今年の読書記録 『カンディード』ヴォルテール (光文社古典新訳文庫) 古典の現代性に驚く [文学中年的、考えすぎ的、]

しむちょん、読んだよー。と叫ぶのは久しぶり。ややこしい時代背景の中での、思想史的大転換点の、というような解説がついていて、それはそれで解説を読めばなるほどと思うわけですが、お話としては荒唐無稽な大冒険譚で、エンターテイメントとして面白い。露悪的批評精神まるだしで、欧州各地から南米からトルコまでを舞台にして、主人公がやりたい放題大暴れをします。
 まじめな議論としては、1755年にポルトガルが没落するきっかけとなったリスボン大地震と津波、というのがあって、それをめぐって、①「栄華贅沢をきわめたリスボンへの、神様の天罰を唱えた古い教会権威=中世、神様中心世界観のいちばんおしまいの時期」②「科学的啓蒙時代幕開けとして、神様とは関係なく科学的に災害の原因を究明しようとしたり、理性的合理的に復興にあたる政治家が出てきたり=近代の始まりの時期」。かつ、③当時のリスボンは、パリ、ロンドンなどと並ぶ大都市であったため、災害の惨状がヨーロッパ中に伝わり、こうした解釈、論評がヨーロッパ全体で起きた=メディア型災害という側面。
 作者は「古臭い宗教哲学者たちの、どんなひどいことが起きても、この世界は神様が作ったものだから、素晴らしいのだ=最善説」への批判のためにこれを書いた。このあたりについて、ルソーとの間で論争もあったらしく、自分の意見を真面目な論評としてではなく、荒唐無稽な冒険談(解説者は哲学コントと呼んでいて、なるほどと思う)で書いたのがこれ、ということなんだそうだ。
 リスボン大震災がポルトガル没落のきっかけになったように、東日本大震災が日本没落のきっかけとなり、また、いろいろな価値観の大きな転換点になるのでは、と、このふたつの震災を文明史的に重ねる人もけっこういる。(震災直後に、そういう発言を見ることが結構あった。)
大冒険の果てに主人公がたどり着いた生き方、というのが、これがなかなか、現代的というか、震災後にこういう価値観転換と生き方変化をした人は多いよなあ、という、250年の時を経ての、奇妙なまでの一致というのが、大変に興味深い。
 古典というのは、古くならないものだなあ、と、びっくりした一冊でした。
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カンディード (光文社古典新訳文庫)
カンディード (光文社古典新訳文庫)

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今年の読書記録 『岩場の上から』 黒川創 (著) ベテラン作家評論家の焦燥感について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『岩場の上から』 黒川創 (著)
Amazon内容紹介から
『内容(「BOOK」データベースより)
2045年、北関東の町「院加」では、伝説の奇岩の地下深くに、核燃料最終処分場造成が噂されていた。鎌倉の家を出て放浪中の17歳の少年シンは、院加駅前で“戦後100年”の平和活動をする男女と知りあい、居候暮らしを始める。やがてシンは、彼らが、「積極的平和維持活動」という呼び方で戦争に送り出される兵士たちの逃亡を、助けようとしていることを知る。妻を亡くした不動産ブローカー、駆け落ちした男女、町に残って八百屋を切り盛りする妻、役場勤めの若い女とボクサーの兄、首相官邸の奥深くに住まい、現政府を操っているらしい謎の“総統”、そして首相官邸への住居侵入罪で服役中のシンの母…。やがて、中東派兵を拒む陸軍兵士200名が浜岡原発に篭城する―。“戦後百年”の視点から日本の現在と未来を射抜く壮大な長篇小説。』

ここから僕の感想。
 震災・原発事故以降、考え続けてきた様々なテーマが、無関係ではなく。ひとつの関係図としておおよそ見えてきた。しかし、それに対して「どうしたらいいのか」についてはまだよくわからない。むしろ、問題の根深さ深刻さが見えてくるほどに、立ち尽くして途方に暮れる。
 という、今の僕と同じような地点に、この作者はいるようである。関心の領域も、その立ち位置もよく似ている。しかし呆然と何もせずにいる僕とは違い、この作者は、その問題の在り方の全体を、小説という形にして、世に問おうとした。というのが、この作品。大変な力技である。現在、モノを考えるタイプの人なら、考えざるを得ない多くの問題課題を、もう、できる限りもれなく扱おうという意欲にあふれた力作である。
 しかしまた、現在の諸課題の相関関係を描き出す、それ以上の何かに到達しているか、というと、そういう読後感は無い。小説的興奮とか、文学的感動とか、そういう「文学的な意味での傑作」というものでは、残念ながら、ない。
 震災後、「何かのテーマを考えるために、それについて書かれた小説を読む」という読書の一ジャンルが、僕の読書生活の中に生まれた。そうしたジャンルの小説に共通する、物足りなさというのがある。登場人物が、その行動が、その言動が、(もちろんそれなりに上手に人物造形はされているのだが、) なんだか全部、あくまで筋を進めるための「キャラクター」でしか無いように感じられてしまうという欠点。

 各新聞の書評欄でも取り上げられたにもかかわらず、その後話題になることもあまりなく、Amazonのレビュー欄にも一件のレビューもない、というのも、なんというか、そういうこの本の文学的魅力の低さのせいかなあ、とは思う。
 
 この前紹介したヴォルテールの『カンディード』は、時の政治、思想的課題に対する態度・意見表明を、評論・論説ではなく、小説の形で著したものだったように、文学には、そういうジャンルというものがある。のだが。しかし、あれは純粋に冒険文学としても面白かったんだよなあ。

 原発・核廃棄物・戦争可能な国になり、若者が海外に派兵されるということ、そういう現在の先にある未来がどのようであるのか、ということを描き出すというのは、小説にしかできないこと。そのことをテーマとしつつ、小説として、文学として、強烈な魅力・魔力を発揮するような小説っていうのは、出てこないかなあ。

 とはいえ、私の友人の多くが、考えては様々に意見を表明している、原発、核廃棄物処理、戦争法案、自衛隊の国軍化、憲法改正、軍事産業を経済成長のエンジンとする経済政策、つまるところ現在の安倍政権が進めている様々な政策と政治の方向に対する疑問反対。こうしたこと全体をどう関連付けて理解し。そしてそれに対して、どのように生きていこうか。そんなことに興味のある人は、読んでみる価値はある。結構。随所に、深い考察や、なるほど、という提言があります。



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今年の読書記録 『奥のほそ道』 リチャード・フラナガン (著), 本当の文学の力 [文学中年的、考えすぎ的、]

『奥のほそ道』 単行本 – 2018/5/26
リチャード・フラナガン (著), 渡辺 佐智江 (翻訳)
Amazon内容紹介
「ブッカー賞受賞作品
 1943年、タスマニア出身のドリゴは、オーストラリア軍の軍医として太平洋戦争に従軍するが、日本軍の捕虜となり、タイとビルマを結ぶ「泰緬鉄道」(「死の鉄路」)建設の過酷な重労働につく。そこへ一通の手紙が届き、すべてが変わってしまう……。
 本書は、ドリゴの戦前・戦中・戦後の生涯を中心に、俳句を吟じ斬首する日本人将校たち、泥の海を這う骨と皮ばかりのオーストラリア人捕虜たち、戦争で人生の歯車を狂わされた者たち……かれらの生き様を鮮烈に描き、2014年度ブッカー賞を受賞した長篇だ。
 作家は、「泰緬鉄道」から生還した父親の捕虜経験を題材にして、12年の歳月をかけて書き上げたという。東西の詩人の言葉を刻みながら、人間性の複雑さ、戦争や世界の多層性を織り上げていく。時と場所を交差させ、登場人物の心情を丹念にたどり、読者の胸に強く迫ってくる。
 「戦争小説の最高傑作。コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』以来、こんなに心揺さぶられた作品はない」(『ワシントン・ポスト』)と、世界の主要メディアも「傑作のなかの傑作」と激賞している。」

しむちょーん、読んだよー。本物の小説です。本物の文学です。としか、言いようがない。
こういうすごい小説は、Amazon内容紹介を読んでしまったとしても、まったくネタバレの心配がないのだよな。あらゆる細部が、あらゆる人物が、どのエピソードのひとつもが、息詰まるような切実さ、真実に満ちています。戦争を舞台にし、それを軸にたしかに小説は進みますが、それにとどまらない、何人もの異なる人生のまるごとが、驚くべき多様さをもって描きこまれています。

 話はかなりズレるのだけれど、先日、大学の教養課程のときのクラス会というのがあった。中にはずいぶん偉くなっている人もいるけれど、多くはそろそろ「社会人キャリアの終わり方」、ひいては「人生の畳み方」に悩むお年頃なわけで。私もフリーランスだから、年とともに仕事はどんどん減っているので、近いうちに仕事は自然消滅になるだろうから、ここから先は、良い本、文学思想の本当に優れた本を読んでは、モノを考える、という本当にやりたかったことを、頭が働くうちにやっていきたいものだなあ、というような希望を語ったりしたのだが。そうすると、「原は悠々自適だね。奥さんがお医者さんでうらやましい」というようなツッコミが入ったりする。
 文学を読む=趣味=悠々自適、ゆとりがあってうらやましい、という理解のようなのだが、違うのだよなあ。そういえば、電通同期の友人と話していても、同様のつっこみを食らうことが多いので、世の中一般での「文学」って、そういうふうにしか思っていない人が大半なんだろうなあ。
 お金になる=仕事。お金にならない=趣味、というとらえ方なのかな。読書という読むだけ体験=お金にならない=趣味、ひまつぶし、という捉え方なのかな。

 文学は娯楽ではない。文学は趣味とは違う。僕らの大学のクラスの半数以上は「文学部」を出ているはずなのだが、文学にその程度の価値しか見出していなかったのかなあ、と正直、非常にさみしく思う。
 まあ文学部と言っても「社会心理」あたりを実学として学んで、広告マスコミ業界で仕事をしてきた秀才の皆さんからすると、「いつまでも文学なんて青臭いこと言ってんの」と思うのかもしれんがなあ。

 本当に優れた文学においては、一冊の本には、人生全体や世界全体というサイズの何かが詰まっていて、その本を読む前と後では、自分というものが深いところで変わる。そういう体験を通じて、世界のとらえ方、人生の意味を自分の中に広げていくか、というのが、文学を通して生きる、ということなのだけれど。

 というように本を読む人には、ものすごくお勧めの本です。包含されている世界と人生の奥行きが、とてつもなく大きな本です。

 この本で言えば。先の戦争のときの、日本軍士官、教育も教養もある人たちが、どのような「思想と思い」でもって、捕虜虐待をしていたのかしら、ということについて。この作者は、虐待されたオーストラリア捕虜を描くだけでなく、虐待した方の人間も、なんとか理解して描こうとする。それは、私がこれまで読んだ日本人小説家、日本文学で描かれてきたものとは、けっこう異なる。初めて読む、日本軍人の姿と思想であったりする。特定の政治的立場からステロタイプ的批判的に描く、というようなことがない。理解不能な日本人の行動と思想を、なんとか、納得できるものとして把握し、描こうとするその文学的な想像力と筆力には驚かされる。階級の異なる何人かの日本人士官、兵士、朝鮮人軍属、どの人物についても、生きた人物として描かれていく。単に収容所のシーンだけでなく、その前後のそれぞれの人生までもが深く描かれていく。
 もし、例えば、現代の、イスラム原理主義者が日本人ジャーナリストを拉致し拷問する、という設定の小説が日本人の手によって書かれるとして、その拉致拷問を行うイスラム原理主義者の、「現場の若者」「現場指揮官」「指導者」それぞれの人物像、思想と動機、宗教理解の深さの違い、背景を、細かに文学として納得できるように、しかもイスラム教徒側が読んでも納得できるように書くとしたら、それがどれくらいの難易度の高いことかは想像できると思う。
 たまたま取り上げた日本軍人の描き方、というのも、この本の中に包含されている、ごく一部でしかなくて、戦争文学ということで人が普通想像する範囲を、はるかに超えた様々な人物とエピソードが、どの一部をとっても、身もだえしたり、ため息がでたり、激しい生理的嫌悪感を催したりするような見事さで描き出されています。

 途中、「ここで終われば感動的」というところを超えて、小説がなかなか終わりません。「欲張りすぎて失敗したかな」と思いつつ読み進むと、響きがどんどん複雑になって広がっていきます。伏線の収拾のような小手先的技巧を超えて、小説が膨らんでいきます。大作ですし、長いし、複雑だし、ですが、もし読み始めたならば、ぜひとも、最後まで、読んでください。
 



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今年の読書記録。『戦争まで』加藤陽子著 被害者目線ではない、戦争のとらえ方について。 [文学中年的、考えすぎ的、]

『戦争まで』歴史を決めた交渉と日本の失敗 単行本(ソフトカバー) – 2016/8/9
加藤 陽子 (著)
Amazon内容紹介から。「かつて日本は、世界から「どちらを選ぶか」と三度、問われた。
より良き道を選べなかったのはなぜか。日本近現代史の最前線。」

ここから私の感想
 前著『それでも日本人は「戦争」を選んだ』の、「高校生に語る」スタイルをさらに進めて。先の大戦に至る、内外の外交文書など大量の一次資料を中高生とともに読みながら、当時の内外情勢、意思決定に関与したそれぞれの人物の意図したことを分析考察していく。一方通行の講義ではなく、中高生との質疑応答、やりとりが素晴らしい。中高生の鋭い質問や資料の読みに、加藤先生も新しい発見をしていく。「中高生向けに平易に語った」などという生易しいものではない。(ここに参加している中高生はそこらの大人より、はるかに博識だし読解力も考察洞察力もある。)
 そして、最終的に、先の大戦に負けたことの本質、中心に何があるかに迫っていく。

 日本における、戦争に関する書物というのは「被害者、悲惨な目に合った一般庶民や普通の兵士たちを通して戦争の悲惨さを記録する」というカテゴリー、「当時の軍部の愚かしさや残虐さを告発糾弾する」というカテゴリーが多くあり、もちろんその意義は大きいのだが、それらは全体として「日本人の大半は先の大戦の被害者だった」「戦争は悪辣で愚かな指導層が引き起こしたものだ」という、戦争があたかも天災であったような、一般市民には避けようもないものであった、という「被害者視点での戦争観」を作り出してしまう。

 この本は、そういう戦争本とは、かなり異なる視点、立場で書かれている。戦争とはあくまでも人間の選択の結果として起きるものであり、その戦争までの意思決定に関与した人物=各国の国家指導者や軍幹部、外交官など官僚、天皇陛下自身やその側近らの「その人たちの書いたもの、語ったことの記録」を丹念に追い、それぞれの人物像、その当時の立場、狙ったこと、どのような選択肢の間で迷ったか、国家の意思決定の中でどのような対立意見、議論があったか、最終的にそのような選択に至ったのはどのような合理的な理由や偶然の事情や、ものごとのタイミングが重なったのかを、重層的に解き明かしていく。

 さらに言うならば、戦争に至るまでのいきさつを「軍部の悪辣さ」「かかわった人間の愚かしさ」としてテレビなどでもっともらしく語られるスタロタイプな物語やエピソードについて、資料に基づき、そうではなかった可能性、各部署各立場の人間の多くは極めて合理的に判断をし、未来も的確に予測していたことを明らかにしていく。ならば、どこで、なぜ、間違ったのか。

 「戦争の悲惨」について書かれた本、語られるテレビドキュメンタリーなどの方に多く接している私としても、そういう悲惨さと、こうした「意思決定者の側の事情や考え」の関係をどうつなげて飲み込んでいいのかは、どうもはっきりした考えを持ちにくい。
 指導層の、当時の考えや言動行動を見ても、結果としての「誤り」「弱さ」はあれ、極端な「悪意」や「愚劣さ」があったようには思えない。それは、今、私が日常接している「企業の戦略を考えている企業幹部」が、さまざまな意思決定をする。それについて戦略を立案する参謀役含め。多くは有能で善良な人たちが、真面目に職務に当たっている。その中で競争相手との戦いに、勝ったり負けたりする。時になんらか不祥事トラブルをその企業が起こすことを経営者や戦略参謀として防げなかったりするが、そうであっても、極端な悪意があることはほとんどない。。「国家、戦争」という場面でも、「各個々人の行い、できること、やっていること」でいえば、そんなに大きな差があるわけではない。
 企業戦略と異なる点があるとすれば、自分の決定により多くの人の命をやりとりすることになる、という点。また同時に、戦前の日本では多くの政治家に対するテロがあったために、意思決定にかかわることは自身の命の危機がリアルにあった。(天皇でさえも。)。とはいえ「命がかかっているから」といって、やはり意思決定のためにできること、やることに大きな違いは無いのである。情報の収拾と分析。いくつかの妥当なシナリオを立てる。その優劣を比較する。関与者の意見を聞く。交渉する。(提案し、議論する。) 個人として交渉相手や協力者に信頼されるようにふるまう。そうした当たり前が、どこでどう機能しなくなるのか。
この本の結論としては、「英米側の掲げる戦争目的が、最強の資本主義国家の彼らにとって有利なルールであったのはもちろんです。そして戦争の途上で、英米側の戦争目的に共鳴できる国家を募り、増やしていって、最後に、のちの国際連合の基礎にしていく。自らの利益の最大化を図りつつも、他のものもその道に仮託することで利益が得られるように配慮すること、そのような行為を、普遍的な理念の具体化、というのではないでしょうか。日本の場合、この、普遍的な理念を掲げることができませんでした。」というあたりに収れんしていく。こうした視点で、歴史とともに、今の政治を考えるきっかけにもなる本でした。

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映画『ジュリエッタ』と小説『ジュリエット』。どちらを先に。 [文学中年的、考えすぎ的、]

ノーベル賞作家、カナダのアリス・マンローの『ジュリエット』という短編集の中の、連作となっているものを、スペインの映画監督(『オール・アバウト・マイ・マザー』の)ペドロ・アルモドバルが、舞台をスペインに移して映画化したのが『ジュリエッタ』。映画の方から観てしまった。
 小説・本の方のAmazonの内容紹介が(すごいネタバレあり、注意)「海で死んだ夫。突然姿を消した二十歳の娘。届かない互いの思いを描く連作短篇を巨匠アルモドバル監督が映画化! ジュリエットという一人の女を主人公に、行きずりの出会い、妊娠と結婚、夫の死、そして母娘の愛と確執を描く連作三篇を中心に、人生の不可解をそのまま投げだすような、ビターでサスペンスフルなマンロー円熟期 の短篇集。傑作揃いのマンロー作品のなかでも特筆すべき連作を、長年の愛読者であるアルモドバルがつい に映画化。」と、なぜか半分、映画の紹介のようになっている。本の方、読んでいる途中で、本をなくしてしまって(家の中で行方不明)、どうしようかなあ、と思っていて。そうしたら、WOWOWで映画をやっていたので録画してしまい。小説読みかけなのに、映画を見るべきか見ざるべきか悩んでいたのだが、見てしまった。面白かった。作家がすごいのか、監督がすごいのか、というと、どっちもすごかった。
 女性の心理描写のすごさがアリスマンローの小説の特徴というか、男性作家では、もう、絶対無理という感じがするんだよな。映画だとポンポンとテンポよく筋が進んでしまって、たくさんいる女性登場人物たちそれぞれについては、わりとサラっと描かれてしまうのだけれど、これ、小説だと、それぞれの人生の重みからくる、微妙な心理の動きが、なんか読んでいていちいち動揺してしまうくらいの感じで表現されていきます。ということで、読みかけの小説の方をなんとかしたくなったのだが。しかし。映画の冒頭でのセリフに「本の二度買いはしたくないのよ」というのがあり。そうなんだよな。いろいろ悩む。
 映画の方も、女性を描かせたら世界一というか、女性を描く映画しか撮っていないんじゃないのというアルモドロ監督で、この監督の映画の女優さん、とにかく美人。すさまじい美人。そういえば、ペネロペ・クルスが国際的に有名になったのは「オール・アバウト・マイマザー」だった。(この映画には出ていません)。若き日のジャリエッタを演じるアドリアーノ・ウガルデもきれいだけれど、現在の、50代かな、のジュリエッタを演じるエマ・スアレスさんのきれいなこと、まあ。あと、家の中の装飾とか美術とかの色彩が、とてもきれいな映画です。
 カナダの小説を、スペイン舞台に移したために???になっているのが、主人公と夫が出会う長距離列車が、雪原の中を走り、窓からヘラジカが並走しているのを見る、というシーン。スペインにこんな大雪原はあるの?ピレネー山脈ふもとならあるのかな・でもヘラジカはいないんじゃないの。あれ、ヘラジカじゃないのかな。あんな大きいシカ、スペインにいるのかな。まあ、気にしなくてもいいけれど。



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