中で、突然にすべてを奪い去られたら、自分はどうなっていたのだろう」ということを考える。いや、考えたくないと思う。今までのところ、そうならなくてよかった、これからもそんなことが起きないでほしいと思いながら。

 生きて自立してどこかで幸せに暮らしていることと、突然死んでしまってもう二度と会うことができないことは、全然違う。当然、全然違うので、その違いを、普通なら、この本では読むべきなのだろう。

自分だけが生き残り、生き続けていくという特異な体験のもたらす感情。その変化のプロセス。現実からも、記憶からも眼をそらせ、呼び覚まさないように注意を払い、自分を消してしまおうとする。激しい怒り。自責の念。何か大きな間違いだ。本当の絶望に直面した人の、固有で稀有な体験。もちろん、そのことも、この本からは伝わってくる。自分の人生には今のところ起きていていない、異様な重い体験として伝わってくる。

しかし、私は、その部分、『特異で自分には起きていないこと』の側面を入り口にしては、この本を読まなかった。
 自分にも起きていること。自分の生活の中にあること。そちらを入り口にして、「起きていない異様なこと」に想像を馳せる。そういう読み方をした。

 子供を育てる、幼い子供とともに生きることの幸せな体験と、それが、自分のもとから去っていったときに、それを思い出して、心の中で、再びともに生きることの切なさ美しさというものの側から、私はこの本を読んだ。私のぼんやりした日常の中のぼんやりした心の動きの中にも、共通して存在する、そうした人間の心の動きを、極限まで研ぎ澄ました形で文章にしたもの。
 私が日々、心に留めずに流れ去らせてしまっているひとつひとつのもの、小さなエピソード、そうしたものが、すべてどれほど掛け替えのない、いとおしいものであるか。

 大災害で、一瞬で家族全員を失ったことによる、普通には起きない深い心の傷、損なわれ方と、子供の自然な成長と自立で訪れる孤独と喪失は、全然、違う。たしかに違うのだけれど、その底には、つながるものがあるのだ。
 
この本の、この著者の素晴らしさは、とても些細な細部に呼び起こされる記憶が、どれもこの上なく切実である。それがここまで正確に記述されていることが、奇跡的なのだと思う。この本は発表をするためではなく、心の傷を癒すためのカウンセリングの一環として書かれ始めたものだと本の最後、あとがきで明かされて納得する。思い出し、書くことで、なんとか自分だけが生き続けていくことを受け入れていく。

それは大災害の生き残りの人間だけではなく、子育ても仕事も自分の元から去っていき、それでもまだ肉体的には死なないという、人生の終了に向けてぼんやりと立ち尽くしている私にとっても、無関係なことではないのだよ。

 佐藤さん、そういう風に、私はこの本は読みました。翻訳の良しあしのことを考えずに、著者の心の動きに寄り添って読み通せたというのは、それは、良い翻訳なのだと思います。



感想、その②

すこし、違う視点で、なんというか、本の中に入って著者に共感して、という立場ではなく、この本が出版され、読まれる、日本のこの社会、という俯瞰的鳥瞰的視点で、考えたこと、できれば佐藤さんに聞いてみたい、話してみたいことを書いてみる。

俯瞰的、鳥瞰的といいつつも、それは、ずいぶん長いこと、僕を悩ませてきた問題なのだが。

 友人が僕を誰かに紹介する場合、まずは「子だくさん」という特徴が伝達される。「五人だったっけ、え、六人! 前に聞いた時より増えたね」なんていう会話だ。

 そして、僕の親しい友人、高学歴でリベラルな友人たちの集まりでは、結婚していない人、離婚して今はシングルの人、結婚しても子供を持たない主義の人、子供が欲しくて不妊治療をしたができずに子供をあきらめた人、一人か二人の、いまどき標準的な数の子供を大切に育てている人、というのが、まあほどよくミックスされているわけだ。そんな中で、誰から見ても、僕は異常値なのだ。結婚や子育てに関わる文学や社会問題について、僕が考えること、感じることは、どうも、世の中の標準から大きく外れているのではないか。僕のような世の中の標準から外れた人間が、この問題に関わることで不用意に意見を表明することは、多くの人を傷つけたり反感を持たれたり、すくなくとも、全く共感されないことなのではないか。「少子化問題」が議論されたりするときに、僕にはすごくたくさん言いたいことはあるのだけれど、どうも、思ったままを言ってはいけないような気がする。内心にとどめておいた方が良いような気がする。なぜなら、僕は、いろいろな意味で、あまりに恵まれているから。

『波』の著者は、津波に遭うまで、本の帯にある通り「すべてをもっていた」のだ。知的な職業。同じく知的な職業についている優しい夫。家事も子育ても平等に参加してくれる。そしてかわいい子供が二人。夫の両親家族も、自分の両親家族も、自分たち夫婦とその子どもたちをかわいがってくれる。ロンドンで生活し、スリランカに長期休暇に訪れる。ロンドンには、同じような恵まれた境遇で、同じ年齢の子供を持つママ友家族がいる。経済的にも子育てについても、なんの不安も不満もなく、幸せな毎日の日常が続いていた。

 この「すべてを持っていた」著者が、「愛する子供と夫と両親を奪われる」という状況なので、奪われた生活の細部を思い出していく、文章にしていくというものが、文学(もともとは文学、他者が読むことを想定せずに書かれたとしても、その価値がある文章表現)として成り立つ。という意地悪な見方というのが、成り立つ。
 どう意地悪か、と言うと、もしすべてを奪われておらず、すべてを持っている段階の彼女が、その生活の中で、ここで「思い出している」生活の細部、幸福の断片を「幸せ実況生中継」として、いちいち文章に書いて発表していたら・・・、それは日本の「子育て芸能人タレント夫婦のブログ」みたいなもので、「自慢か?」と言われるものなのではないか?
文句のつけようのない知的で裕福で幸せに満ちた日常なのだ。その幸福がどれほど本人には真実でかけがえのないものだとしても、それは世の中に発信してはいけない、ひっそり本人の心のうちにしまってかみしめているべきことなのではないか。こうした子育て生活の細やかなディテールが、文章として世の中に発信できるのは、それが「突如失われたもの」として、回想として書かれているから。損なわれた心を回復するためのカウンセリングの一環として書かれたものだから。

 「持っていたものが奪われる」というところに、文学(無関係な不特定の他者が読む価値のある言語表現)は成立するのだけれど、現実に生きる人は、「そもそも持っていない。あらかじめ奪われている」という日常を生きている人の方が圧倒的に多い。そのような「あらかじめ奪われている人たち」が読んだとき、この「一度、すべてを持ち、そして奪われる」という体験談は、どのように響くのだろう。

結婚、子供を持つ、子育てをする、ということに対して、この小説への反応が全く違いそうな、価値観や現状のステイタス、パターンをいくつか挙げてみる。完全に網羅はできないけれど、ずいぶん違う立場の人が、この本を読むだろう。

① 高収入・知的な共働きで、子供を育てる幸せ真っ最中の若夫婦。(奪われていない段階の筆者と同境遇の人)
② 何も奪われないまま、子供が育って、子育てが終了しつつあり、思い出に囲まれて寂しくなりつつある人。(僕のことだ。)
③ 津波や突然の災害や病気・事故などで、幸福の絶頂で突然、子供や夫を奪われた類似の体験がある人。(筆者と同種の体験を、程度の差こそあれした人)
④ 子供を育てることの喜び、幸せを渇望しているのに子供に恵まれない女性。(子育ての喜びから、というか、子育てという人生のステップから、あらかじめ疎外されている人)
⑤ 貧困や夫の無理解の中で、子育てが苦行にしか思えなかったり、子供を愛することができないという苦しみに直面している人。(子育ての「喜び」から疎外されている人。)
⑥ 結婚していても、子供に興味がない、子供が欲しくない、子供以外のこと、仕事や夫婦二人の生活や趣味や社会貢献活動などに十分な生きがいを感じている人。(子育てを喜びとはそもそも考えない、選択しない人)
⑦ 結婚や子供を望んでいるが、様々な理由で、その機会に恵まれず、単身で暮らしている人。(結婚自体から疎外されている人)
⑧ 結婚も、ましてや子供を持つことも望まず、単身を好きで選んで生きている人。(結婚自体を幸福の条件と考えない人)


③の人は、自分の体験と照らし合わせながら、救われたり、自分とは違うと思ったり、いろいろと、体験者としての感想を持つのだろう。
子育ての幸せを現在・または過去において体験している①や②の立場の人には、それを失った場合に自分にも起きること、起きたかもしれないことと照らし合わせて、この本の内容が激しく心に刺さると思う。今の自分を大切にしようと思うだろう。
⑤の、子育てが苦しい人は、「もし失ったら、」というこの本を読んで、今は苦痛に思える子育ての細々した苦労が、かけがえのないものだ、と気づけるかもしれない。

さて、④の、子供が欲しくてできない人からみると、この話は、どんなふうに読めるのだろう。⑥の子供を望まない人には、どんな風にこの話は響くのだろう。⑦の、結婚や子供を望んでもそこにたどり着けない人にはこれほどの苦しみも、贅沢に聞こえるのだろうか。⑧の結婚も子供も望まない人から見ると、「失って苦しむような家族を持つこと」自体が愚かな選択に見えるのだろうか。

僕は、医師の妻を持ち、子供を六人持ち、事故や病気や災害に今までのところ、幸運にも遭わず、経済的にも、(今はいささか破綻しつつはあるが、)なんとかここまでやってきた、「すべてがある」状態で、子供が育ちあがり、自立して離れていく、という「幸福で寂しい」人生の終わりに入りつつある人間として、「それが途中で奪われた人の話」を読んだわけだ。そんな贅沢な僕の感想というのが、この本への評価として、一般性を持ちうるのかどうか、ということが、よく分からない。

「子育てを中心とした家族の幸せ」が「奪われる」、それを思い出して書くということを通して受容していく。という基本枠組み自体が、どの程度の共感幅を持ちうるのか。今の日本の社会の変質(というか、個人的には劣化だと思うのだが)の中で、この本が、誰に、どのように受容されるのかしら。そんなことも、読みながら、考えました。

※ちょうど本を読んでいる最中に、NHKBSハイビジョン103で、紅茶に関連したドキュメンタリーを何本か続けて再放送していて、ひとつがスリランカのヌラワエリアの茶園、そこで働く人たちのドキュメンタリーでした。コロンボの街や、スリランカの子供たち、様々な階層の人たちが描かれていました。かわいい保育園児たちの様子も描かれていたり、大卒で茶園の監督官になった女性の、利発そうな子供たちも登場し、著者の子供たちも、こんなかわいい子供だったのだろうかしら、と思いました。
一方で著者が、スリランカの中では知的にも経済的にも最上位の階級に属する人であること、そういう「持てる人が失う」という、この本の持つ基本性格について、そのドキュメンタリーを見ていて、改めて気づきました。知的経済的にいかに高い地位にあっても、悲惨な体験であることに変わりはないし、知的な人だからこそ言語表現にし得たので、そのこと自体に何か批判的な視線を持ったわけではありません。ただ、あの津波では「文学的言語を持たずに、体験を表現することもないが、同じような悲惨な体験をした人たち」が何万人もいたのだ、ということも、考えました。

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日産はなんで日産ていうの? ルノーと日産、フランス政府と安倍さんの意地の張り合いになるのでは? [閲読注意]

都市伝説、「信じる信じないはあなた次第」の話として読んでね。JOC竹田会長をフランス政府が、というニュースが流れた翌日に書きました。公開しようかどうしようか、しばらく躊躇していましたが、今日、フランス政府がルノーと日産の経営統合を要求というニュースが流れたので、やっぱり公開することにしました。

「日産はなんで日産ていうの」

55年もぼーっと生きてきて、知らなかったことがいっぱいあるので、今になって知ってびっくりの知識をみなさんにも伝えていきます。知識の出どころは、当然のようにググる→wikiを見る、というのが中心です。学生のレポートにwikiはダメよって言われますが、これは学生のレポートじゃないので許してください。

 僕は1988年に電通大阪支社を入社三年で辞めて、東京にもどってきてぶらぶらしていた。そこをマーケティング会社シナリオワークの岩崎社長に拾われて、デスクをただで貸してもらい、東京電通の仕事を紹介してもらって、フリーランスとして東京の電通との仕事をはじめた。そのいちばん最初の仕事が、日産の仕事。
 当時はまだ日産の広告が博報堂一社独占になる前で、車種によって、電通、博報堂が扱いを分け合っていた。博報堂一社独占が発表になる前日まで、僕は電通チームとして日産にプレゼンをしていた。(電通の人間は、当然、誰一人、そんなことが起きるとは知らなかった。大事件でした)
 そんなお世話になった日産が、なんで「日産」という名前なのか、実は、今回のゴーン逮捕事件まで、全然知らなかった。今回、いろいろ調べて知った、日産の名前の由来。それが、「ゴーン逮捕」や、その他もろもろと、こんな関係があるんじゃないの、という話を書きました。

ゴーン会長の逮捕に関して、いくつか言われている疑問、ものの見方で
① ルノーはフランス国営会社、というか、フランス経済界の中心的代表企業なので、ゴーンさんをあんな風に逮捕して仮釈放も認めず、逮捕容疑小出しにしながらずーっと拘留し続けているのは、日本とフランスの外交関係にも悪影響を及ぼすんじゃないかと、と言われていた。
②ゴーンさん逮捕に関しては東京地検特捜部が動いており、東京地検特捜部といえば、政治がらみのややこしい事件を扱う部門ですから、これは経産省も官邸も了承済みで動いているんじゃないの、と言われている。
③そこで、注目されるのが、日産という企業のそもそもの成り立ち。ということで、ここからwiki参照、となるわけですが。
日産の創業者は鮎川義介。以下鮎川義介のWikipediaから引用
「1928年(昭和3年)、義弟・久原房之助の経営する久原鉱業の社長に就任し、同社を日本産業(日産)と改称。久原鉱業は、当時は、第一次世界大戦後の恐慌と久原の政界入りで経営破綻に瀕していた。立憲政友会の田中義一(元陸軍大将)らの再建の懇請に鮎川は渋々応じた。会社を持株会社に変更し、公開持株会社として傘下に、日産自動車・日本鉱業(同年12月、日本産業株式会社に社名変更)・日立製作所・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の企業を収め、日産コンツェルンを形成。
1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車製造株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満州に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満州の開発を促進させると共に、同地をソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[注釈 2]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満州進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満州鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右[注釈 3]ものちに河豚計画に参加。
1937年(昭和12年)、野口遵、森矗昶など当時の「財界新人三羽烏」の一人として[6]、満州国の経済運営で巨大な満鉄が影響力を持つことを嫌った関東軍の求めに応じ日本産業を満州国に移し、満州重工業開発株式会社(満業)として初代総裁・相談役に就任。同時に満州国顧問・貴族院勅撰議員・内閣顧問を兼務した。当時の満州国の軍・官・財界の実力者弐キ参スケの1人とされた。弐キ参スケとは東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)、鮎川義介、岸信介(総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)である。鮎川・岸・松岡の3人は満州三角同盟とも称された。」
じゃーん、ということで、満州における国策会社「日本産業」が、日産の前身なんですね。岸信介と鮎川義介、満州のサンスケのうちのお二人さんだったのです。
さらに言えば、鮎川さんは
明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれた。
そう、岸→安倍首相地元、長州人脈の一人。長州→満州いらいの長く深い縁があるのが、日産自動車なんですね。
つまり、ルノーがフランス国営国策会社であるのと同様、岸→安倍家的に言うと、日産は、縁の深い満州国策企業の中心的存在なんですね。
 ゴーンさんがフランス国策企業ルノーの代表として、日産をフランスのものにしてしまおうという流れに対して、日本という国として、満州以来の国家代表企業、日産を守りたい、という動き、その対決という見方をする人がいるようです。
 もちろん、「つながり」については特に根拠もない都市伝説です。今のところ。ただし、日産の起源が満州国策会社なのは事実。岸信介と鮎川義介に深いつながりがあったのも事実。

 なんて思っていたら、昨夜のこと。
JOC竹田恆和氏を、フランスが調査、訴追か、というニュースが流れ、これがゴーンさん逮捕長期拘留の意趣返しでは、という憶測が一部に流れたのですが。単なる憶測ではあるわけですが、
 竹田恆和氏の息子さんといえば、ご存知、「明治天皇の玄孫」右翼文化人として有名な竹田 恒泰氏。その竹田恒泰氏が、ツイッターでこんな発言をして話題になっています。「JOCの案件は2年以上前から捜査されていて、結局犯罪を証明するものはまだ何も出ていない。この時期にフランスがこれを蒸し返してきたということは、ゴーン逮捕の報復と見るのが普通だろう。」
 ところで、今晩第二回目放送の、NHK大河ドラマ「韋駄天」は、戦前の幻の東京オリンピック招致前夜を舞台にした「オリンピック盛り上げドラマ」なわけですが。(宮藤官九郎脚本で、僕はクドカンファンなので、第一回目もおおいにたのしんだわけですが、)。
 竹田家。オリンピックとのかかわりは竹田恆和氏のお父さん、竹田恒徳(宮)も、なんとJOC会長にしてIOC委員。1964年東京オリンピックの時のJOC会長なんですね。JOC会長、世襲されている!というのもびっくりであります。ぼーっと生きてきたので知らなかった。
 そして、この竹田恒徳(宮)も、実は満州人脈のおひとりなんですね。満州の軍隊と言えば、関東軍なわけですが、1943年から1945年7月という、終戦間際までなんと関東軍の参謀をしていたのです。もっといろいろ深い話は興味を持たれたらお調べください。どんな部隊に関わっていたかを知ると、歴史の闇を思い知ります。相当本当にいろいろ怖いです。
 JOC会長竹田氏フランスが捜査、というニュースが、満州人脈の話とつながるんですね。満州人脈、つまり岸信介、安倍総理のおじいさんと。そして、東京オリンピックは安倍総理何よりこだわりの、そこまでなんとしても日本の総理でいたいという、イベントなわけです。
 東京地検特捜部が動いてゴーン逮捕 日産といえばもともと満州の国策企業。フランスと日本(支配層旧満州人脈)の意地の張り合いか?と言ってたら、突然の、「フランスがJOC竹田会長を捜査」ニュース。その竹田氏のお父上もJOC会長だっただけでもびっくりなのに、元満州関東軍参謀、つまり岸信介と深いつながりのお方とわかり、二度びっくり。
 なんていうのは、ただの考えすぎ。このふたつの事件には、何のつながりもなくて、それぞれ独立した経済事件と、オリンピック招致がらみの買収疑惑事件、だとすると・・・・
 存在もしない「陰謀論」を類推させてしまうほど濃く、旧満州支配層という狭い深い人脈が、戦後70年たっても、日本の上層部に脈々とつながっているということになりますね。その方が、もっとびっくりかもしれません。








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『R帝国』中村文則と、民主主義の限界。政治的な「バカ」問題 [広告と民主主義]

 今年の小説読み始めは中村文則の『R帝国』という、近未来ディストピア政治小説。日本版、オーウェルの『1984』というようなものだ。

 その中で、独裁国家の「党」の幹部が、政治哲学を語るところを、長いけれど、引用します。

「私はずっと思ってきた。国を豊かなまま思い通り支配するにために必要なのは、一部のエリートだけを残し、残りの国民達を無数のチンパンジーのように愚かにすることだと。・・・・我々がどこかの国を憎めと言えばキーキー憎み、さらには自分達の生活が上手くいかないのは誰かのせいだとキーキー騒ぎ、私達が何気なくあれが敵だと示せばそのフラストレーションから裏を考えることなくキーキー盛り上がってくれる存在に。」
「まず国民の大半をわかりやすく言えば馬鹿にしなければならない。もうずっと以前から、私がこの国の支配層に入る前からその動きは始まっていた。」
「まず文化全体のレベルを下げていくこと。くだらないものに人々が熱狂するくらい、文化的教養を下げていくこと。本来学歴と教養は関係ないが、たとえ高学歴な人間であったとしても、教養という言葉に虫唾が走るようにすること。馬鹿な者達が上げるネット上の大声に委縮することで、馬鹿によって社会が変わる構図はもうすでにできあがっていた。」
「そもそも正体を隠してネット上で差別や悪口を書き込むことほどみっともないことはあるまい?だがそういったことを恥ずかしげもなくできる者達がすでに大勢いるのは周知の事実だ。そういった者達が増えれば世界はどんどん愚かになる。我々が望んでいる方向に。愚かな言葉は読む側も無自覚なまま感覚として伝染するからだ。」
「0.1%のエリートに99.9%のチンパンジーが理想だが、実際には、我々はまだ20%のチンパンジーしか造りだせていない。」
「残りの50%は自分達の生活が可愛過ぎるため我々“党”を支持しているが、チンパンジーではない。そして30%ほどまともな人間がまだ残っている。だがそれでいい。20%のチンパンジーは声がでかいため、50%の人間達に影響し、まともな30%はそんな国民達と我々“党”を恐れ沈黙している。世界はつまり今、20%のチンパンジーによって動かされている。これは愉快だ。そうじゃないか?」
(世界をよく変えようと説得しようとするような本では)「世界が変わらないという決定的な証拠がある。この世界に、一体どれだけ素晴らしい芸術作品、どれだけ素晴らしい言葉がこれまでに生まれたと思う?なのに世界は未だにこの有様だ。」
「つまり人間は変わらないのだよ。それらの素晴らしい芸術作品、素晴らしい言葉達は、30%のまともな人間達を勇気づけるか、そんな彼らを0.1、2%増やす効果しかない。だが世界は残り70%により永遠に善の名のもとに戦争をし、戦争の後は少しだけ反省し少しだけ賢くなり、だがそれも時間が過ぎると忘れまた戦争をする。我々は繰り返す。リピートする。それが人類史だ。」

 引用終わり。さて。いつも思うが、僕の文章を読んでくれる人は「まともな30%」で、文化的教養への尊敬、学び続けようといういう意思を持つ人たちがほとんどなのだ。しかし、広告というのは、そういう人たちだけを相手にする仕事ではない。なかった。普通の50%の人たちに届かないとだめだ。その人たちも動かさないとダメだ。それだけでなく、政治的、教養的な意味では20%のチンパンジー化している人たち(ヘイトスピーチをしたり差別したりする人たち貧しく苦しんでいる人たちをバッシングしたりするような人たち)も、お客様である限りは動かそうとする。この「普通の50%」「さらにそれより悪質な20%」という全体構造、それを視野に入れた政治論でないと、有効性は無い。

 僕の友人の多くは、知的でリベラルな人たちが多い。本質的に保守的右翼である僕とは、意見が相違することも多いが、「文化的教養に敬意を払う」という共通の基盤があるから、意見を交換することができる。「まともな30%」の中での意見交換なわけだ。

 しかし、民主主義の現実は、「まともな(かなり高度で複雑な知的議論が可能な30%」「善良ではあるが複雑な議論を政治に関してはしない、またはできない50%」そして、「かなり政治的に愚かで悪質な態度になって権力維持に悪用されている20%」この全体構造により決まる。この社会全体を視野にいれない限り、有効な社会変革理論にはならない。正直、この「全体を見てコントロールするノウハウ」において、自民党は圧倒的に優れており、対抗勢力は、「まともな30%」にしか通じない言葉、振る舞いを続けている。何回選挙をしても負けるのはそのせいだ。

 そして、少なくとも「ふつうの50%」を動かすという技法に関して、広告屋は、いちばん真剣に、職業として取り組んでいる人たちだ。だから、民主主義をまともに働かせるには、広告屋が真剣に考える必要がある。「民主主義と広告」というこのマガジンのテーマ、問題意識は、そこをめぐる考察を重ねていきたい、ということなのだ。

 原発や憲法改正の国民投票と広告の関係について本を書き続けている本間龍氏が、元・博報堂の社員というのも、これに類する問題意識を持っているからなのは間違いない。ただし、広告=悪、電通批判、電通悪者論。そして広告は規制されるべき論なのだ。僕はそこのスタンスは賛成できない。ふだん考えない大切なことについて、なんとか普通の50%の人にも考えてほしいならば、広告屋が、広告の中で得たノウハウの限りを尽くして、それぞれの人が考え、選択できるように提供しなくてはならない。広告を規制しても、結局、50%の人はまともに情報を得ることも、それについて適切に考えることもできない。しようとしないだろうから。

 僕がそう思うのは、この前のノートで書いたグループインタビューで「普通の50%の人たち」をたくさん見てきた経験からなのだ。

 この前のノートに対し、「一般人をバカにしすぎ」という意見をくれた友人がいた。それについて、思うことを以下、書いてみたい。

 僕が33年間、広告の仕事をする間、この前のノートで説明したグループインタビューを見た量は、年間平均50グループ×6人×33年=9900人。まあだいたいこれくらいだと思う。顔の無い定量的9900人ではなくて、一人一人の顔を見て、大切にしていることや悩みを聞いて、そしていろいろな素材、コンセプトボードだったり広告案だったり新商品アイデアだったりに対するそれぞれの反応を見ての9,900人。見てきて思うのは。

 情報を一定時間のどの程度理解処理できるか、という知的能力には、当然に個人差がある。でも、グルインという場所に出席してくれている、その二時間、すべての人が、誠実に、一生懸命、問いかけに答えよう、与えられた情報を理解して、なにがしか、きちんと意見を言おうとした。

 この前のノートで言ったのは、そういう人でも、「仕事、家族、趣味関心事」以外のことについては、普段の生活では、ほとんど考えていない、ということなんだよね。

 人は、自分の仕事についてはすごく真剣に考えている。言語化していなくても、それぞれの仕事のプロであろうと、膨大な情報処理を日々している。その意味で「バカ」な人なんて、ほとんどいない。

 家族のことについても、たいていの人はすごく真剣に深く考えたり心配したり気遣ったりしていて、その意味で「バカ」な人も、ほとんどいない。

 それから、自分の趣味とか、凝っていることとかこだわっていることとか、そういうことについては、プロも顔負けていう部分を、多くの人が持っている。その意味でも「バカ」な人は少ない。

 でも、それ以外のことについて、人は、もう考える余裕がほとんどない。脳の情報処理能力も時間も、目いっぱいなんだよね。

 『R帝国』の党の人のような支配者目線で言えば、「仕事のプロであれというプレッシャーをかけて残業もたくさんさせて、そのことに人の能力時間のほとんどを使わせ」「趣味娯楽を適度に与えて、そこに残りの能力時間を使わせ切れば」「政治のことについて深く考える時間も脳の余力もなくなるから、」「高学歴で頭のいい人でも、政治的にはバカにできる」ということだと思う。

 生活が可愛過ぎる50%の普通の人、とR帝国で言われているのは、「知的能力」の話ではなく、「仕事と家族と趣味」を愛しすぎてそれで能力時間を使い切っているために、政治的にバカになっている人間のことだと思う。

 そういう僕も、2011年3月に、福島の原発事故が起きるまで、まさにこの「生活が可愛過ぎるために政治的なことを考えないというバカ」になっていた。

 そしてそこからの8年間というのは、政治的バカをやめたいと思っていろいろ勉強しなおしてはいたものの、まだ子育ても真っ最中で仕事もフルに頑張り続けなければならない中で、葛藤してもがき続けてきた8年間だったと思う。

 僕が「バカ」という言葉を使うのは、全人格的に「バカ」だという意味で使うのではない。知的能力が劣っているという意味で「バカ」だというのでもない。

 ようやく、仕事にも家族にも時間と能力を使い切らずに済むようになった。「さあて、趣味楽しみだけに使うぞ」っと思えるほど、今のこの日本、この世界はOKな状態ではない。
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グループインタビュー調査って、知っていますか?グループインタビューでわかってしまう、広告の不都合な真実。(今日は、政治、選挙の話は、ほぼ無し。) [広告と民主主義]

  僕の仕事人生で、(もともとコピーライターになろうとした僕としては全く本意ではなかったのだけれど)、結局いちばん多くの時間を費やしたのが、グループインタビューという調査を観察分析して、広告主やクリエーターにレポートをする、という仕事だった。そして、おそらく、僕の能力の適性に合っていたのだと思うが、当初は本意ではなかったものの、その面白さを感じるようになっていった。

 過去の仕事の内容については、守秘義務や、調査対象の個人情報保持の点から具体的な事例について語ることはできないけれど、どんな形の調査なのかについては、説明しても問題ないと思う。(広告業界・マーケティング業界の人には常識だと思うけれど、それ以外の読者のために、基本的なことから説明します。)

簡単に言うと、1グループ六人程度の座談会を数グループ連続して行って、観察する調査。

ある商品について、例えば
グループ1「当該商品をこの半年の間に買って、使い続けている30代 フルタイムで働いている既婚女性」
グループ2「当該商品は買わずライバル商品を愛用し続けている30代 フルタイム既婚女性。」
グループ3「購入継続(グループ1同様)で 30代 パートor専業主婦 」
グループ4「ライバル愛用(グループ2同様)で 30代 パートor専業主婦 」
全グループ共通して、「30代料理好き女性」

などというように、条件の違う数グループを作り、連続して行うことが多い。
 どんな人が、どんなふうに商品の価値を理解して、どんな風に買ったり使ったりしているかを見ていく。逆に買わない人は、何が阻害要因で買わなかったり使うのをやめたりするのかを把握する。
 商品によっては、年齢性別の違いを見たり、悩みの種類や深刻さで分けてみたり、商品を愛用している人、やめてしまった人を比較してみたり、「料理ベテラン」と「料理初心者」を比較してみたりと、課題によってグループ分けの仕方を工夫していく。

既存商品(今すでに売っている商品)の課題を発見するためだったり
新商品の開発をするためだったり
新しい広告が受けるか、効きそうかを確かめるためだったり
いろいろな目的で行われる。

 最近は、「エスノグラフィ」だの「ポストモダン」だのといった、消費者の自宅にビデオを設置させてもらって、自然な使用環境で商品がどうしようされているかを観察する「文化人類学の知見を活かしました」などという、もっと手の込んだ調査手法も進化している。

 しかし、生活スタイルや価値観から購買行動からメディア広告への評価から商品コンセプト、商品自体(デザインや味覚まで)を、一度に評価できるという意味では、グループインタビューはとても効率の良い調査手法なので、定性調査の定番としても、いまも広く行われている。

 ちなみに、定性調査というのは質的観点で課題を発見したり、検証する調査。一方、定量調査というのが何パーセントの人がどう評価する、という量的構造を把握するのは定量調査。調査というと定量調査を思い浮かべる人が多いけれど、広告の仕事をする上では、定性調査、グループインタビューの方が重要だと僕は思って仕事をしてきた。

 そのグループインタビュー、たいていの広告クリエーターは大嫌い。
「調査に集められた時には、調査対象者は、気取ってよそ行きの発言しかしないから、こんな調査は信じる価値がない」といって、調査を毛嫌いするクリエーターの人は多い。そういう、調査固有の問題点は考慮した上でこちらは分析する。調査上のバイアスを差し引いても、発見は多い。
それでも、クリエーターはグループインタビューが嫌い。なぜかというと、不愉快だから。腹が立ってしまうから。

①まずは、びっくりするほど広告というのは、見られていない、届いていない、覚えられていないということに愕然とするから。(定量調査で広告認知を取ると、結構高くでる場合でも、グループインタビューをすると、本当になかなか思い出してもらえない。)

②もし見られていたとしても、自分の作った広告の中で、商品について、広告主に、「こう伝わる」とプレゼンしたようには、伝わっていないことが、広告主の面前で明らかになってしまう。

③素人である調査対象者が、遠慮会釈もなく、「ここが嫌い」「ここが不自然」「このタレントが嫌」「狙いすぎ」などなど、言いたい放題に辛口評論家よろしくこき下ろされる。

 なので、クリエーターのほとんどは「原、グルイン、見てきて。レポートして。俺は行かないから」、と言う。(そんな中、グループインタビューに来てくれるクリエーターというのは、すごく誠実で仕事熱心。頭が下がります。)

 架空の商品で、架空のグルインを再現するとこんなかんじ。
(ほんとに架空の商品です。こんな商品、世の中にないし、このカテゴリーの仕事はしたことかありません。)

 グループインタビューでは、はじめに例えば「最近、はまっていることはなんですか」とか「同居のご家族を教えてください」みたいな話をして、リラックスしてもらいつつ、その人の人となりを把握する。

例えば調味料のインタビューだとするとーーー

「お料理で、こだわっていること、なにか、ありますか」
「ご家族の健康を気を付けているんですね」
「できるだけ自然な素材のものをとりたいのですね」
「そのこだわりのために、買ったもの、使っているものって、ありますか」と、だんだん、その商品の方に近づいていくように、話題をふっていく。

そうすると、愛用者なら「××っていうのを買いました」と、やっとテーマとなる商品について言ってくれたりする。

使用の実感、感想をいろいろ話してくれたりする中で

司会者が「そういえば、どこでその商品のことを知ったの?」と質問すると・・・
さあ、いよいよ「テレビCMで見て」と言ってくれるかなあ、と一同期待するが、相当に広告がうまく効いた場合以外は、まずなかなか出てこない。

「店頭で見かけて、なんだろうと思って」という人がほとんど。「店頭でみかけてパッケージにこう書いてあって」と、なかなか広告の話にはならない。

「TVCM」って、思い出せません?

「うーん、思い出せないなあ」

直前に何億円もかけて、大量にTV広告を出したばかりだったりすると、調査を聞いているクリエーターだけでなく、広告代理店営業の人間も冷や汗が出る。いや、広告主企業の「広告担当」と「商品担当」と「もうすこし偉い人」が一緒に調査を見ていたりすると、「広告主企業の広告担当者」も立場がない。

「あ、思い出した」、と一人が言うので

クリエーターも広告主も、やった!!と思うと

「××が出てる、あれでしょ」

最近リニューアルはしたものの、もともとロングセラー商品なので、5年も前に流した、昔のCMの話をしてくれる。しかも、他の代理店がやっていた時代のものなので、最悪だ。

 1グループ6人の参加者のうち、だれか一人が「あ、あれじゃない」と、ようやく最新作を思い出してくれる。と、他の人の中にも、「あー、あれかー、見た見た、知ってる。そうか、あれ、この商品の広告かあ」なんていう。

 そう、広告は、ものすごくヒットしたCM以外は、まあ、こうして「言われればかろうじて思い出す」くらいの届き方しかしないのだ。こうして「言われれば思い出してもらえる」のは、まあまあ成功した部類なのだ。ヒントを出しても、どうしても思い出してもらえないTVCMもけっこうある。

 司会者「じゃあ、そのTVCM、一回、見もらいましょうか」
座談会室にセットしてあるTVで、そのTVCMを一回だけ見てもらう。

「あー、これだあ。」「この××っていうタレントさんが好き」「この△△っていうのが耳に残るのよね」って、一回見せると、すごく盛り上がるのに、ヒントなしだと、最近見たばかりでも、なかなかTVCMというのは思い出してもらえないのだ。

ふと気づくと、一人だけ、全然反応しない人がいる。「○○さんは、見たことないのかしら」と聞くと

「あたし、テレビは観ません」なんていう人もいれば、最近だと「見たいドラマを録画して、TVCMは飛ばしてしまうので、TVCMは最近、見ていない」なんていう人もいる。

司会者「さて、じゃあ、今、見てもらったTVCMで、印象に残っていること、覚えていることを挙げてもらえるかしら」

タレントさんが何をしていた、どんな音楽がかかっていた、食べ物がおいしそうだった、。決め台詞で「なんとか」と言っていた。おお、いいところまできたぞ、と思っていると

「あのタレントのあのしぐさが気に食わないわざとらしい」というネガティブな意見が。おお、ネガティブなことも言っていいんだ、とその場の雰囲気が変わってしまう。
「食べ方がさ、なんかいや」
「△△なんて、ほんとは料理しないぽくない?」
「ほんとだったら、××さんが食べてくれたら、もっといいのにねー」
いかん、タレントへの不満が出てきてしまった。本当はタレントの適合度は重要な情報なのだが、タレントはそう簡単に変えることできない(年間契約でまだまだ契約期間が長かったり、いろいろな事情がある。)から、不満が出ても、困ってしまうことが多い。

司会者が「商品については、どんなことが分かった?」とすこし話を戻そうとすると

「まろやかな味」っていうこと。

うん。そう。まろやかなんだね。良かった。伝わっていた。

「自然のだしが濃いから、塩分0でも、味がまろやかで味わい深くて体にやさしい」という伝えたいことのうち、「味がまろやか」だけが伝わったようだ。

司会「ところでね、本当は、この商品、こういういいところがあるのだけれど、どう思う」と、言いたいことを全部書いたボード(コンセプトボードという)を見せると、

健康を気にしているから、ここがいいとか、味だけの話じゃなかったんだ、とか、自然のだしなのね、といろいろ納得してくれる。「こんなにいいところがあるなら、TVCMでも、ちゃんと言ってくれればいいのにー。」「そうよね、そうしたら、買うわよねー」と、なぜかちゃんと言ってくれていないTVCMに文句がどんどん出てくる。

「じゃあ、もう一回、さっきのTVCM見てみましょうか」と見せると

「あれ、ボードに書いてあったこと、全部、ちゃんと言っているわねえ。」

「塩分、ゼローって言ってるわね」「ゼロポーズまでしてる」「だから味もまろやかよー」ってね。言ってるじゃない。「自然のだし」って大きく文字がでてくるわねー。「その下に昆布とカツオがひらひらしているわね」

「なあんだ、全部、ちゃんと言ってるじゃない。全然わからなかった、家で見ているときは。」

TVCMっていうのは、これくらいしか伝わらないものなのです。

お茶の間でテレビを見ている人の、情報処理能力というのは、これくらいのものなのです。

こういうことと33年間、戦ってきたのが、僕の仕事人生でした。

CM総研CMINDEX調査によると、毎月、流れているTVCMの種類は4000作品くらい。そのうち、3000人のモニターのうち、たった一人でも「印象に残った」「好き」といって、思い出して書いてもらえるTVCMは1300本くらい。1/3だけ。

残りの2/3、2700本は、反応0。思い出してもらえない。定量調査で言うと、これがTVCMの現実なのです。

何億円も使って、大量に放送しても、びっくりするほどほとんど覚えていてもらえない。見てもらえても、伝えたいことのうちの、残るのはごくわずかな「印象」だけ。本当に伝えたいことのうち、ひとつだけでも残れば大成功。好感度の高い、契約料も高いタレントさんを使っても、嫌いだ、商品に合わない、という意見が出てくることは避けられない。

 商品のTVCMでもこうなのですから、政治についてのTVCMなんて、もっと何倍も難易度が高い。出演者(おそらくは党首さん)の、印象を「嫌い」にしないように出せただけで大成功。「何を言っていたか」具体的政策内容を残すことなど不可能。党首さん印象をよくさせられる「一言」をどう作れるか、作れたら本当に大成功だと思います。



補足

読んでくださったクリエーターの方から、「一般人をバカにしすぎ」というコメントをFacebookでもらいました。「これから作る表現について、一般の人にも参加してもらってワークショップをする方が有意義だ。できてしまった表現についてグルインで評価を聞いても仕方がない」と。なるほど、と思い、その方に返信した内容をつけておきます。

一般人をバカにしているのではなく、一般人の能力や時間の取り合いを、他の4000本のTVCMと、それだけではなく、スマホなど他の画面の情報やその他もろもろのものと取り合いをしていて、お茶の間では、まず、取れない、という事実について述べているのです。「世の中の人の、脳の中の情報処理能力と時間の奪い合い」が、広告産業の本質です。ワークショップという場なら、一定時間、一般の人の脳の情報処理能力を独占できるのだから、有意義なのは当たり前です。グルインの場でコンセプトボードを見せるという「時間と能力の独占」も同様です。
 これだけ人の脳の情報処理能力と時間が激しく奪い合われている状態で、政治的複雑な課題が入り込む隙間はあるのか、と続く話の枕と理解してもらえるといいかと。与党側戦略としては、むしろ「隙間が無くて、考えない人が増えた方が好都合」ということですから、抵抗勢力側がいかに不利か、と話は続くわけです。



 


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試乗もしないで、クルマを買う人 [広告と民主主義]

年明けからnoteも始めてみたのだけれど。ブログの方にも転載して保存しておきます。

スーパーで、日々の食品を買うとき。ベテラン主婦ならば、どこに何が売っているかは分かっていて、どれを選ぶかもほぼ決まっていて、その棚に近づくと、さっと値段を確認して(いつもより高いか安いか)、高いとやめたり、安いとまとめ買いをしたりするかを瞬時に判断していく。賞味期限を確認したり、周辺に気になる何かがないかをちらと眺めつつ、ひとつの商品を買うための判断に要する時間は5秒くらい。足を止めることもなくカートを押して店内をいつものルートで回りながら「5秒の、瞬間的に高度な選択行動」を続けていく。

 そんな「高度高速情報処理をするお買い物マシン」であるベテラン主婦に、選択肢に入っていない他商品や新商品を買わせるのは、きわめて難しい。

 新商品ならば、視界に入ってくる「何か見かけないが気になるもの=新商品かも」「それが私がわざわざ手に取る価値があるかどうか考えさせる」というチャンスもまだある。

 しかし昔からある商品で、すでに見慣れた風景・背景になってしまっている「買われない他社商品」に、再度買われるようになるチャンスは、ほとんどない。

 お酢で言えば、ミツカン。醤油で言えばキッコーマン。そういう定番かつ圧倒的トップシェアの「ふつうの商品」を買う習慣がついてしまっている人が、わざわざ二番手三番手の「普通の商品」にスイッチする意味はほとんどない。特売がかかって極端に安くなったときくらいしかチャンスはない。

 そもそもお酢について、醤油について、納豆について、たまごについて、人は、生活の中で、どれだけの時間、考えると思う?
 「冷蔵庫にある」「減ってきた」「そろそろ買わなきゃ」以外の、商品の質だとか、機能だとか、成分とか製法とか、そういうすこし「深いこと」を、人はどれだけ考えるか。そう、ほとんど、考えない。良く知っている、おそらくいちばんよく売れている、食べなれた味の、いままで特に問題なかった商品を、売り場への「5秒間」だけ考えて、そして、いつものものを買っていく。

 話が飛ぶが、こんなふうに、選挙の投票をする人が、かなりの比率いるんじゃないのかしら?特に何も考えず、「選挙にはいかなきゃね」と投票所に向かい(そこは真面目だったりする)、地元の選挙区の候補が、いつもの顔ぶれだ、と確認し、いつも投票する候補者に入れる。候補者が変わっていても、いつもの政党に入れる。

 いつもテレビで見る、いちばん売れている、いちばん多数派の、政党にいれておけば間違いない。今の生活に、それほど大きな問題はないから。

こういうと、「地方の、年配の人」の話だと思うかもしれないが、実は、都市部の、20代の、投票には行く真面目な人たちでも、この「一番よく知っている、今の多数派の、特に問題ない今の状況を作ってくれている(就職状況も悪くない)、与党に投票する」人が多いことが確認されている。

 と言われると、「いやーそんなことないよ。もっとちゃんと考えている」という人も多いかしら。選挙の投票は、100円200円の食料品を買うほど気軽な選択じゃないよ。少なくとも自分は違うよ。ちゃんと考えている。

 じゃあ、200万円、300万円する、自動車を買うときくらいは、考えたり、検討したりする?20万円の大型テレビやドラム式洗濯機を買うくらいは、比較したり検討したりする?

 ホームページで性能や機能をチェックする。自動車雑誌を読む。口コミサイトで乗っている人の評価をチェックする。その程度のことは、クルマを買うならする。クルマを買うときにする程度の情報収集や分析は、選挙への投票にあたってする。本当に、する?

 そもそもクルマを買うときにさえ、人は、ものをあんまり考えなくなっている。車の購買行動については、もう25年も調査し続けているけれど。メーカーの人もびっくり、事前によく調べもしない、ディーラーに行っても試乗もしないで、他社とも比較もせず、クルマを買ってしまう人が結構いる。増えている。

 スーパーでの食品を買うくらいの情報量で、クルマを買ってしまう人が増えている。いや、好き嫌いはもうすこしあるから、「服を買うくらいの感覚的な好き嫌いで」という方が正しいかもしれない。

 ディーラーの前を通りかかって、なんとなくふらっと入って、色が気に入ったので買いました。

 メーカーの開発の人がこだわっている、安全性も走りの性能も、燃費やなんやかんやも関係なし。デザインが気に入って、特に色が良かった。いまどき、どんな車でも性能にそんなに差はないし。

 クルマを、服を買うくらい感覚的な好き嫌いで選ぶ人が増えている。それと同じくらい、感覚的好き嫌いで、選挙の投票をする人が増えているのではないの。

 そして、クルマを買わない若者が増えているのと同様に、若者は選挙に行きもしない。クルマを買わないから、クルマのことなど知らないし考えない。それと同じくらい、政治のことなど、考えない。

 さてさて、今回がこのマガジンの初回ということで、僕の問題意識をここで一旦まとめておきたい。

 今年は参院選がある。衆参同時選挙の可能性もある。その結果によっては改憲発議から国民投票という流れもありうる。
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読書記録2019年二冊目 『R帝国』 – 2017/8/18 中村 文則 (著)  [文学中年的、考えすぎ的、]

『R帝国』 – 2017/8/18
中村 文則 (著)

今年二冊目。
Amazon内容紹介
「舞台は近未来の島国・R帝国。ある日、矢崎はR帝国が隣国と戦争を始めたことを知る。
だが、何かがおかしい。
国家を支配する絶対的な存在″党″と、謎の組織「L」。
やがて世界は、思わぬ方向へと暴走していく――。
世界の真実を炙り出す驚愕の物語。
『教団X』の衝撃、再び! 全体主義の恐怖を描いた傑作。」

ここから僕の感想。
この作者の小説、何冊か読んでいるけれど、いちばん良い。(この作者の小説が嫌いな人にもおすすめ)。
 絶望的に暗い状況を書くのがこの作家で、「あまりに救いがないよなあ」といつも思うのだが。この本は、この日本の、この世界の現実そのものの醜さを、これでもかというほど冷徹に露悪的に描いているので、つまり、あまりに現実そのものなので、この世界で生きていく以上、なんとか希望を残したいという作者の願いがにじみ出るものになっています。とはいえ、ほとんど救いは無いけれど。

 実力のある作家たちか、現実の政治状況に対する批判を直接扱った小説をたくさん書いた時代として、今の時代は文学史的に後から位置付けられると思う、と前にも書いたが、その時代を代表する小説として、評価されると思う。文学としても素晴らしい。
 僕は大江健三郎の小説では『洪水はわが魂に及び』がいちばん好きなのだが、読後感がなぜかあれに近い。絶望的なのだが、なんというか、美しさ、「清い」かんじが残る。大江作品では、その「清さ」は「自然や子供」の中にあるのだが、この作品では、人工知能の中にあるという、そこが極めて現代的でした。

現代人必読度120%


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『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』 佐藤 健志 (著) なんで装丁がふざけているかは最後まで読んだらわかります。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『平和主義は貧困への道 または対米従属の爽快な末路』 単行本 – 2018/9/15
佐藤 健志 (著)

 今年一冊目の読書レポート。装丁も帯も、ものすごくふざけているが、最後まで読めば意図してのこととわかる。この作者、九十年代に『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』を書いた人だった。あのときから、興味領域とアプローチの仕方に親近感を覚えていたのだが、何十年もたって、たまたま読んだこの本も、考えていることもアプローチも、近いなあ、と思いました。政治学者、佐藤誠三郎氏の息子さんで、僕より、4学年ほど年下だろうか。東大教養学部国際関係論卒というのは、ごく普通の意味でも秀才だったのだと思う。
 今は保守派の論客としてけっこうたくさん本を書いているようだが、この本の紹介をツイッターでたまたま見かけるまでは全然気づかずにいました。保守派と言われているが、読んでみると、右派左派と分けることが不適切な、きわめて高度な政治文化評論でした。岸田秀『ものぐさ精神分析』加藤典洋『敗戦後論』『戦後入門』内田樹『日本辺境論』白井聡『永続敗戦論』、というような戦後論、対米従属問題を考えて読んできた人には必読の内容かと。そういう真面目な本と並べてみるには装丁が不適切に思われるだろうが。しかし、内容はそれらと並べて論じる価値があると思いました。
 一昨年ヒットしたアニメ映画とその原作漫画『この世界の片隅で』、小津安二郎『晩春』や、大岡正平『野火』など漫画映画文学などの読み解きを交えながら、(こういうアプローチがこの作者の特徴なのだと思う。学術論文としては、「その解釈は強引だろう」となるが、評論としては、わかりやすいし面白い」日本と米国の関係、戦後から現在に至る政治状況をきわめて論理的にとは明かしていく。
 政権支持右派にもリベラル左翼にも同じように辛辣な批判を浴びせている点で、どちらの立場の人にも是非とも読んでほしい。分析としては、ぐうの音も出ないくらい正しいと思いました。

https://www.amazon.co.jp/dp/4584138842/ref
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大晦日のテレビ 感想 主に格闘技 [スポーツ理論・スポーツ批評]

あけましておめでとうございます。
大晦日のテレビ、みなさんの投稿では紅白について話題ですが、私はいまだに「大晦日と言えば格闘技」なので、紅白は耳で聞きながら(おお、MISIAのロングトーンすげー」とか思いながら)、「井岡四階級制覇なるか&サスケ完全制覇なるか」TBSと「RIZIN14」フジテレビ の方をメインで見てました。格闘技マニア向け感想。

① 井岡一翔×ドニー・ニエテス。どちらもストロー→ジュニアフライ→フライの三階級世界王者となり、この試合で四階級制覇を狙う超一流ボクサー同士。この試合、ダウンシーンひとつもなく12ラウンド判定になったのだが、ものすごかった。何がすごかったって、お互いのディフェンス技術がうますぎて、パンチがほとんど当たらない。ものすごい数、お互いにパンチを至近距離で繰り出しているので、「おたがいに手を出さない凡戦」では全くないのだが、とにかくお互いディフェンスがうますぎてパンチが当たらない。12ラウンド戦っても二人とも顔が全然腫れていない。パンチの打ち方の差、強くインパクトする打ち方をするニエテスの方が、有効打が多かった印象を与えることに成功して、判定でニエテスが勝ったが、まあ、ボクシングマニアには超面白い試合でした。普通の人が見ると、全くつまらなかったと思いますが。
②RIZIN14の、宮田和幸×山本アーセン。昨年は山本KIDが若くして亡くなるという私にとってはショックな出来事があったわけですが、KIDに跳び膝で3秒KOされたことで人生が狂ったともいえる宮田和幸と、KIDの甥っ子アーセンの対決。格闘技人生から引退する最後の試合で、山本KIDとの因縁を清算したい宮本と、KIDの魂を引き継いで最強への道を歩みたいアーセン。試合は、パウンドを取るときに前に重心がいきすぎるアーセンの欠点をとらえて宮本が腕をとって関節を狙う、という展開で、結局、アーセンが押していたのに、肩を極められて負けた。我が家では柔道家の三男と、居間で技術再現取っ組み合いをしながら見ました。アーセン未熟。KIDはもっと寝技もうまかった。宮田は、人生の何かを清算した、なんともいえない表情をしていて印象的でした。
③浅倉カンナ×浜崎朱加。浅倉カンナちゃんは、天心くんの彼女なのだが、残念ながら負けちゃいました。
④という中での、天心くん、メイウェザーとのボクシングルールでの対戦。負けちゃったけれど、キックボクサーがキック使わずにボクシング技術だけで、世界最高のボクサーと対戦したら、負けるに決まっているので結果は当然でした。これで天心君がキックボクサーとしても弱いと思ってしまう人が出てくると困るので言っておきますが、天心君はキックボクサーとしては本当に天才です。UFC日本人最強の堀口恭司ともキックルールでなら勝っている。(だから堀口が弱いわけではない。UFCルールなら堀口は圧倒的に強い。)格闘技というのは、ルールの違いで有利不利が大きく変わります。ボクサーが総合格闘技ルールでは弱いのも、そのせいです。
 というわけで、メイウェザーが今までの印象以上にパンチが強いことが見られたのと、天心君の勇気が見られて、大変面白い試合だった、というのが感想です。格闘技オタク的に試合内容をちょっと分析すると、メイウェザーが天心君のこと壊さないように、事前ルール合意で、メイウェザーは10オンス、天心君は8オンスのグローブをつけていて、8オンスのグローブというのはかなり薄くてペラペラなので「痛い」「折れる」「切れる」「ボディが効く」という意味では危険なのですが、10オンスは柔らかいけれど重たいので、頭部に当たると「くらっ」とくるという特徴があります。なので、メイウェザーは、天心君のテンプル(こめかみ)や頭のてっぺんをかするようなパンチをわざと打っていて、天心君の首ががっくんがっくん揺れて、かなり強烈な脳震盪的ダメージがあって、そのためにあのような倒れ方、立とうとしてもがくが壊れた人形のようにばたばたのたうちまわってしまう、ということになったのですね。

そして、下に紹介した映像、イベントエンディングで出場選手がリングに上がったところで、涙が止まらない天心君を、隣の浅倉カンナちゃんがペチンとしながら慰めるの動画。高校生カップル的かわいい感じが最高でした。

紅白は年が明けてから録画で見直しましたが、桑田さんにブチューとキスをして、腰をくねらせまくる(胸騒ぎの腰つきを表現し続ける)ユーミンのことを、松任谷正隆さん(ユーミンのステージのとき真ん中でつまらなそうな顔をしてキーボード弾いていた)が、「ええかげんにしなさい」と止めに出てきたら面白かったのに、と誰かがツイッターでつぶやいていたのと同じ感想を抱きました。サラブライトマンさんが小林幸子枠になっていたのも面白かったし。MISIAの超ロングトーンに対抗するにはこれしかない、と、ゆずがマイクを外して生声で会場に歌いかけたシーン、会場客席の音を拾うマイクの音をミキサーの人がすかさず上げれば、ゆずの「生声」すごい感、伝わったのに、単に放送事故みたいに無音になってしまいました。あれはNHKのミスだ、と妻が怒っておりました。かつての和田アキ子みたいに、マイクなし生声チャレンジする人は出てくるので、そのときの対応がなっていない。でした。

引用 浅倉カンナと天心君動画はこちら
アキヒロ!@プロレス&格闘技専用 on Twitter
“大晦日のRIZIN14のエンディングで、涙が止まらない那須川天心をペチンする浅倉カンナ。 二人とも日本格闘技界の至宝。…
https://twitter.com/Akihiromma/status/1080004795325341696
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